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第26話
(1)
しおりを挟む心臓の鼓動が、少しだけ速くなっているような気がした。
書斎にこもった和彦は、あえて日曜日の夜から取り掛かるほど急ぐ仕事でもないのだが、パソコンを使って、長嶺組に提出するクリニックの収支報告書を作成していた。しかし、すぐに集中力は途切れ、昨夜から今日にかけての出来事を思い返していた。
あまりに衝撃的な出来事で、我が身に降りかかったという実感がいまだに乏しい。
そのくせ――鷹津との濃厚な行為だけは、はっきりとした感覚がまだ体に残っている。気を抜くと、まだ鷹津の体温に包み込まれているような錯覚に陥り、我に返るたびに恥じ入り、鼓動が速くなる。
動揺しているのだ。和彦は、自分の今の状態をそう分析する。
これまで鷹津とは何度も体を重ねてきて、気持ちはともかく、与えられる快感も受け入れた。鷹津とは、割り切った体の関係だという前提に、安心していたのかもしれない。この前提がある限り、鷹津に情が湧いても、それで関係が変わることはないと。
しかし、昨夜からの鷹津とのやり取りは、違っていた。〈番犬〉に餌を与えるという、それ以上でも以下でもないはずの行為に、いままでにない気持ちが伴っていた。
ひたすら求めてくる鷹津に、和彦は――。
胸の奥が疼き、身震いした和彦は慌てて立ち上がると、浴室に駆け込んだ。
体に留まり続ける熱を誤魔化したくて、いつもより熱めの湯をバスタブに溜め始める。着替えを取りに寝室に向かおうとしたとき、微かに携帯電話の呼出し音が聞こえ、慌てて書斎に戻る。電話の相手は、ある意味、昨日の騒動の主役ともいえる秦だった。
ずっと秦のことが気にはなっていたものの、今日は忙しいかと思って電話は遠慮していたため、ここぞとばかりに和彦は尋ねる。
「昨夜別れてから、大丈夫だったか?」
『おや、先を越されましたね。わたしのほうが、先生に尋ねようと思っていたのに。――連絡が遅くなって申し訳ありません』
慇懃ともいえる秦の口調に、勢い込んで質問をした和彦の調子は狂う。
「いや……、ぼくはなんともなかったから」
『そうはいっても、襲撃された現場にいたわけですから、ショックもあったでしょう』
「すごすぎて、まだ現実感がないんだ。ひどい怪我をした人間の治療をいくつもこなしてきたのに、そういう人間がどんな状況で怪我を負っていたかなんて、説明を受けても、リアルに想像なんてできなかった。ぼくはただ、どういう手順と手段で怪我をしたか、そういう検分をしてきただけだ」
『言われ慣れてるでしょうが、先生は肝が据わってますね。あの状況で、場慣れしていないのは先生だけだったのに、それでも落ち着いて鷹津さんの手当てをしていましたし』
鷹津の名が出た途端、和彦は落ち着きなく書斎を歩き回っていた。電話を通して、動揺が秦に伝わるのではないかと心配になってくる。
「……ぼくを庇っての怪我だと聞かされたら、放ってもおけないだろ」
『利き手が使いにくいと、ぼやいていましたよ』
昨夜の今日で、秦と鷹津はもう連絡を取り合ったらしい。この二人の関係もよくわからないと、心の中でこっそりと和彦は思う。もちろん、口に出したりはしない。
「襲撃があって、ぼくと鷹津が店を出たあとのことを、長嶺組から何も知らされていないんだが……、いろいろと、どうなっているんだ?」
『いろいろ、ですか。わたしの店のほうは、幸か不幸か、内装工事のために高価な装飾品は運び出したあとだったし、床や壁も張り替えますから、心配されるような被害はありません」
「――……襲ってきた、男たちは……?」
知りたい反面、知りたくない。そんな和彦の複雑な気持ちを汲み取ったのか、単に長嶺組から口止めをされているのか、秦は柔らかな笑い声を洩らして言った。
『先生が気にされなくていいんですよ。長嶺組の方々も、だから先生に何も知らせてないんでしょう』
「彼らが一体何者なのかも、聞くだけ無駄だということか」
『そういうことです』
気持ちとしては釈然としないが、長嶺組や秦があえて隠そうとしているのなら仕方ない。
和彦は少し前まで、何も知ろうとしないことで、無害な存在でいようとしたが、守光と関係を持ったことで、その姿勢を変えることになった。ただし気をつけなければならないのは、和彦が得る情報はすべて、取捨選択を男たちによって経たものだという点だ。
男たちが秘匿としているものを暴く権利も度胸も、和彦にはなかった。
「君の店の被害が大したことがなかったんだから、それで安心しておこう」
『先生に機嫌を直してもらおうと思ってお誘いしたのに、かえって大変な目に遭わせてしまいましたね』
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