559 / 1,267
第25話
(15)
しおりを挟む
秦だけでなく、その秦の後ろ盾となった長嶺組――賢吾からも。
「組長には報告しておきましたから、当分先生には、窮屈な思いをさせるかもしれません」
「……基本的に、どこに行くにも護衛をつけてもらっているから、ぼくの場合、さほど生活に影響があるとも思えないが……。あっ、護衛が面倒だから、夜は出歩くなと言うことか?」
和彦としては真剣に問いかけたのだが、怪我をしている組員までもが、苦笑に近い表情を浮かべて首を横に振る。
「先生に、そんな野暮は言いませんよ。ただ、俺たちみたいな連中の面倒を見てくれる大事な人なんですから、気をつけてほしいだけです」
「それを言うなら、君らもだ。日ごろ振り回して、世話になっているからな」
短く息を吐き出して和彦は、今度こそ切り傷の縫合に取り掛かった。
午後の診察時間の終了まで一時間近く残して、クリニックにはすでに緩やかな空気が漂っていた。最後の患者を見送ってしまうと、完全予約制のこのクリニックでは、あとは仕事が限られるのだ。
週明けに入っている予約について打ち合わせを済ませてから、あるスタッフは医療用品や薬剤の在庫を確認し、手が空いているスタッフは掃除を始める。和彦も、診察室を――というより、自分が使っているデスクの上を片付ける。
それが終わると今度は、コピー用紙を一枚取ってきて、卓上カレンダーを眺める。
「――……ついこの間、花見でバタバタしていたのにな……」
ぽつりと洩らした和彦は、簡単な文面を考えてコピー用紙に書いていく。すると、診察室の掃除のため入ってきた女性スタッフが、ススッと近づいてきた。
「何を書いているんですか、佐伯先生」
「ゴールデンウィークの休業日のお知らせ。患者さんにはもう電話で伝えてあるけど、配達業者が困るかもしれないから、そろそろ玄関のドアに貼っておこうと思って」
「はあ、この間開業したと思ったら、もうゴールデンウィークなんですねー。バタバタしていたから、なんだかあっという間です」
まったく同意見だ。ただの勤務医から、何から何まで自分で方針を考え、指示を出す立場になったため、とにかく慌ただしい日々だった。しかも和彦の場合、大きな隠し事を悟られまいと、昼間は仕事以外のもので気を張り詰めている。
本来なら季節の移り変わりに目を向ける余裕すらなかっただろうが、その辺りは周囲の男たちがきめ細かくフォローをしてくれた。
「一週間もお休みがもらえるので、実家でのんびりしようと思って、今から楽しみにしているんです」
女性スタッフの純粋に嬉しそうな言葉に、わずかに和彦の罪悪感が疼く。
カレンダー通りにクリニックを開けることになると、三連休のあとに平日が一日あり、そして三連休ということになるのだが、まとめて休みにしてしまえという賢吾の一言で、こういうことになってしまったのだ。そのときの賢吾の口ぶりからして、連休中に和彦を振り回す気満々だ。
「佐伯先生は、何かご予定はあるんですか?」
「……ぼくは今のところ、何も。部屋でごろごろして過ごすよ」
そんな会話を交わしてから和彦は、休業日を書いたコピー用紙を玄関のドアに貼りに行った。
掃除を終えてからクリニックを閉めると、速やかにスタッフたちが帰る。一人となった和彦は、診察室のイスに腰掛けてほっと一息をつく。途端に、あくびを洩らしていた。
深夜に起こされ、襲われて怪我をした長嶺組の組員を治療していたため、今日は朝から眠気を引きずっていたのだ。スタッフがいるところでは平素と変わらぬよう振る舞っていたが、一人になって一気に気持ちが緩んでしまう。
金曜日の夕方にトラブルなく仕事を終え、あとは帰るだけという状況だ。誰も和彦を責めたりはしないはずだ。
今晩の食事は、パンを買って手軽に済ませようと考えながら帰り支度をしていると、携帯電話が鳴る。
相手を確認した和彦は、緩んだ気持ちを再び引き締めるのに、多少の努力を要した。
先日、和彦が手術を施した男が、真っ青な顔でベッドに横たわっている。手術後の経過は問題なく、傷口もきれいに塞がりつつあると報告は受けていたため、当分は自分が診る必要はないだろうと安心していたのだが、甘かったようだ。
男が発熱し、激しい腹痛を訴えて、嘔吐しているという報告をクリニックで受けた時点で、和彦は薄々とながら原因がわかっていた。
超音波で腹部の様子を探って正式な診断を下すと、男の苦痛を取り除くための治療を始める。
「組長には報告しておきましたから、当分先生には、窮屈な思いをさせるかもしれません」
「……基本的に、どこに行くにも護衛をつけてもらっているから、ぼくの場合、さほど生活に影響があるとも思えないが……。あっ、護衛が面倒だから、夜は出歩くなと言うことか?」
和彦としては真剣に問いかけたのだが、怪我をしている組員までもが、苦笑に近い表情を浮かべて首を横に振る。
「先生に、そんな野暮は言いませんよ。ただ、俺たちみたいな連中の面倒を見てくれる大事な人なんですから、気をつけてほしいだけです」
「それを言うなら、君らもだ。日ごろ振り回して、世話になっているからな」
短く息を吐き出して和彦は、今度こそ切り傷の縫合に取り掛かった。
午後の診察時間の終了まで一時間近く残して、クリニックにはすでに緩やかな空気が漂っていた。最後の患者を見送ってしまうと、完全予約制のこのクリニックでは、あとは仕事が限られるのだ。
週明けに入っている予約について打ち合わせを済ませてから、あるスタッフは医療用品や薬剤の在庫を確認し、手が空いているスタッフは掃除を始める。和彦も、診察室を――というより、自分が使っているデスクの上を片付ける。
それが終わると今度は、コピー用紙を一枚取ってきて、卓上カレンダーを眺める。
「――……ついこの間、花見でバタバタしていたのにな……」
ぽつりと洩らした和彦は、簡単な文面を考えてコピー用紙に書いていく。すると、診察室の掃除のため入ってきた女性スタッフが、ススッと近づいてきた。
「何を書いているんですか、佐伯先生」
「ゴールデンウィークの休業日のお知らせ。患者さんにはもう電話で伝えてあるけど、配達業者が困るかもしれないから、そろそろ玄関のドアに貼っておこうと思って」
「はあ、この間開業したと思ったら、もうゴールデンウィークなんですねー。バタバタしていたから、なんだかあっという間です」
まったく同意見だ。ただの勤務医から、何から何まで自分で方針を考え、指示を出す立場になったため、とにかく慌ただしい日々だった。しかも和彦の場合、大きな隠し事を悟られまいと、昼間は仕事以外のもので気を張り詰めている。
本来なら季節の移り変わりに目を向ける余裕すらなかっただろうが、その辺りは周囲の男たちがきめ細かくフォローをしてくれた。
「一週間もお休みがもらえるので、実家でのんびりしようと思って、今から楽しみにしているんです」
女性スタッフの純粋に嬉しそうな言葉に、わずかに和彦の罪悪感が疼く。
カレンダー通りにクリニックを開けることになると、三連休のあとに平日が一日あり、そして三連休ということになるのだが、まとめて休みにしてしまえという賢吾の一言で、こういうことになってしまったのだ。そのときの賢吾の口ぶりからして、連休中に和彦を振り回す気満々だ。
「佐伯先生は、何かご予定はあるんですか?」
「……ぼくは今のところ、何も。部屋でごろごろして過ごすよ」
そんな会話を交わしてから和彦は、休業日を書いたコピー用紙を玄関のドアに貼りに行った。
掃除を終えてからクリニックを閉めると、速やかにスタッフたちが帰る。一人となった和彦は、診察室のイスに腰掛けてほっと一息をつく。途端に、あくびを洩らしていた。
深夜に起こされ、襲われて怪我をした長嶺組の組員を治療していたため、今日は朝から眠気を引きずっていたのだ。スタッフがいるところでは平素と変わらぬよう振る舞っていたが、一人になって一気に気持ちが緩んでしまう。
金曜日の夕方にトラブルなく仕事を終え、あとは帰るだけという状況だ。誰も和彦を責めたりはしないはずだ。
今晩の食事は、パンを買って手軽に済ませようと考えながら帰り支度をしていると、携帯電話が鳴る。
相手を確認した和彦は、緩んだ気持ちを再び引き締めるのに、多少の努力を要した。
先日、和彦が手術を施した男が、真っ青な顔でベッドに横たわっている。手術後の経過は問題なく、傷口もきれいに塞がりつつあると報告は受けていたため、当分は自分が診る必要はないだろうと安心していたのだが、甘かったようだ。
男が発熱し、激しい腹痛を訴えて、嘔吐しているという報告をクリニックで受けた時点で、和彦は薄々とながら原因がわかっていた。
超音波で腹部の様子を探って正式な診断を下すと、男の苦痛を取り除くための治療を始める。
26
お気に入りに追加
1,359
あなたにおすすめの小説
もう人気者とは付き合っていられません
花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。
モテるのは当然だ。でも――。
『たまには二人だけで過ごしたい』
そう願うのは、贅沢なのだろうか。
いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。
「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。
ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。
生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。
※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中
塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ヤクザと捨て子
幕間ささめ
BL
執着溺愛ヤクザ幹部×箱入り義理息子
ヤクザの事務所前に捨てられた子どもを自分好みに育てるヤクザ幹部とそんな保護者に育てられてる箱入り男子のお話。
ヤクザは頭の切れる爽やかな風貌の腹黒紳士。息子は細身の美男子の空回り全力少年。
ある少年の体調不良について
雨水林檎
BL
皆に好かれるいつもにこやかな少年新島陽(にいじまはる)と幼馴染で親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)。高校に入学してしばらく陽は風邪をひいたことをきっかけにひどく体調を崩して行く……。
BLもしくはブロマンス小説。
体調不良描写があります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる