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第29話
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ほお、と芝居がかった口調で洩らした英俊の目に、狡知な色が浮かぶ。それと同時にゆっくりとイスから立ち上がった。
その光景が、和彦の記憶を刺激する。子供の頃の体験が生々しく蘇っていた。
本能的な危機感から、怯える小動物さながらの動きでテーブルを離れる。和彦が出入り口の扉に行かないよう牽制しつつ、英俊が近づいてくる。広い個室とはいえ、逃げ回れるほどのスペースがあるわけではなく、あっという間に和彦は窓際へと追い詰められていた。
英俊はあくまで優雅な仕種で、和彦の喉元に片手をかけてきた。力を込められたわけではないが、それだけで息苦しくなり、完全に動きを封じられる。
「あまり、お前の顔を殴るのは好きじゃない。忌々しいぐらい、わたしに似ている顔だからな。だからといって、蹴るのは野蛮だ」
英俊に冷たい迫力に圧され、無意識に後退った和彦の背に窓ガラスが当たる。完全に逃げ場を失った和彦に対して、英俊が顔を寄せ、低く抑えた声で囁いてきた。
「里見さんが気になることをちらりと洩らしていたが、なるほど。こういうことか」
「何、が……」
「こちら側の動きを、お前がある程度把握しているということだ。確かに、お前の今の物言いは、何かを知っている感じだ。どこまで知っている? 誰から聞き出した? いつからこちらの動きを探っている?」
立て続けに質問をぶつけられながらも、和彦が気になるのは、喉元にかかった英俊の手にじわじわと力が込められていることだった。
体格はほぼ同じなので、英俊を押しのけることは不可能ではない。それどころか、顔を殴りつけることもできるはずなのだ。だが、和彦の手は動かない。頭ではわかっていても、兄に逆らうという行為に、体がついてこない。
「お前単独での動きじゃないはずだ。身を潜めながら日常生活を送り、そのうえでこちらの動きを探るなんて、一介の医者には無理だ。協力者なんて言い方はしない。――お前のバックには誰がいる?」
間近から目を覗き込まれ、和彦は唇を引き結び、瞬きもせず見つめ返す。かまわず英俊は話し続ける。
「わたしは正直、あの画像を見たとき、お前が性質の悪い奴に騙されたか、自ら進んで仲間になって、佐伯家を強請ってくると思った。父さんにも、その覚悟をしておくよう言ったんだ。どうしてすぐに行動を起こさないのかと、苛立ったこともあるが、今になって思う。お前は、最高のタイミングを計っている最中なんじゃないかと」
「……兄さんの、華々しい政界デビューに合わせて、ぼくが何かしでかすと思ったわけか」
「ちらりとでも考えなかったか?」
英俊は過剰な自信家というわけではないが、それでこの口ぶりということは、すでに当選することを自らの人生に織り込み済みなのだろう。言い換えるなら、失敗の許されない人生ということだ。
「ぼくは……、兄さんの邪魔をする気はない。もちろん、父さんや母さんの生活も」
「必要なときにお前がいないと、それは邪魔しているのと同じだ」
威嚇するように指先で頚動脈を押さえられる。この行為の危険性がよくわかっている和彦は、さすがに英俊の手を振り払い、肩を突き飛ばしていた。ほんの一瞬のことなのに、頭がふらつき、鼓動が乱れていた。
英俊は落ち着いた様子で眼鏡の中央を押し上げ、薄い笑みを浮かべた。
「本気でお前を絞め殺すと思ったか?」
「……失神させるぐらいは、簡単にできるだろ」
「そしてお前を、家まで連れて行くのか。――やってみようか?」
そう言って英俊が片手を伸ばそうとしたので、和彦は素早く窓から離れ、小走りでドアへと向かう。
「とにかくぼくは、なんの力にもなれない。今のこちらの生活に関わってほしくないし、兄さんたちに関わる気もない。……言いたいことはそれだけだ」
早口に告げてドアを開けようとしたとき、背後で英俊がゾッとするほど冷たい声を発した。
「顔を見せに帰ってこいと――、父さんから、そう伝言を言付かった」
この瞬間なぜか、英俊がどんな顔をしているのか見たくないと強く思った。和彦は背を向けたまま、そう、とだけ応じて部屋をあとにした。
その光景が、和彦の記憶を刺激する。子供の頃の体験が生々しく蘇っていた。
本能的な危機感から、怯える小動物さながらの動きでテーブルを離れる。和彦が出入り口の扉に行かないよう牽制しつつ、英俊が近づいてくる。広い個室とはいえ、逃げ回れるほどのスペースがあるわけではなく、あっという間に和彦は窓際へと追い詰められていた。
英俊はあくまで優雅な仕種で、和彦の喉元に片手をかけてきた。力を込められたわけではないが、それだけで息苦しくなり、完全に動きを封じられる。
「あまり、お前の顔を殴るのは好きじゃない。忌々しいぐらい、わたしに似ている顔だからな。だからといって、蹴るのは野蛮だ」
英俊に冷たい迫力に圧され、無意識に後退った和彦の背に窓ガラスが当たる。完全に逃げ場を失った和彦に対して、英俊が顔を寄せ、低く抑えた声で囁いてきた。
「里見さんが気になることをちらりと洩らしていたが、なるほど。こういうことか」
「何、が……」
「こちら側の動きを、お前がある程度把握しているということだ。確かに、お前の今の物言いは、何かを知っている感じだ。どこまで知っている? 誰から聞き出した? いつからこちらの動きを探っている?」
立て続けに質問をぶつけられながらも、和彦が気になるのは、喉元にかかった英俊の手にじわじわと力が込められていることだった。
体格はほぼ同じなので、英俊を押しのけることは不可能ではない。それどころか、顔を殴りつけることもできるはずなのだ。だが、和彦の手は動かない。頭ではわかっていても、兄に逆らうという行為に、体がついてこない。
「お前単独での動きじゃないはずだ。身を潜めながら日常生活を送り、そのうえでこちらの動きを探るなんて、一介の医者には無理だ。協力者なんて言い方はしない。――お前のバックには誰がいる?」
間近から目を覗き込まれ、和彦は唇を引き結び、瞬きもせず見つめ返す。かまわず英俊は話し続ける。
「わたしは正直、あの画像を見たとき、お前が性質の悪い奴に騙されたか、自ら進んで仲間になって、佐伯家を強請ってくると思った。父さんにも、その覚悟をしておくよう言ったんだ。どうしてすぐに行動を起こさないのかと、苛立ったこともあるが、今になって思う。お前は、最高のタイミングを計っている最中なんじゃないかと」
「……兄さんの、華々しい政界デビューに合わせて、ぼくが何かしでかすと思ったわけか」
「ちらりとでも考えなかったか?」
英俊は過剰な自信家というわけではないが、それでこの口ぶりということは、すでに当選することを自らの人生に織り込み済みなのだろう。言い換えるなら、失敗の許されない人生ということだ。
「ぼくは……、兄さんの邪魔をする気はない。もちろん、父さんや母さんの生活も」
「必要なときにお前がいないと、それは邪魔しているのと同じだ」
威嚇するように指先で頚動脈を押さえられる。この行為の危険性がよくわかっている和彦は、さすがに英俊の手を振り払い、肩を突き飛ばしていた。ほんの一瞬のことなのに、頭がふらつき、鼓動が乱れていた。
英俊は落ち着いた様子で眼鏡の中央を押し上げ、薄い笑みを浮かべた。
「本気でお前を絞め殺すと思ったか?」
「……失神させるぐらいは、簡単にできるだろ」
「そしてお前を、家まで連れて行くのか。――やってみようか?」
そう言って英俊が片手を伸ばそうとしたので、和彦は素早く窓から離れ、小走りでドアへと向かう。
「とにかくぼくは、なんの力にもなれない。今のこちらの生活に関わってほしくないし、兄さんたちに関わる気もない。……言いたいことはそれだけだ」
早口に告げてドアを開けようとしたとき、背後で英俊がゾッとするほど冷たい声を発した。
「顔を見せに帰ってこいと――、父さんから、そう伝言を言付かった」
この瞬間なぜか、英俊がどんな顔をしているのか見たくないと強く思った。和彦は背を向けたまま、そう、とだけ応じて部屋をあとにした。
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