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第22話
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賢吾の話を聞きながら、全身の血の気が引いていくようだった。心臓の鼓動も速くなり、背を通してそれが賢吾に伝わりそうで、和彦はそっと体を離す。
「……ああ、美味しかった。ちょうど焼きたてが並んでいたから、なおさらそう感じたんだろうな」
そうか、と答えた賢吾に手首を掴まれ、本能的な怯えを感じた和彦は体を強張らせる。有無を言わせず再び布団の上に押し倒され、片足を抱え上げられる。熱をもって蕩けている内奥の入り口に、賢吾の欲望が擦りつけられた。
「うっ……」
小さく呻いた和彦は顔を背ける。賢吾が怖いくせに、やはり熱いものが欲しかった。
「先生が気に入ったんなら、明日の朝、同じ店で買ってこさせよう。俺は、朝は和食なんだが、少し味見させてもらおうか。それと、美味そうにパンを食う先生の顔も堪能したいな」
焦らすようにゆっくりと内奥を押し広げられ、和彦は身悶えながら賢吾の肩にすがりつく。あとはもう、悦びの声を上げることしかできなかった。
翌朝、告げられていた通り、賢吾と朝食をともにした和彦だが、正直、焼きたてのパンの味などわからなかった。パンを千切りながらも、賢吾の反応が気になって仕方なかったからだ。
一体何を言われるかとずっと身構えていたが、和彦が食べていたパンを一欠片食べてから、賢吾は頷いただけで、感想らしいことは言わなかった。パンそのものは確かに美味しいのだが、果たして、和彦があえて遠回りをしてまで買い求める価値があったと、納得したのかどうか――。
昨夜の行為の余韻も引きずっている中、賢吾の言動一つ一つに神経を尖らせていると、朝からぐったりしてしまう。
腕時計で時間を確認してから、和彦は急いでコーヒーを飲み干す。クリニックに出勤するにはまだ早いが、一度マンションに戻り、着替えを済ませておきたかった。そのため少し急いでいる。
「じゃあ、ぼくはもう行くから」
イスから立ち上がった和彦が声をかけると、新聞を開いていた賢吾が顔を上げる。ニヤリと笑いかけてきた。
「働き者だな。体はまだつらいだろ。せめて午後から出勤したらどうだ」
「……できるわけない。午前中に予約が入ってる。肩書きだけとはいえ、経営者のぼくによくそんなことが言えるな」
「少しは返事をためらうかと思ったら、あっさり断るんだな」
「あんたは、クリニックの出資者だ。いい加減な経営をしていると思われたくない」
「先生はまじめだ」
そう呟いた賢吾が、給仕のため側にいた組員に、和彦を送迎する車を玄関前に待機させるよう指示を出す。次に、指先で和彦を呼んだ。
賢吾の傍らで腰を屈めると、いきなり頭を引き寄せられ耳元で囁かれた。
「忙しい先生のために、今朝は特別な運転手を用意しておいた。短いドライブを楽しめ」
目を丸くする和彦に、賢吾はそれ以上何も言わず、ただ手を振る。わけがわからないまま、コートを羽織りながら玄関に向かうと、アタッシェケースを持った三田村がいた。
「三田村っ……」
思わず声を上げた和彦に対して、三田村がわずかに目元を和らげる。
「届けものをしたら、朝メシを食わせてもらったうえに、先生の運転手を任された」
靴べらを差し出され、和彦は慌てて受け取って靴を履く。こうして三田村と会えたのは嬉しいが、頭の片隅では、賢吾なりの意図があるのだろうかと勘ぐってしまう。それは、和彦が抱える後ろめたさ故の感情ともいえた。
三田村に伴われて車の後部座席に乗り込むと、ほっと息を吐き出す。
「久しぶりな気がする。こうしてあんたの運転する車に乗ったの。前は、毎日のように行動を共にしていたのに」
和彦が話しかけると、バックミラー越しに三田村がちらりとこちらを見た。
「一月ぐらい前だったかな、こうして先生を車に乗せたのは」
「……あんたに怒られたんだ。夜、一人でふらふらするなと言って」
あのときの和彦は、思いがけない里見からのメッセージに気持ちが掻き乱されていた。そんな和彦を支えてくれたのが、三田村だったのだ。
それから今日まで、和彦の置かれた状況はまた大きな変化を迎えていた。
自分と守光との関係をすでに知っているのだろうかと、和彦はじっと三田村の後ろ姿を見つめる。三田村は、和彦の何もかもを受け入れる。そうすることで、一時とはいえ和彦との時間を共有できると知っているからだ。
和彦がますます裏の世界から逃れられない立場になったと知って、この男は喜んでくれるのだろうか――。
そんなことを考えてしまうと、三田村に気軽に話しかけられなくなる。後ろ姿を見つめているだけで胸が詰まるのだ。
せっかくこうして二人きりになれたのだから、何か会話を、と思っていた和彦の視界に、ある光景が飛び込んできた。
本宅とマンションを行き来するときに通る並木道には、桜の木が植えられている。冬の間は気にかけることもないのだが、和彦が慌しい日々を過ごしている間にも、ここにも確実な変化が訪れていた。寒々しかった枝は鮮やかな緑の葉をつけ、花は開いてはいないものの蕾もついている。もう何日かするとぽつぽつと開花していくのだろう。
「――……去年はそんな状況じゃなかったけど、今年は、あんたとささやかに花見がしたいな。特別な用意なんてせずに、買ってきた弁当を食べながら、のんびりと桜の花を眺めて……それだけでいい」
「楽しそうだ」
「ああ。桜が開花し始めたら、時間を作ってくれ。ぼくも少し、のんびりしたいんだ。最近は、忙しいから」
「先生のわがままはささやかだ……」
応じた三田村の声の優しさに、和彦は思わず笑みをこぼす。
「こんなわがまま、恥ずかしくてあんたにしか言えないんだ」
バックミラーを通して一瞬三田村と目が合ったが、すぐに不自然なほど素っ気なく逸らされる。
無表情がトレードマークの若頭補佐は、どうやら照れているらしい。指摘するのも不粋で、和彦は気づかないふりをした。
何より、車中を流れる穏やかな空気を壊したくなかったのだ。
「……ああ、美味しかった。ちょうど焼きたてが並んでいたから、なおさらそう感じたんだろうな」
そうか、と答えた賢吾に手首を掴まれ、本能的な怯えを感じた和彦は体を強張らせる。有無を言わせず再び布団の上に押し倒され、片足を抱え上げられる。熱をもって蕩けている内奥の入り口に、賢吾の欲望が擦りつけられた。
「うっ……」
小さく呻いた和彦は顔を背ける。賢吾が怖いくせに、やはり熱いものが欲しかった。
「先生が気に入ったんなら、明日の朝、同じ店で買ってこさせよう。俺は、朝は和食なんだが、少し味見させてもらおうか。それと、美味そうにパンを食う先生の顔も堪能したいな」
焦らすようにゆっくりと内奥を押し広げられ、和彦は身悶えながら賢吾の肩にすがりつく。あとはもう、悦びの声を上げることしかできなかった。
翌朝、告げられていた通り、賢吾と朝食をともにした和彦だが、正直、焼きたてのパンの味などわからなかった。パンを千切りながらも、賢吾の反応が気になって仕方なかったからだ。
一体何を言われるかとずっと身構えていたが、和彦が食べていたパンを一欠片食べてから、賢吾は頷いただけで、感想らしいことは言わなかった。パンそのものは確かに美味しいのだが、果たして、和彦があえて遠回りをしてまで買い求める価値があったと、納得したのかどうか――。
昨夜の行為の余韻も引きずっている中、賢吾の言動一つ一つに神経を尖らせていると、朝からぐったりしてしまう。
腕時計で時間を確認してから、和彦は急いでコーヒーを飲み干す。クリニックに出勤するにはまだ早いが、一度マンションに戻り、着替えを済ませておきたかった。そのため少し急いでいる。
「じゃあ、ぼくはもう行くから」
イスから立ち上がった和彦が声をかけると、新聞を開いていた賢吾が顔を上げる。ニヤリと笑いかけてきた。
「働き者だな。体はまだつらいだろ。せめて午後から出勤したらどうだ」
「……できるわけない。午前中に予約が入ってる。肩書きだけとはいえ、経営者のぼくによくそんなことが言えるな」
「少しは返事をためらうかと思ったら、あっさり断るんだな」
「あんたは、クリニックの出資者だ。いい加減な経営をしていると思われたくない」
「先生はまじめだ」
そう呟いた賢吾が、給仕のため側にいた組員に、和彦を送迎する車を玄関前に待機させるよう指示を出す。次に、指先で和彦を呼んだ。
賢吾の傍らで腰を屈めると、いきなり頭を引き寄せられ耳元で囁かれた。
「忙しい先生のために、今朝は特別な運転手を用意しておいた。短いドライブを楽しめ」
目を丸くする和彦に、賢吾はそれ以上何も言わず、ただ手を振る。わけがわからないまま、コートを羽織りながら玄関に向かうと、アタッシェケースを持った三田村がいた。
「三田村っ……」
思わず声を上げた和彦に対して、三田村がわずかに目元を和らげる。
「届けものをしたら、朝メシを食わせてもらったうえに、先生の運転手を任された」
靴べらを差し出され、和彦は慌てて受け取って靴を履く。こうして三田村と会えたのは嬉しいが、頭の片隅では、賢吾なりの意図があるのだろうかと勘ぐってしまう。それは、和彦が抱える後ろめたさ故の感情ともいえた。
三田村に伴われて車の後部座席に乗り込むと、ほっと息を吐き出す。
「久しぶりな気がする。こうしてあんたの運転する車に乗ったの。前は、毎日のように行動を共にしていたのに」
和彦が話しかけると、バックミラー越しに三田村がちらりとこちらを見た。
「一月ぐらい前だったかな、こうして先生を車に乗せたのは」
「……あんたに怒られたんだ。夜、一人でふらふらするなと言って」
あのときの和彦は、思いがけない里見からのメッセージに気持ちが掻き乱されていた。そんな和彦を支えてくれたのが、三田村だったのだ。
それから今日まで、和彦の置かれた状況はまた大きな変化を迎えていた。
自分と守光との関係をすでに知っているのだろうかと、和彦はじっと三田村の後ろ姿を見つめる。三田村は、和彦の何もかもを受け入れる。そうすることで、一時とはいえ和彦との時間を共有できると知っているからだ。
和彦がますます裏の世界から逃れられない立場になったと知って、この男は喜んでくれるのだろうか――。
そんなことを考えてしまうと、三田村に気軽に話しかけられなくなる。後ろ姿を見つめているだけで胸が詰まるのだ。
せっかくこうして二人きりになれたのだから、何か会話を、と思っていた和彦の視界に、ある光景が飛び込んできた。
本宅とマンションを行き来するときに通る並木道には、桜の木が植えられている。冬の間は気にかけることもないのだが、和彦が慌しい日々を過ごしている間にも、ここにも確実な変化が訪れていた。寒々しかった枝は鮮やかな緑の葉をつけ、花は開いてはいないものの蕾もついている。もう何日かするとぽつぽつと開花していくのだろう。
「――……去年はそんな状況じゃなかったけど、今年は、あんたとささやかに花見がしたいな。特別な用意なんてせずに、買ってきた弁当を食べながら、のんびりと桜の花を眺めて……それだけでいい」
「楽しそうだ」
「ああ。桜が開花し始めたら、時間を作ってくれ。ぼくも少し、のんびりしたいんだ。最近は、忙しいから」
「先生のわがままはささやかだ……」
応じた三田村の声の優しさに、和彦は思わず笑みをこぼす。
「こんなわがまま、恥ずかしくてあんたにしか言えないんだ」
バックミラーを通して一瞬三田村と目が合ったが、すぐに不自然なほど素っ気なく逸らされる。
無表情がトレードマークの若頭補佐は、どうやら照れているらしい。指摘するのも不粋で、和彦は気づかないふりをした。
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