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第30話
(7)
しおりを挟む寝顔だけは無邪気すぎるほどなのだが、と心の中で嘆息した和彦は、隣で眠っている千尋の顔をまじまじと眺める。和彦を貪りつくして満足したのか、大きなあくびを二度、三度としたかと思うと、あっという間に寝息を立て始めたのだ。
無防備な姿を見ていると、自分の部屋に戻れと叩き起こす気にもなれない。
和彦は、千尋の茶色の髪をそっと撫でてから、Tシャツの上から肩に触れる。行為の最中も、千尋は決してTシャツを脱ぎ捨てることはなかったため、背に一体どんな刺青が彫られつつあるのか、片鱗をうかがい知ることすらできなかった。
今の状態の千尋なら、Tシャツを少し捲ったところで気づかないかもしれないが、それはそれで千尋のプライドを傷つけそうでもあり、疼きそうになる好奇心は抑えておく。
和彦は慎重に起き上がると、肌掛け布団を千尋の体にかけてやる。ドロドロに汚れた状態で眠るわけにもいかず、簡単にシャワーを浴びてこようと、浴衣を引き寄せて着込む。さすがに、枕元に丸まっていた帯を解いていたときは、顔が熱くなった。
覚束ない足取りで寝室を出た和彦は、ギョッとして立ち竦む。
「――……帰って、いたのか……」
ようやく和彦が声を発すると、悠然と座椅子に座っている賢吾が、ニヤリと笑いかけてくる。
「俺の部屋だからな」
これは当てこすりだなと、さすがに和彦でもわかる。しかも、かなりこちらの分は悪い。襖を開けたままにしていたため、すべての声も、衣擦れの音すら聞かれていただろう。
賢吾がいつからいたのかは知らないが、布団に横になっていると、隣室の座卓はまったく視界に入らないため、気づかなかった。物音でも立ててくれたなら、和彦よりも鋭い千尋が反応していたはずだが、その様子がなかったということは、賢吾もあえて、気配を殺していたということだ。
いろいろと言いたいことはあったが、ここで賢吾を責めては、完全に八つ当たりだ。
よほど苦い顔をしていたらしく、賢吾が機嫌を取るように、和彦に向かって優しい仕種で手招きする。仕方なく和彦は歩み寄り、賢吾の傍らに座り込んだ。
「俺の部屋で、俺の息子と俺のオンナが睦み合っている声を聞くというのは、滅多にない経験だと思わないか?」
「そういう皮肉を言われるぐらいなら、怒り狂ってもらったほうが気が楽だ……」
「怒る道理はないだろ。先生は、千尋にとっても大事なオンナだ。それに先生に、この部屋で自由に過ごしていいと言ったのは、俺自身だ」
自由にも限度があるだろうと思ったが、口には出さないでおく。
賢吾の腕が肩に回され、ぐいっと引き寄せられる。浴衣越しに、賢吾のてのひらの感触を感じ、千尋との行為の余韻のせいか、体の疼きと後ろめたさが同時に湧き起こる。
「……まだ、体が熱いな」
汗で湿った和彦の髪に顔を寄せ、賢吾が官能的なバリトンで囁く。和彦は小さく身震いをしていた。
「千尋は、先生を丹念に愛してやったようだ」
和彦はおずおずと賢吾に体を預けると、千尋との行為の最中、ずっと頭の片隅にあったことを口にした。
「――……ぼくを慕ってくれる千尋を愛しいとは思うが、ときどき怖くなるときがある。十歳も年上の男と、あいつはずっと一緒にいるつもりでいる。少し前までなら、今だけの情熱で言っているんだと、落ち着いていられたが、刺青を入れ始めたと聞いて、なんだか……怖くなった」
「何が怖いんだ」
「千尋はもうガキじゃなく、自分で決断できる大人の男になったんだと、痛感させられた。そんな男が、将来、自分だけのものになってくれと言うんだ。もしかして、本気なんじゃないかと――」
「本気だと、都合が悪いか?」
パッと顔を上げた和彦は、賢吾を睨みつける。
「あんたの息子だろ。将来を憂えるぐらい、したらどうだ」
「組を継ぐのが決まっている千尋の将来をか」
「だからこそだ。……若いんだから、この先いくらだって出会いはある。将来どころか、ほんの先のことだって、何があるかわからないんだ。ぼくの存在のせいで、千尋の選択の幅を狭めたくない」
「あいつはそれほど、バカじゃない。必要とあれば、必要なものを選択する。もちろん、先生をしっかり抱き締めたままな。長嶺の男の執着心と独占欲を舐めるなよ、先生」
賢吾の息遣いが唇に触れる。あっと思ったときには、唇を吸われていた。話の途中だと抗議の声を上げようとした和彦だが、きつく唇を吸われ、熱い舌を口腔に押し込まれると、ほとんど条件反射のように賢吾の口づけに応えてしまう。
賢吾の腕が腰に回され浴衣をたくし上げられた。下着を身につけていないため露わになった尻を揉まれ、さすがに和彦はその手を押し退けようとする。賢吾の気を逸らせようと、懸命に会話を続けることにした。
「……ぼくは、自分のせいで、千尋の次の跡継ぎが望めないなんて言われるのは、嫌だからなっ……」
「そこまで組のことを心配してくれているんだな」
「違っ……」
「――長嶺組にはすでに、千尋の次の跡目がいるとは考えないのか?」
賢吾が言った言葉の意味を理解するのに、数十秒ほどかかった。
絶句した和彦の顔を、賢吾はおもしろがるように覗き込んでくる。
我に返った和彦は、今の発言の真意を何度も尋ねたが、賢吾は楽しげに声を上げて笑うだけで、冗談であるのかどうかすら、教えてはくれなかった。
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