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第30話
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忘れたことはなかった。英俊と会うことに神経をすり減らしながらも、常に頭の片隅にあった件だ。このままなかったことにならないだろうかと、願わなかったといえばウソになるが、巨大な組織を背負う者に、そんな甘さがあるはずもない。和彦の状態が落ち着くのを待っていたということは、虎視淡々と機会をうかがっていたのだ。
「重責を背負わされるとは考えんでほしい。クリニックはあくまで、総和会における佐伯和彦という人物の地位を示すためのものだ。極道であれば、肩書きを与えて、組を持たせて、とやりようがあるが、あんたは違う。極道ではないからこそ、価値がある。いや、佐伯和彦であるからこそ、〈我々〉はあんたを大事にしたい」
「ぼくに、そこまでの価値は――」
「三世代の長嶺の男に想われているというだけで、十分価値はある。他の男たちにとっても。手間と金をかけて、あんたにクリニックを持たせるということは、要は檻だ。あんたを逃がさんためではなく、守るための」
これは、長嶺の男特有の詭弁だ。だが、理性を揺さぶるだけの熱意も甘美さもあった。禍々しい狐を背負った男の言うことは、どこに真意があるのかまったく読めないが、すべてがウソというわけではないだろう。和彦を必要として、逃すまいとしている。この物騒な世界から、とっくに逃げられなくなっている和彦を。
自分の存在に価値を見出してくれるのはありがたいが、反面、医者としての腕や経験が未熟であるという現実が、肩に重くのしかかってくる。
堪らず、苦しい胸の内を気持ちを吐露していた。
「ぼくは、自分を知っているつもりです。医者として、何もかも不足しているんです。毎回、患者がいると連絡が入るたびに、自分の手に負えられる状態であってほしいと、祈っています。腕がいいからじゃない。使い勝手がいいから、必要とされていることは、よくわかっています。それでも……患者を助けられたときは、普通の医者のような喜びを味わえるんです。だから、仕事をこなせてきた」
話しながら和彦は、前髪に指を差し込む。
「これ以上のプレッシャーを抱えると、きっとぼくの頭も気持ちも容量がいっぱいになります。前にしていただいたお話は覚えています。最低限の必要な手続きをして、ときどき業務に目を配って、あとは好きなようにしていいと……。でも、きっとそうはならないと思います。ぼくは、身の程知らずにも、患者に関わっていくはずです」
「――あんたの感情が乱れているのは、何日か前に、目の前で患者に死なれたからか」
和彦はハッとして顔を上げる。賢吾とよく似た冷徹な眼差しで見据えられ、無意識のうちに息を呑んでいた。
「報告は受けている。手を施して死なせるのと、手の施しようがなくて死なせるのと、どちらがより医者には堪えるのか、わしには想像のしようがない。わしだけではなく、賢吾も同じだろう。だから白々しい慰めの言葉などかけなかったはずだ」
「ええ、そうです……」
もとより和彦は、そんなものは求めてはいなかった。優しい言葉などかけられたら、情けなさで消え入りたくなっていたはずだ。
ただ、賢吾は賢吾なりに気遣いを見せてくれた。そして、鷹津も――。
和彦の心を揺れを感じ取ったのか、守光がふっと目元を和らげる。思いがけない反応に和彦は戸惑う。
「弱ったあんたを支えたがる男は、いくらでもいるだろう。性質のよくない癖を持つ者なら、そんなあんたをさらに追い詰めたくなるかもしれんが。……さて、わしはどちらだろうな」
もちろん守光は和彦に返事を求めているわけではなく、穏やかな口調のまま、こう続けた。
「総和会も長嶺組も、佐伯和彦に、完璧な医者であることは求めておらんよ。これがまっとうな社会での、まっとうな医者に対してであったなら、人道的な正しさを求めるのだろうが、あんたが今いるのは、耳当たりのいい理屈が存在しない社会だ。ときには命は、面子と秤にかけられて、軽く扱われてしまうものだ」
「……それは、常々感じていることです」
「いいや、感じてはいるが、理解はしていない。――あんたはいわば、組織が、個人に対して示せる〈誠意〉だ。医者としての腕はどうでもいい。総和会や長嶺組が大事にしている医者が、請われれば、若い衆だろうが、不義理を働いた者だろうが治療する。そのことに、忠義や恩義、心意気を感じる。組織は、支えてくれている者たちがいて成り立つが、その者たちを守るために、また組織がある。これは、非情である反面、きちんと血の通っている形式だ。その形式のために、特別な医者であるあんたが、必要なのだ」
「重責を背負わされるとは考えんでほしい。クリニックはあくまで、総和会における佐伯和彦という人物の地位を示すためのものだ。極道であれば、肩書きを与えて、組を持たせて、とやりようがあるが、あんたは違う。極道ではないからこそ、価値がある。いや、佐伯和彦であるからこそ、〈我々〉はあんたを大事にしたい」
「ぼくに、そこまでの価値は――」
「三世代の長嶺の男に想われているというだけで、十分価値はある。他の男たちにとっても。手間と金をかけて、あんたにクリニックを持たせるということは、要は檻だ。あんたを逃がさんためではなく、守るための」
これは、長嶺の男特有の詭弁だ。だが、理性を揺さぶるだけの熱意も甘美さもあった。禍々しい狐を背負った男の言うことは、どこに真意があるのかまったく読めないが、すべてがウソというわけではないだろう。和彦を必要として、逃すまいとしている。この物騒な世界から、とっくに逃げられなくなっている和彦を。
自分の存在に価値を見出してくれるのはありがたいが、反面、医者としての腕や経験が未熟であるという現実が、肩に重くのしかかってくる。
堪らず、苦しい胸の内を気持ちを吐露していた。
「ぼくは、自分を知っているつもりです。医者として、何もかも不足しているんです。毎回、患者がいると連絡が入るたびに、自分の手に負えられる状態であってほしいと、祈っています。腕がいいからじゃない。使い勝手がいいから、必要とされていることは、よくわかっています。それでも……患者を助けられたときは、普通の医者のような喜びを味わえるんです。だから、仕事をこなせてきた」
話しながら和彦は、前髪に指を差し込む。
「これ以上のプレッシャーを抱えると、きっとぼくの頭も気持ちも容量がいっぱいになります。前にしていただいたお話は覚えています。最低限の必要な手続きをして、ときどき業務に目を配って、あとは好きなようにしていいと……。でも、きっとそうはならないと思います。ぼくは、身の程知らずにも、患者に関わっていくはずです」
「――あんたの感情が乱れているのは、何日か前に、目の前で患者に死なれたからか」
和彦はハッとして顔を上げる。賢吾とよく似た冷徹な眼差しで見据えられ、無意識のうちに息を呑んでいた。
「報告は受けている。手を施して死なせるのと、手の施しようがなくて死なせるのと、どちらがより医者には堪えるのか、わしには想像のしようがない。わしだけではなく、賢吾も同じだろう。だから白々しい慰めの言葉などかけなかったはずだ」
「ええ、そうです……」
もとより和彦は、そんなものは求めてはいなかった。優しい言葉などかけられたら、情けなさで消え入りたくなっていたはずだ。
ただ、賢吾は賢吾なりに気遣いを見せてくれた。そして、鷹津も――。
和彦の心を揺れを感じ取ったのか、守光がふっと目元を和らげる。思いがけない反応に和彦は戸惑う。
「弱ったあんたを支えたがる男は、いくらでもいるだろう。性質のよくない癖を持つ者なら、そんなあんたをさらに追い詰めたくなるかもしれんが。……さて、わしはどちらだろうな」
もちろん守光は和彦に返事を求めているわけではなく、穏やかな口調のまま、こう続けた。
「総和会も長嶺組も、佐伯和彦に、完璧な医者であることは求めておらんよ。これがまっとうな社会での、まっとうな医者に対してであったなら、人道的な正しさを求めるのだろうが、あんたが今いるのは、耳当たりのいい理屈が存在しない社会だ。ときには命は、面子と秤にかけられて、軽く扱われてしまうものだ」
「……それは、常々感じていることです」
「いいや、感じてはいるが、理解はしていない。――あんたはいわば、組織が、個人に対して示せる〈誠意〉だ。医者としての腕はどうでもいい。総和会や長嶺組が大事にしている医者が、請われれば、若い衆だろうが、不義理を働いた者だろうが治療する。そのことに、忠義や恩義、心意気を感じる。組織は、支えてくれている者たちがいて成り立つが、その者たちを守るために、また組織がある。これは、非情である反面、きちんと血の通っている形式だ。その形式のために、特別な医者であるあんたが、必要なのだ」
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