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第31話
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「本人は平気そうだったし、明日の朝には病院に放り込むんだ。そう肩肘張るな、先生。手に余れば、すぐに救急車を呼べばいい」
大ざっぱな励まし方だなと思いつつも、和彦はそっと笑みをこぼす。
「今から組の者に電話して、必要なものを部屋から取ってきてもらえ。明日、ここから出勤するなら、着替えがいるだろう」
「ああ、そうさせてもらう……」
ここでふいに、賢吾が片手を伸ばしてきて、頬に触れてくる。目を丸くする和彦に、賢吾はこう問いかけてきた。
「大丈夫か、先生?」
気遣うように顔を覗き込まれ、和彦は苦笑を浮かべた。
「ぼくのことはいいから、あんたはこんなときぐらい、会長の心配だけしたらどうだ」
「……倒れたといいながら、周囲への牽制をすでに考えている、食えない男のことを、か」
「どこかの誰かに、よく似ていると思うが」
視線を逸らしつつ和彦がぼそりと呟くと、傍らで聞いていた千尋が短く噴き出す。そんな千尋の頭を、和彦は手荒く撫でてやる。
「お前は、一人で先に駆けつけて、よく落ち着いていられたな。いざとなると、やっぱり肝が据わっているんだな」
千尋はくすぐったそうに首をすくめた。スーツをしっかりと着込んでいながら、その仕種がひどく子供っぽく見えて、和彦は少しだけほっとする。
「いや、電話で聞かされたときは、さすがにびっくりしたけどさ、本部についてみっともない姿を見せるわけにはいかないじゃん。長嶺の男としては。……俺なりに、必死だったよ。じいちゃんはあの通りだから、拍子抜けしたってのもあるけど」
長嶺組の跡目という役目を背負っているとはいえ、千尋はまだ二十一歳の青年なのだ。一人で賢吾を待っている間、不安でなかったはずがない。しかもここは、普通とは言い難い場所だ。
千尋の頭を撫でる手つきは、つい優しくなってしまう。それに気づいたのか、千尋が人懐こい犬のように身を寄せてきたが、場所と状況を弁えろと小声で窘める。
和彦は、二人を玄関まで見送ろうとしたが、かまわないと断られる。千尋が先に玄関に向かい、少し遅れて賢吾があとに続く。
南郷はまるで飾り物のように、廊下に立っていた。大きな体を壁際に寄せ、千尋が通り過ぎるときに頭を下げる。さらに、あとに続く賢吾にも――。
ふいに、賢吾が足を止め、南郷に声をかけた。この瞬間、和彦はドキリとした。
「――南郷、オヤジのこと頼むぞ。俺は頻繁に、ここに顔を出せねーからな」
「承知しています」
「それと、先生のことも。うちの先生は繊細だから、あまり窮屈な思いはさせないでやってくれ」
南郷は一層深く頭を下げ、どんな表情を浮かべたのか確認することはできなかった。賢吾は、じっと南郷を見下ろしていた。ゾッとするほど冷ややかで無機質な、蛇の目だ。その賢吾がふっとこちらを見て、目元を和らげた。
「じゃあな、先生。あまり気張りすぎるなよ」
和彦はぎこちなく頷いた。
普段以上に神経が過敏になっているのか、和彦の耳は、どんな些細な物音すら拾う。たとえ、浅い眠りの最中であっても。布団に横になったまま、誰かが廊下を行き来しているのがわかった。足音を立てないよう細心の注意を払っているようだが、ほんのわずかな衣擦れの音を消すことはできない。
和彦は寝返りを打つと、開いたままの襖へと目を向ける。少し待つと、男が部屋の前を通り過ぎた。
今夜の和彦は、いつもの客室ではなく、守光の部屋の隣の和室を使っている。何かあっても、微かな声や物音を聞き取ることができると思ったからだ。ただ、和彦以上に、守光に仕える男たちが気を張り詰めている。何かあったときのためにと、守光の部屋の前に交代で詰めているのだ。
何かあれば呼ぶので、安心して休んでほしいと言われている和彦だが、熟睡できるはずもなく、ウトウトしては目を覚ますということを繰り返している。
少しの間、横になったままぼんやりとしていたが、守光のことが気になる。そうなると眠るどころではなく、和彦は起き上がって廊下に出ていた。
隣の守光の部屋のほうを見ようとして、ぎょっとする。フットライトで照らされた廊下の隅に、大きな影があったからだ。そこに大きな獣でもうずくまっているのかと思って目を凝らすと、壁にもたれかかるようにして座った南郷だった。
和彦が横になる前、南郷は人に呼ばれて出ていったのだが、いつの間にか戻ってきたようだ。隊を率いる南郷ほどの男なら、寝ずの番をする必要があるとも思えないが、これが、南郷なりの守光への忠義の示し方なのだろう。
立ち尽くす和彦に、南郷がゆっくりと視線を向けてくる。たったそれだけのことなのに、和彦は心臓を掴み上げられるような威圧感を感じていた。
「――どうかしたのか、先生」
大ざっぱな励まし方だなと思いつつも、和彦はそっと笑みをこぼす。
「今から組の者に電話して、必要なものを部屋から取ってきてもらえ。明日、ここから出勤するなら、着替えがいるだろう」
「ああ、そうさせてもらう……」
ここでふいに、賢吾が片手を伸ばしてきて、頬に触れてくる。目を丸くする和彦に、賢吾はこう問いかけてきた。
「大丈夫か、先生?」
気遣うように顔を覗き込まれ、和彦は苦笑を浮かべた。
「ぼくのことはいいから、あんたはこんなときぐらい、会長の心配だけしたらどうだ」
「……倒れたといいながら、周囲への牽制をすでに考えている、食えない男のことを、か」
「どこかの誰かに、よく似ていると思うが」
視線を逸らしつつ和彦がぼそりと呟くと、傍らで聞いていた千尋が短く噴き出す。そんな千尋の頭を、和彦は手荒く撫でてやる。
「お前は、一人で先に駆けつけて、よく落ち着いていられたな。いざとなると、やっぱり肝が据わっているんだな」
千尋はくすぐったそうに首をすくめた。スーツをしっかりと着込んでいながら、その仕種がひどく子供っぽく見えて、和彦は少しだけほっとする。
「いや、電話で聞かされたときは、さすがにびっくりしたけどさ、本部についてみっともない姿を見せるわけにはいかないじゃん。長嶺の男としては。……俺なりに、必死だったよ。じいちゃんはあの通りだから、拍子抜けしたってのもあるけど」
長嶺組の跡目という役目を背負っているとはいえ、千尋はまだ二十一歳の青年なのだ。一人で賢吾を待っている間、不安でなかったはずがない。しかもここは、普通とは言い難い場所だ。
千尋の頭を撫でる手つきは、つい優しくなってしまう。それに気づいたのか、千尋が人懐こい犬のように身を寄せてきたが、場所と状況を弁えろと小声で窘める。
和彦は、二人を玄関まで見送ろうとしたが、かまわないと断られる。千尋が先に玄関に向かい、少し遅れて賢吾があとに続く。
南郷はまるで飾り物のように、廊下に立っていた。大きな体を壁際に寄せ、千尋が通り過ぎるときに頭を下げる。さらに、あとに続く賢吾にも――。
ふいに、賢吾が足を止め、南郷に声をかけた。この瞬間、和彦はドキリとした。
「――南郷、オヤジのこと頼むぞ。俺は頻繁に、ここに顔を出せねーからな」
「承知しています」
「それと、先生のことも。うちの先生は繊細だから、あまり窮屈な思いはさせないでやってくれ」
南郷は一層深く頭を下げ、どんな表情を浮かべたのか確認することはできなかった。賢吾は、じっと南郷を見下ろしていた。ゾッとするほど冷ややかで無機質な、蛇の目だ。その賢吾がふっとこちらを見て、目元を和らげた。
「じゃあな、先生。あまり気張りすぎるなよ」
和彦はぎこちなく頷いた。
普段以上に神経が過敏になっているのか、和彦の耳は、どんな些細な物音すら拾う。たとえ、浅い眠りの最中であっても。布団に横になったまま、誰かが廊下を行き来しているのがわかった。足音を立てないよう細心の注意を払っているようだが、ほんのわずかな衣擦れの音を消すことはできない。
和彦は寝返りを打つと、開いたままの襖へと目を向ける。少し待つと、男が部屋の前を通り過ぎた。
今夜の和彦は、いつもの客室ではなく、守光の部屋の隣の和室を使っている。何かあっても、微かな声や物音を聞き取ることができると思ったからだ。ただ、和彦以上に、守光に仕える男たちが気を張り詰めている。何かあったときのためにと、守光の部屋の前に交代で詰めているのだ。
何かあれば呼ぶので、安心して休んでほしいと言われている和彦だが、熟睡できるはずもなく、ウトウトしては目を覚ますということを繰り返している。
少しの間、横になったままぼんやりとしていたが、守光のことが気になる。そうなると眠るどころではなく、和彦は起き上がって廊下に出ていた。
隣の守光の部屋のほうを見ようとして、ぎょっとする。フットライトで照らされた廊下の隅に、大きな影があったからだ。そこに大きな獣でもうずくまっているのかと思って目を凝らすと、壁にもたれかかるようにして座った南郷だった。
和彦が横になる前、南郷は人に呼ばれて出ていったのだが、いつの間にか戻ってきたようだ。隊を率いる南郷ほどの男なら、寝ずの番をする必要があるとも思えないが、これが、南郷なりの守光への忠義の示し方なのだろう。
立ち尽くす和彦に、南郷がゆっくりと視線を向けてくる。たったそれだけのことなのに、和彦は心臓を掴み上げられるような威圧感を感じていた。
「――どうかしたのか、先生」
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