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第29話
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板張りの薄暗い部屋には、ベッドやテーブルセット、テレビにエアコンだけではなく、クローゼットまで揃っており、他の部屋とは明らかに様子が違う。
「特別なお客さんが使う部屋です。クローゼットの中に、サイズはバラバラですが、クリーニングした服がいろいろ揃っているので、自由に使ってください。それと――」
家の中での行動は自由だが、外には出ないようにと、何度も念を押された。そもそも、動き回る気力もなく、ドアが閉まるのを待ってから、和彦はぐったりとベッドに腰掛ける。
まだ一日が終わったわけではないが、今日は大変だったと、改めて実感していた。
英俊と交わした会話を思い返そうとしたが、頭の動きは鈍く、記憶が上手く繋がらない。ここで和彦は、自分がまだジャケットも脱いでいないことを思い出した。
億劫ながらも一旦立ち上がり、脱いだジャケットとネクタイをイスの背もたれにかける。ついでに窓の外に視線を向けてみたが、家の前の様子ぐらいしか見えなかった。
ふらふらとベッドに戻り、そのまま横になる。その瞬間、自分が肉体的にも精神的にも、ひどく疲弊しているのだと思い知らされた。もう、起き上がるどころか、目を開けることもできない。
賢吾に連絡しなければと思いながらも、抵抗する間もなく、和彦の意識はスウッと暗いところへと引きずり込まれていた。
瞼越しに光が差し込んできて、和彦はビクリと体を震わせる。詰めた息をゆっくりと吐き出しながら目を開けると、なぜか、よく見知った顔が目の前にあった。電気の明かりがまぶしくて、数回瞬きを繰り返す。
「――……何、してるんだ……」
ぼんやりとした意識のまま問いかけると、相手は、ヤクザらしくない優しい笑みを浮かべた。
「先生の寝顔を見ようとしていたんですよ」
「……つまらないぞ、見ても」
和彦の返答に、中嶋が短く噴き出す。
「どんなときでも、先生は先生ですね。マイペースというか、危機感がないというか」
危機感、と口中で反芻してから、自分が置かれた状況を思い出す。途端に、一気に気分が沈み込んだ。
緩慢な動作で体を起こしたところで和彦は、ワイシャツがじっとりと湿っていることを知る。部屋が異常に高温というわけではないが、変な寝方をしていたせいか、寝汗をかいたようだ。
「しかし、ここには初めて来ましたけど、まだ夕方だというのに、天気のせいもあってか、道が真っ暗でしたね。そのうえカーブも多いから、運転しながらヒヤヒヤしましたよ」
そう言って中嶋が、ボストンバッグを和彦に差し出してくる。反射的に受け取っていた。
「これは……」
「長嶺組の方から、これを先生に渡してほしいと頼まれました。着替えなどが入っているようです。それと、長嶺組長からは、これを」
さらに中嶋が差し出したのは、白い紙袋だった。和彦は苦笑を洩らしつつ受け取る。いかにも、賢吾らしい気遣いだと思ったからだ。
「うちの先生は繊細で、いろいろ大変だろうから、というようなことを、長嶺組長がおっしゃってましたよ」
「どんな顔をして言ったか、なんとなく想像できるな。――これは安定剤だ。ときどき、どうしても精神的にダメなときは飲んでいるんだ。……あまり頼りたくはないけど」
ため息をついた和彦は髪を掻き上げる。そして何げなく中嶋に尋ねた。
「君は、今夜はここに泊まるのか?」
中嶋は申し訳なさそうな顔となって首を横に振る。
「できることならそうしたかったんですが、先生に荷物を渡せたので、これで帰ります。ここに宿泊するのは、目立つのを避けるためにも最小限の人数で、と言われているんです」
「だったら、ぼくも連れて帰ってくれ」
和彦のわがままを、中嶋は笑って受け流す。もちろん和彦は、本気で言ったわけではない。ようやく自分の前に親しい人物が現れて、少し甘えてみただけだ。
「……ああ、そうだ。組長に連絡を入れないと……」
「電話は、玄関の横にありましたよ」
「いや、携帯が――」
ふと和彦は、ここがどんな場所なのか思い出す。嫌な予感に眉をひそめつつ、中嶋に確認した。
「もしかしてここは、携帯が通じないのか?」
「と、俺は認識しています。そもそもここが重宝されているのは、容易に連絡が取れない環境だからです。身を潜めている人が、自分の家族や愛人にこっそり電話をかけて、そこから居場所が知られるなんて事態は、間が抜けてますからね。でも先生は、堂々と下の電話を使って話せばいいじゃないですか」
「人の耳を気にしながら、ぼくが兄の前で見せた醜態を、組長に話して聞かせるのは……、ちょっとな」
「特別なお客さんが使う部屋です。クローゼットの中に、サイズはバラバラですが、クリーニングした服がいろいろ揃っているので、自由に使ってください。それと――」
家の中での行動は自由だが、外には出ないようにと、何度も念を押された。そもそも、動き回る気力もなく、ドアが閉まるのを待ってから、和彦はぐったりとベッドに腰掛ける。
まだ一日が終わったわけではないが、今日は大変だったと、改めて実感していた。
英俊と交わした会話を思い返そうとしたが、頭の動きは鈍く、記憶が上手く繋がらない。ここで和彦は、自分がまだジャケットも脱いでいないことを思い出した。
億劫ながらも一旦立ち上がり、脱いだジャケットとネクタイをイスの背もたれにかける。ついでに窓の外に視線を向けてみたが、家の前の様子ぐらいしか見えなかった。
ふらふらとベッドに戻り、そのまま横になる。その瞬間、自分が肉体的にも精神的にも、ひどく疲弊しているのだと思い知らされた。もう、起き上がるどころか、目を開けることもできない。
賢吾に連絡しなければと思いながらも、抵抗する間もなく、和彦の意識はスウッと暗いところへと引きずり込まれていた。
瞼越しに光が差し込んできて、和彦はビクリと体を震わせる。詰めた息をゆっくりと吐き出しながら目を開けると、なぜか、よく見知った顔が目の前にあった。電気の明かりがまぶしくて、数回瞬きを繰り返す。
「――……何、してるんだ……」
ぼんやりとした意識のまま問いかけると、相手は、ヤクザらしくない優しい笑みを浮かべた。
「先生の寝顔を見ようとしていたんですよ」
「……つまらないぞ、見ても」
和彦の返答に、中嶋が短く噴き出す。
「どんなときでも、先生は先生ですね。マイペースというか、危機感がないというか」
危機感、と口中で反芻してから、自分が置かれた状況を思い出す。途端に、一気に気分が沈み込んだ。
緩慢な動作で体を起こしたところで和彦は、ワイシャツがじっとりと湿っていることを知る。部屋が異常に高温というわけではないが、変な寝方をしていたせいか、寝汗をかいたようだ。
「しかし、ここには初めて来ましたけど、まだ夕方だというのに、天気のせいもあってか、道が真っ暗でしたね。そのうえカーブも多いから、運転しながらヒヤヒヤしましたよ」
そう言って中嶋が、ボストンバッグを和彦に差し出してくる。反射的に受け取っていた。
「これは……」
「長嶺組の方から、これを先生に渡してほしいと頼まれました。着替えなどが入っているようです。それと、長嶺組長からは、これを」
さらに中嶋が差し出したのは、白い紙袋だった。和彦は苦笑を洩らしつつ受け取る。いかにも、賢吾らしい気遣いだと思ったからだ。
「うちの先生は繊細で、いろいろ大変だろうから、というようなことを、長嶺組長がおっしゃってましたよ」
「どんな顔をして言ったか、なんとなく想像できるな。――これは安定剤だ。ときどき、どうしても精神的にダメなときは飲んでいるんだ。……あまり頼りたくはないけど」
ため息をついた和彦は髪を掻き上げる。そして何げなく中嶋に尋ねた。
「君は、今夜はここに泊まるのか?」
中嶋は申し訳なさそうな顔となって首を横に振る。
「できることならそうしたかったんですが、先生に荷物を渡せたので、これで帰ります。ここに宿泊するのは、目立つのを避けるためにも最小限の人数で、と言われているんです」
「だったら、ぼくも連れて帰ってくれ」
和彦のわがままを、中嶋は笑って受け流す。もちろん和彦は、本気で言ったわけではない。ようやく自分の前に親しい人物が現れて、少し甘えてみただけだ。
「……ああ、そうだ。組長に連絡を入れないと……」
「電話は、玄関の横にありましたよ」
「いや、携帯が――」
ふと和彦は、ここがどんな場所なのか思い出す。嫌な予感に眉をひそめつつ、中嶋に確認した。
「もしかしてここは、携帯が通じないのか?」
「と、俺は認識しています。そもそもここが重宝されているのは、容易に連絡が取れない環境だからです。身を潜めている人が、自分の家族や愛人にこっそり電話をかけて、そこから居場所が知られるなんて事態は、間が抜けてますからね。でも先生は、堂々と下の電話を使って話せばいいじゃないですか」
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