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第29話
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「ただ、ずいぶん雰囲気が優しくなった気がする。お前の友人から様子は聞いていたんだが、正直、荒んだ生活を送って、相応の見た目になっていると思っていたんだ。だが今のお前は――実家にいた頃より、満ち足りているようだ」
「ぼくがなんと答えたら、兄さんは満足なんだ」
「お前に関することで、わたしは一度でも満足したことはない。今までは」
英俊の言葉は容赦がないというより、和彦を傷つけるための鋭い刃を潜ませている、という表現が正しいだろう。ときおり自分の口から放たれる毒は、きっとこの兄に影響されてのものだと和彦は思っている。
「そんな不肖の弟に会いに来たんだ。早く本題に入ったら?」
英俊はグラスの水を軽く一口飲んでから、ようやく切り出した。
「お前も知っている通り、わたしは国政選挙に出馬することにした。問題が起きなければ、二年後に」
「ずいぶん先だ」
「わたしは、勝てない勝負に打って出る気はない。そのために今は、父さんと一緒に準備している最中だ。地盤を譲ってくれることになっている代議士も、最後の花道のために、いろいろ仕掛けているようだしな」
「――……楽しそうだ」
ぽつりと和彦が洩らすと、英俊はしたたかな笑みを浮かべて頷く。理性的で、和彦に手を上げる以外では感情の起伏が表に出ることが少ない英俊だが、こういう表情をすると、ドキリとするような艶やかさをまとう。
漠然とだが、しばらく会わない間に英俊は、人を惹きつける魅力を手に入れたように感じた。
「佐伯家の血だろうな。野心的な計画に対しては、際限なくのめり込む。母さんも、違う方面で協力してくれていて、やっぱり楽しそうだ」
ふいに和彦の胸の奥から、苛立ちにも似た感情が込み上げてきて、それを誤魔化すように乱暴に髪を掻き上げる。
「家族三人で上手くやっているなら、それでいいじゃないか。そもそも畑違いの仕事をしているぼくに、なんの手伝いが出来るっていうんだ」
「家族一丸となって、と薄ら寒い言葉があるだろう。あれだ。本来、候補者の隣に美人妻が立って――というのが理想なんだろうが、わたしは独身だ。だったら、見た目も職業も申し分ない弟を利用しない手はない」
電話で話していた通りだが、やはり和彦は、おぞましいものを感じ取ってしまう。言葉通りに受け止めてはいけないと、頭の中で警報が鳴り響くのだ。
「手伝ってもらうって電話で言っていたけど、その口ぶりだとやっぱり、兄さんの選挙活動のことなのか」
「簡単に言うとそうだが、……おかしいか?」
小首を傾げた英俊に、即答する。
「――おかしい」
この瞬間、英俊の周囲の空気が凍りついたようだった。和彦はようやく、ここまでは英俊なりにこちらを懐柔しようとしていたのだと気づく。本当であれば、頭ごなしに命令したいところを、英俊なりにコミュニケーションを取っていたつもりだったのだ。
英俊が、やはり和彦によく似た神経質そうな指で、トンッとテーブルを叩く。
「家のために役に立とうという気は?」
「ぼくが佐伯家の人間として振る舞うことに、家族の誰もいい顔はしない。……ずっとそうだった」
「少なくとも、父さんはそうじゃない。将来、何かのためにお前が〈使える〉かもしれないと考えていたから、高い金をかけて医大に通わせ、医者にした。名家の次男坊としては、お前はなかなか有能だ。男関係を除いて、だが」
「……その一点で、ぼくは家の役に立てないと思う」
「犯罪を犯しているわけじゃない性的スキャンダルなんて、可愛いものだ。もっとヤバイことを揉み消して、表舞台でヌケヌケと綺麗事を垂れ流している奴はいくらでもいる」
和彦は、冷めた目で英俊の顔を凝視する。何もかも完璧であるこの兄に、自分はとっくに犯罪に手を染めていると語ったら、どんな顔をするだろうかと想像していた。和彦が胸の奥に抱え持つ、冷たい闇の部分が、そんな考えを抱かせるのかもしれない。
スッと視線を逸らした和彦は、再び窓の外へと目を向ける。
「今の言葉、本心から言っているのか、兄さん」
「ああ」
「ぼく以外の人間――家族にも言える?」
和彦が言葉に潜ませた冷たい刃に、当然英俊は気づいていた。低く笑い声を洩らしてから、こう応じた。
「今とてつもなく、お前を打ちのめしてやりたい。昔からお前は、痛みには弱いくせに、したたかだった。〈強い〉んじゃなく、〈したたか〉だ。まるで――」
英俊が何を言おうとしているか素早く察し、和彦は勢いよく立ち上がる。テーブルに両手を突き、英俊の顔を真っ直ぐ見据える。
「――こうしてぼくと会った本当の目的を、まだ話していないんじゃないか?」
「ぼくがなんと答えたら、兄さんは満足なんだ」
「お前に関することで、わたしは一度でも満足したことはない。今までは」
英俊の言葉は容赦がないというより、和彦を傷つけるための鋭い刃を潜ませている、という表現が正しいだろう。ときおり自分の口から放たれる毒は、きっとこの兄に影響されてのものだと和彦は思っている。
「そんな不肖の弟に会いに来たんだ。早く本題に入ったら?」
英俊はグラスの水を軽く一口飲んでから、ようやく切り出した。
「お前も知っている通り、わたしは国政選挙に出馬することにした。問題が起きなければ、二年後に」
「ずいぶん先だ」
「わたしは、勝てない勝負に打って出る気はない。そのために今は、父さんと一緒に準備している最中だ。地盤を譲ってくれることになっている代議士も、最後の花道のために、いろいろ仕掛けているようだしな」
「――……楽しそうだ」
ぽつりと和彦が洩らすと、英俊はしたたかな笑みを浮かべて頷く。理性的で、和彦に手を上げる以外では感情の起伏が表に出ることが少ない英俊だが、こういう表情をすると、ドキリとするような艶やかさをまとう。
漠然とだが、しばらく会わない間に英俊は、人を惹きつける魅力を手に入れたように感じた。
「佐伯家の血だろうな。野心的な計画に対しては、際限なくのめり込む。母さんも、違う方面で協力してくれていて、やっぱり楽しそうだ」
ふいに和彦の胸の奥から、苛立ちにも似た感情が込み上げてきて、それを誤魔化すように乱暴に髪を掻き上げる。
「家族三人で上手くやっているなら、それでいいじゃないか。そもそも畑違いの仕事をしているぼくに、なんの手伝いが出来るっていうんだ」
「家族一丸となって、と薄ら寒い言葉があるだろう。あれだ。本来、候補者の隣に美人妻が立って――というのが理想なんだろうが、わたしは独身だ。だったら、見た目も職業も申し分ない弟を利用しない手はない」
電話で話していた通りだが、やはり和彦は、おぞましいものを感じ取ってしまう。言葉通りに受け止めてはいけないと、頭の中で警報が鳴り響くのだ。
「手伝ってもらうって電話で言っていたけど、その口ぶりだとやっぱり、兄さんの選挙活動のことなのか」
「簡単に言うとそうだが、……おかしいか?」
小首を傾げた英俊に、即答する。
「――おかしい」
この瞬間、英俊の周囲の空気が凍りついたようだった。和彦はようやく、ここまでは英俊なりにこちらを懐柔しようとしていたのだと気づく。本当であれば、頭ごなしに命令したいところを、英俊なりにコミュニケーションを取っていたつもりだったのだ。
英俊が、やはり和彦によく似た神経質そうな指で、トンッとテーブルを叩く。
「家のために役に立とうという気は?」
「ぼくが佐伯家の人間として振る舞うことに、家族の誰もいい顔はしない。……ずっとそうだった」
「少なくとも、父さんはそうじゃない。将来、何かのためにお前が〈使える〉かもしれないと考えていたから、高い金をかけて医大に通わせ、医者にした。名家の次男坊としては、お前はなかなか有能だ。男関係を除いて、だが」
「……その一点で、ぼくは家の役に立てないと思う」
「犯罪を犯しているわけじゃない性的スキャンダルなんて、可愛いものだ。もっとヤバイことを揉み消して、表舞台でヌケヌケと綺麗事を垂れ流している奴はいくらでもいる」
和彦は、冷めた目で英俊の顔を凝視する。何もかも完璧であるこの兄に、自分はとっくに犯罪に手を染めていると語ったら、どんな顔をするだろうかと想像していた。和彦が胸の奥に抱え持つ、冷たい闇の部分が、そんな考えを抱かせるのかもしれない。
スッと視線を逸らした和彦は、再び窓の外へと目を向ける。
「今の言葉、本心から言っているのか、兄さん」
「ああ」
「ぼく以外の人間――家族にも言える?」
和彦が言葉に潜ませた冷たい刃に、当然英俊は気づいていた。低く笑い声を洩らしてから、こう応じた。
「今とてつもなく、お前を打ちのめしてやりたい。昔からお前は、痛みには弱いくせに、したたかだった。〈強い〉んじゃなく、〈したたか〉だ。まるで――」
英俊が何を言おうとしているか素早く察し、和彦は勢いよく立ち上がる。テーブルに両手を突き、英俊の顔を真っ直ぐ見据える。
「――こうしてぼくと会った本当の目的を、まだ話していないんじゃないか?」
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