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第26話
(17)
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和彦は少し考えてから、再び窓の外に視線を向ける。建物の中でじっとしているのがもったいなくなるような天気のよさと、風景の美しさだ。何より風が心地いい。
「外の空気を吸いたい。つき合ってくれないか?」
「……ああ」
今日の三田村はやはりどこかおかしい。和彦は、三田村と一緒に一階に下りながら、さきほどから感じていた違和感が、自分の気のせいではないと確信していた。
いつもの三田村であれば、和彦の望みに応じるとき、こう答えてくれるはずなのだ。
『先生の望み通りに』と。
だが、今は――。
一階に降りると、まずキッチンを覗く。買ってきたものを冷蔵庫に入れている中嶋に、遠慮しつつ声をかけた。
「庭にいるから、何かあったら呼んでくれ」
ごゆっくり、という言葉に送られて外に出ると、まず和彦は思い切り背伸びをする。あまりに勢いをつけすぎたせいで足元がふらついたが、背後に立っていた三田村にすかさず支えられた。振り返った和彦が礼を言うと、何事もなかったように三田村が離れた。
一体どうしたのかと問いかけようとした和彦だが、さすがに建物の前で話すことではないと思い、庭へと移動する。
庭には、和彦の名の知らない花たちが植えられており、穏やかな風に揺れている。まさか、こんなにきれいな――少女趣味すら感じる手入れされた庭を、巨大な暴力団組織が管理しているとは、誰も考えもしないだろう。ある意味、カムフラージュとしては完璧すぎる働きをしているともいえる。
「――三田村、ここに咲いている花の種類、わかるか?」
腰を屈めて花を覗き込んでいた和彦は、傍らに立つ三田村を見上げて問いかける。三田村は、ごっそりと感情をどこかに置き忘れたような無表情だった。初夏の陽射しが降り注いでいるというのに、三田村が立っている場所だけ、温度が違っているようだ。もちろん、低いほうに。
「先生がわからないのに、俺みたいな奴にわかるはずがない」
ここで会話が途切れ、二人の間に沈黙が流れる。姿勢を戻した和彦は、花ではなく、三田村の顔を覗き込んだ。
「なんだか、あんたらしくない話し方だ。……何か、あったのか? ぼくが、気に障るようなことをしたとか……。もしかして、本当はここに来たくなかったんじゃ――」
「先生は悪くないっ」
思いがけず強い口調で返されて、目を丸くする。ここでやっと、三田村の無表情が崩れた。苦しげに眉を寄せ、唇を引き結んだのだ。
「三田村……」
和彦はそっと手を伸ばし、三田村の頬に触れる。そして、あごにうっすらと残る傷跡にも指先を這わせた。
「俺は本当は、こんなふうに先生に触れてもらう価値などないのかもしれない」
「えっ……」
三田村は、大きな両手で包み込むようにして和彦の頬に触れてくる。久しぶり、ともいえる三田村の感触に、胸の奥がじわりと熱くなった。
「……先生に怪我はないと聞いていたが、本当に無事でよかった」
三田村の言葉で、自分の身に降りかかった災難が蘇る。いや、一番の災難に見舞われたのは、現場に居合わせたことで、利き手を怪我した鷹津だろう。
鷹津が守ってくれたと言いかけて、寸前のところで呑み込む。和彦が見せたためらいの表情を読んだのか、三田村は苦々しい口調で続けた。
「先生に何かあったとき、身を挺して守るのは俺の役目だと思っていた。だが、今の先生を守る人間はいくらでもいて、俺は俺で、若頭補佐としての仕事に追われて、先生の側にいることもままならなくなっている」
三田村に強く頬を撫でられる。
「――こうして先生が無事なのは、鷹津のおかげなんだな」
「でも、側にいたのがあんたなら、同じように助けてくれただろ?」
「どうだろう……。俺はこんなに完璧に、仕事を果たせなかったかもしれない」
そういう言い方をしてほしくないと、和彦はきつい眼差しを向ける。だが一方で、三田村の気持ちもよくわかるのだ。
鷹津はただの刑事でも、知人でもない。和彦の番犬として働き、〈餌〉として体の関係を持っている。和彦の〈オトコ〉である三田村にとって、すべてを理屈で割り切ってしまうことは難しいはずだ。
こんな苦しげな表情を浮かべ、苦しげに話す三田村の感覚は正しい。ここまで、三田村の苦しさを少しも慮れなかった和彦のほうが異常なのだ。
「――……先生と俺の置かれた立場を思えば、何もかも仕方のないことだと頭ではわかっている。だが、鷹津のことを聞かされて、どうしようもなく悔しかった。だから先生に、電話すらできなかった。荒っぽいことが苦手な先生が、不安がっているかもしれないと思いながら……」
短く息を吐き出した三田村が和彦の頬から手を退け、それどころか背を向けてしまう。
拒絶された、と思ったが、そうではなかった。
「外の空気を吸いたい。つき合ってくれないか?」
「……ああ」
今日の三田村はやはりどこかおかしい。和彦は、三田村と一緒に一階に下りながら、さきほどから感じていた違和感が、自分の気のせいではないと確信していた。
いつもの三田村であれば、和彦の望みに応じるとき、こう答えてくれるはずなのだ。
『先生の望み通りに』と。
だが、今は――。
一階に降りると、まずキッチンを覗く。買ってきたものを冷蔵庫に入れている中嶋に、遠慮しつつ声をかけた。
「庭にいるから、何かあったら呼んでくれ」
ごゆっくり、という言葉に送られて外に出ると、まず和彦は思い切り背伸びをする。あまりに勢いをつけすぎたせいで足元がふらついたが、背後に立っていた三田村にすかさず支えられた。振り返った和彦が礼を言うと、何事もなかったように三田村が離れた。
一体どうしたのかと問いかけようとした和彦だが、さすがに建物の前で話すことではないと思い、庭へと移動する。
庭には、和彦の名の知らない花たちが植えられており、穏やかな風に揺れている。まさか、こんなにきれいな――少女趣味すら感じる手入れされた庭を、巨大な暴力団組織が管理しているとは、誰も考えもしないだろう。ある意味、カムフラージュとしては完璧すぎる働きをしているともいえる。
「――三田村、ここに咲いている花の種類、わかるか?」
腰を屈めて花を覗き込んでいた和彦は、傍らに立つ三田村を見上げて問いかける。三田村は、ごっそりと感情をどこかに置き忘れたような無表情だった。初夏の陽射しが降り注いでいるというのに、三田村が立っている場所だけ、温度が違っているようだ。もちろん、低いほうに。
「先生がわからないのに、俺みたいな奴にわかるはずがない」
ここで会話が途切れ、二人の間に沈黙が流れる。姿勢を戻した和彦は、花ではなく、三田村の顔を覗き込んだ。
「なんだか、あんたらしくない話し方だ。……何か、あったのか? ぼくが、気に障るようなことをしたとか……。もしかして、本当はここに来たくなかったんじゃ――」
「先生は悪くないっ」
思いがけず強い口調で返されて、目を丸くする。ここでやっと、三田村の無表情が崩れた。苦しげに眉を寄せ、唇を引き結んだのだ。
「三田村……」
和彦はそっと手を伸ばし、三田村の頬に触れる。そして、あごにうっすらと残る傷跡にも指先を這わせた。
「俺は本当は、こんなふうに先生に触れてもらう価値などないのかもしれない」
「えっ……」
三田村は、大きな両手で包み込むようにして和彦の頬に触れてくる。久しぶり、ともいえる三田村の感触に、胸の奥がじわりと熱くなった。
「……先生に怪我はないと聞いていたが、本当に無事でよかった」
三田村の言葉で、自分の身に降りかかった災難が蘇る。いや、一番の災難に見舞われたのは、現場に居合わせたことで、利き手を怪我した鷹津だろう。
鷹津が守ってくれたと言いかけて、寸前のところで呑み込む。和彦が見せたためらいの表情を読んだのか、三田村は苦々しい口調で続けた。
「先生に何かあったとき、身を挺して守るのは俺の役目だと思っていた。だが、今の先生を守る人間はいくらでもいて、俺は俺で、若頭補佐としての仕事に追われて、先生の側にいることもままならなくなっている」
三田村に強く頬を撫でられる。
「――こうして先生が無事なのは、鷹津のおかげなんだな」
「でも、側にいたのがあんたなら、同じように助けてくれただろ?」
「どうだろう……。俺はこんなに完璧に、仕事を果たせなかったかもしれない」
そういう言い方をしてほしくないと、和彦はきつい眼差しを向ける。だが一方で、三田村の気持ちもよくわかるのだ。
鷹津はただの刑事でも、知人でもない。和彦の番犬として働き、〈餌〉として体の関係を持っている。和彦の〈オトコ〉である三田村にとって、すべてを理屈で割り切ってしまうことは難しいはずだ。
こんな苦しげな表情を浮かべ、苦しげに話す三田村の感覚は正しい。ここまで、三田村の苦しさを少しも慮れなかった和彦のほうが異常なのだ。
「――……先生と俺の置かれた立場を思えば、何もかも仕方のないことだと頭ではわかっている。だが、鷹津のことを聞かされて、どうしようもなく悔しかった。だから先生に、電話すらできなかった。荒っぽいことが苦手な先生が、不安がっているかもしれないと思いながら……」
短く息を吐き出した三田村が和彦の頬から手を退け、それどころか背を向けてしまう。
拒絶された、と思ったが、そうではなかった。
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