456 / 1,268
第21話
(18)
しおりを挟む
ふっとそんなことを考えた和彦は、美容外科医としての義務感から、自分も縫合を手伝うと申し出る。どうせ、近いうちに指紋偽造の手術を手がけることになるなら、今のうちに手を血で染めてしまったほうがいいと思ったのだ。
和彦には、のちのち臆する自分の姿が見える。そのとき悩み苦しむぐらいなら、今、〈義務〉を果たして、自分の立場を賢吾や総和会に示しておくべきだろう。
この世界で守られている限り、課された仕事は果たす、という立場を。
和彦は、ファミリーレストランで一人食事をしていた。護衛の組員は気を利かせて、離れたテーブルについている。
無意識のうちに箸で豆腐ハンバーグを崩していることに気づき、慌てて口に運ぶ。さきほど、指紋偽造手術を手伝ったせいか、いつもは直視を避けている罪悪感と、久しぶりの対面を果たしていた。
この程度の罪悪感の疼きは、想定の範囲内だ。仕事をこなしていくうちに、何も感じなくなる。そう頭では理解しているが、やはりいつも通り食事を平らげるのは、少々無理なようだ。
もう一つ和彦が気になっているのは、和彦が受けるべき仕事を、賢吾が選別していたということだ。総和会から強い申し入れがなければ、賢吾は和彦に、指紋偽造という仕事をさせたくなかったのかもしれない。
「――……いや、あの男がそんなに、生ぬるいわけがないか……」
和彦なりに、賢吾の計算高さと狡猾さ、そして容赦のなさを美点として評価している。だからこそ、何か深い考えがあったのではないかと考え――期待してしまう。
ため息をついた和彦は、今夜はこのまま飲みに行きたい心境だった。誰かつき合ってくれないだろうかと思いながら、傍らに置いたコートのポケットをまさぐり、携帯電話を取り出す。
ここで初めて、秦からの着信があったことに気づいた。どうやら、和彦が指の皮膚を縫合している頃、かかってきたようだ。マナーモードにしておいたうえに、作業に集中していたため、まったく気づかなかった。
一体なんの用だろうかと思いつつも、止まりがちだった箸の動きは速くなる。
食事を終えて外に出ると、すぐに秦の携帯電話に折り返し電話をかけてみた。
『もしかして、仕事中でしたか?』
いつもと変わらない柔らかな声の秦が出る。前を留めていないコートを掻き合わせて、和彦は駐車場に向かう。
「いや、仕事は終わった。ついさっき携帯を見たら着信が残っていたから、電話をしてみたんだ。何か用か?」
『用というほどじゃありません。ただ、わたしの部屋に中嶋もいるのですが、先生を呼んで一緒に飲みたいなと思いまして』
「……君の部屋で?」
『わたしの部屋だと都合が悪いなら、外で飲んでもかまいませんよ』
気安くそう言った秦だが、絶妙なタイミングで、和彦の好奇心を刺激するような言葉を付け加えた。
『でも先生には、せっかくなので新しいベッドを見てもらいたいですね』
ピクリと肩を揺らした和彦は、誰かが聞いているはずもないのに、思わず周囲を見回してしまう。
「中嶋くんが自慢していたぞ。バレンタインデーに、チョコレート代わりに買ったと言って」
『自慢はしていませんよ、先生』
突然聞こえてきたのは、中嶋の声だ。どうやら秦の傍らで、しっかり二人の会話を聞いていたらしい。和彦は顔を綻ばせる。
「それは悪かった」
『どうしますか? わたしと中嶋は、すごく先生に会いたいですけど』
意味ありげに囁かれて、和彦の頬はわずかに熱くなる。
あることを強く意識して、予感もしていながら――いや、予感しているからこそ、和彦は断れなかった。
「――今から行く」
そう答えると、電話の向こうから秦の柔らかな笑い声が聞こえてきた。
和彦は車に乗り込むと、組員に行き先を告げる。そして、握ったままだった携帯電話で賢吾に連絡を取った。
『手術に立ち合って、どうだった?』
前置きなしに賢吾に問われ、和彦は軽く唇を舐める。
「人間の指の皮膚で、パズルをすることになるとは思わなかった」
和彦の表現に、電話の向こうで賢吾が低く笑い声を洩らす。
『メールじゃなく、電話がかかってきたから、てっきり先生は怒っているのかと思った』
「……どうしてぼくが、あんたに怒るんだ」
『犯罪の片棒を担がせたと言って。指紋の偽造ってのは、どうやったって言い訳ができない。普通じゃ、まず需要のない手術だ。顔の整形手術とはわけが違う。先生は、この世界の深みに、またさらにハマり込んだんだ』
「だから、総和会からの求めになかなか応じなかったのか」
ハンドルを握る組員が、一瞬バックミラー越しに視線を向けてくる。
『うちの連中は、先生に甘いな。そんなことまで話したのか』
「ぼくが、あんたを責めるかもしれないと心配してくれたんだ。頼むから、組員は責めないでくれ」
『先生も、うちの連中に甘い』
シートに深く体を預けて、和彦は外に目をやる。こちらから促すまでもなく、賢吾は教えてくれた。
『俺は、先生の柔軟性やしたたかさを評価しているし、愛している。だからこそ、仕事の面で甘やかす気はない。なんといっても、長嶺組組長のビジネスパートナーだ。――先生の医者としての腕は、できることなら長嶺組で囲い込みたかった。だからこそ先生を、総和会に一時預けるという形で、いままでの仕事を受けていたんだ』
「今回は違った?」
『リスクの大きな仕事は、総和会が責任を持って管理すると言っている。総和会全体で、先生の安全を守ってやる。だからこそ、危険な仕事も引き受けろ、ということだ。今晩の手術は、完全に総和会主導だ。手順はいままでと変わらなかっただろうが、裏ではいろいろとあった』
自分の知らないところで、総和会と賢吾の間でそんなやり取りがあったのかと、和彦は静かに息を呑む。
『オヤジ……総和会会長が、えらく先生を気に入ったようだ。あんなジジイまで骨抜きにするなんざ、本当に性質が悪いオンナだ』
賢吾の口調には、皮肉げな響きと苦々しさが同居していた。なんとなく心配になった和彦は、ついこんな問いかけをしていた。
「……もしかして、ぼくのことで、会長と揉めたのか……?」
口にして、なんとも自惚れた発言だと思い、和彦は一人恥じ入る。一方の賢吾は、楽しそうに笑っていた。
『安心しろ。先生が原因で、総和会との仲がこじれることはない。俺もオヤジも、長嶺組が大事、先生が可愛い、という点で一致しているからな』
「何言ってるんだ」
賢吾が事実を語っているのか、和彦には確かめようがない。一つはっきりしているとすれば、これからも和彦は、回ってくる仕事を淡々とこなすということだけだ。総和会が主導権を握ろうが、物騒な男たちに守ってもらう和彦の立場は変わらない。
『先生、メシは食ったのか』
「食べた。これから――夜遊びに行くところだ」
『誰に相手をしてもらうんだ?』
和彦はぎこちなく息を吸い込み、意識して平坦な声で答えた。
「――……秦と、中嶋くんに……」
『楽しんでこい』
そう言った賢吾の声にゾクリとするような疼きを感じ、和彦は小さく身震いした。
和彦には、のちのち臆する自分の姿が見える。そのとき悩み苦しむぐらいなら、今、〈義務〉を果たして、自分の立場を賢吾や総和会に示しておくべきだろう。
この世界で守られている限り、課された仕事は果たす、という立場を。
和彦は、ファミリーレストランで一人食事をしていた。護衛の組員は気を利かせて、離れたテーブルについている。
無意識のうちに箸で豆腐ハンバーグを崩していることに気づき、慌てて口に運ぶ。さきほど、指紋偽造手術を手伝ったせいか、いつもは直視を避けている罪悪感と、久しぶりの対面を果たしていた。
この程度の罪悪感の疼きは、想定の範囲内だ。仕事をこなしていくうちに、何も感じなくなる。そう頭では理解しているが、やはりいつも通り食事を平らげるのは、少々無理なようだ。
もう一つ和彦が気になっているのは、和彦が受けるべき仕事を、賢吾が選別していたということだ。総和会から強い申し入れがなければ、賢吾は和彦に、指紋偽造という仕事をさせたくなかったのかもしれない。
「――……いや、あの男がそんなに、生ぬるいわけがないか……」
和彦なりに、賢吾の計算高さと狡猾さ、そして容赦のなさを美点として評価している。だからこそ、何か深い考えがあったのではないかと考え――期待してしまう。
ため息をついた和彦は、今夜はこのまま飲みに行きたい心境だった。誰かつき合ってくれないだろうかと思いながら、傍らに置いたコートのポケットをまさぐり、携帯電話を取り出す。
ここで初めて、秦からの着信があったことに気づいた。どうやら、和彦が指の皮膚を縫合している頃、かかってきたようだ。マナーモードにしておいたうえに、作業に集中していたため、まったく気づかなかった。
一体なんの用だろうかと思いつつも、止まりがちだった箸の動きは速くなる。
食事を終えて外に出ると、すぐに秦の携帯電話に折り返し電話をかけてみた。
『もしかして、仕事中でしたか?』
いつもと変わらない柔らかな声の秦が出る。前を留めていないコートを掻き合わせて、和彦は駐車場に向かう。
「いや、仕事は終わった。ついさっき携帯を見たら着信が残っていたから、電話をしてみたんだ。何か用か?」
『用というほどじゃありません。ただ、わたしの部屋に中嶋もいるのですが、先生を呼んで一緒に飲みたいなと思いまして』
「……君の部屋で?」
『わたしの部屋だと都合が悪いなら、外で飲んでもかまいませんよ』
気安くそう言った秦だが、絶妙なタイミングで、和彦の好奇心を刺激するような言葉を付け加えた。
『でも先生には、せっかくなので新しいベッドを見てもらいたいですね』
ピクリと肩を揺らした和彦は、誰かが聞いているはずもないのに、思わず周囲を見回してしまう。
「中嶋くんが自慢していたぞ。バレンタインデーに、チョコレート代わりに買ったと言って」
『自慢はしていませんよ、先生』
突然聞こえてきたのは、中嶋の声だ。どうやら秦の傍らで、しっかり二人の会話を聞いていたらしい。和彦は顔を綻ばせる。
「それは悪かった」
『どうしますか? わたしと中嶋は、すごく先生に会いたいですけど』
意味ありげに囁かれて、和彦の頬はわずかに熱くなる。
あることを強く意識して、予感もしていながら――いや、予感しているからこそ、和彦は断れなかった。
「――今から行く」
そう答えると、電話の向こうから秦の柔らかな笑い声が聞こえてきた。
和彦は車に乗り込むと、組員に行き先を告げる。そして、握ったままだった携帯電話で賢吾に連絡を取った。
『手術に立ち合って、どうだった?』
前置きなしに賢吾に問われ、和彦は軽く唇を舐める。
「人間の指の皮膚で、パズルをすることになるとは思わなかった」
和彦の表現に、電話の向こうで賢吾が低く笑い声を洩らす。
『メールじゃなく、電話がかかってきたから、てっきり先生は怒っているのかと思った』
「……どうしてぼくが、あんたに怒るんだ」
『犯罪の片棒を担がせたと言って。指紋の偽造ってのは、どうやったって言い訳ができない。普通じゃ、まず需要のない手術だ。顔の整形手術とはわけが違う。先生は、この世界の深みに、またさらにハマり込んだんだ』
「だから、総和会からの求めになかなか応じなかったのか」
ハンドルを握る組員が、一瞬バックミラー越しに視線を向けてくる。
『うちの連中は、先生に甘いな。そんなことまで話したのか』
「ぼくが、あんたを責めるかもしれないと心配してくれたんだ。頼むから、組員は責めないでくれ」
『先生も、うちの連中に甘い』
シートに深く体を預けて、和彦は外に目をやる。こちらから促すまでもなく、賢吾は教えてくれた。
『俺は、先生の柔軟性やしたたかさを評価しているし、愛している。だからこそ、仕事の面で甘やかす気はない。なんといっても、長嶺組組長のビジネスパートナーだ。――先生の医者としての腕は、できることなら長嶺組で囲い込みたかった。だからこそ先生を、総和会に一時預けるという形で、いままでの仕事を受けていたんだ』
「今回は違った?」
『リスクの大きな仕事は、総和会が責任を持って管理すると言っている。総和会全体で、先生の安全を守ってやる。だからこそ、危険な仕事も引き受けろ、ということだ。今晩の手術は、完全に総和会主導だ。手順はいままでと変わらなかっただろうが、裏ではいろいろとあった』
自分の知らないところで、総和会と賢吾の間でそんなやり取りがあったのかと、和彦は静かに息を呑む。
『オヤジ……総和会会長が、えらく先生を気に入ったようだ。あんなジジイまで骨抜きにするなんざ、本当に性質が悪いオンナだ』
賢吾の口調には、皮肉げな響きと苦々しさが同居していた。なんとなく心配になった和彦は、ついこんな問いかけをしていた。
「……もしかして、ぼくのことで、会長と揉めたのか……?」
口にして、なんとも自惚れた発言だと思い、和彦は一人恥じ入る。一方の賢吾は、楽しそうに笑っていた。
『安心しろ。先生が原因で、総和会との仲がこじれることはない。俺もオヤジも、長嶺組が大事、先生が可愛い、という点で一致しているからな』
「何言ってるんだ」
賢吾が事実を語っているのか、和彦には確かめようがない。一つはっきりしているとすれば、これからも和彦は、回ってくる仕事を淡々とこなすということだけだ。総和会が主導権を握ろうが、物騒な男たちに守ってもらう和彦の立場は変わらない。
『先生、メシは食ったのか』
「食べた。これから――夜遊びに行くところだ」
『誰に相手をしてもらうんだ?』
和彦はぎこちなく息を吸い込み、意識して平坦な声で答えた。
「――……秦と、中嶋くんに……」
『楽しんでこい』
そう言った賢吾の声にゾクリとするような疼きを感じ、和彦は小さく身震いした。
36
お気に入りに追加
1,365
あなたにおすすめの小説
執着攻めと平凡受けの短編集
松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。
疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。
基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)
総受けルート確定のBLゲーの主人公に転生してしまったんだけど、ここからソロエンドを迎えるにはどうすればいい?
寺一(テライチ)
BL
────妹よ。にいちゃんは、これから五人の男に抱かれるかもしれません。
ユズイはシスコン気味なことを除けばごくふつうの高校一年生。
ある日、熱をだした妹にかわって彼女が予約したゲームを店まで取りにいくことに。
その帰り道、ユズイは階段から足を踏みはずして命を落としてしまう。
そこに現れた女神さまは「あなたはこんなにはやく死ぬはずではなかった、お詫びに好きな条件で転生させてあげます」と言う。
それに「チート転生がしてみたい」と答えるユズイ。
女神さまは喜んで願いを叶えてくれた……ただしBLゲーの世界で。
BLゲーでのチート。それはとにかく攻略対象の主人公への好感度がバグレベルで上がっていくということ。
このままではなにもしなくても総受けルートが確定してしまう!
男にモテても仕方ないとユズイはソロエンドを目指すが、チートを望んだ代償は大きくて……!?
おとなりさん
すずかけあおい
BL
お隣さん(攻め)にお世話?されている受けの話です。
一応溺愛攻めのつもりで書きました。
〔攻め〕謙志(けんし)26歳・会社員
〔受け〕若葉(わかば)21歳・大学3年
いつかコントローラーを投げ出して
せんぷう
BL
オメガバース。世界で男女以外に、アルファ・ベータ・オメガと性別が枝分かれした世界で新たにもう一つの性が発見された。
世界的にはレアなオメガ、アルファ以上の神に選別されたと言われる特異種。
バランサー。
アルファ、ベータ、オメガになるかを自らの意思で選択でき、バランサーの状態ならどのようなフェロモンですら影響を受けない、むしろ自身のフェロモンにより周囲を調伏できる最強の性別。
これは、バランサーであることを隠した少年の少し不運で不思議な出会いの物語。
裏社会のトップにして最強のアルファ攻め
×
最強種バランサーであることをそれとなく隠して生活する兄弟想いな受け
※オメガバース特殊設定、追加性別有り
.
ヤクザと捨て子
幕間ささめ
BL
執着溺愛ヤクザ幹部×箱入り義理息子
ヤクザの事務所前に捨てられた子どもを自分好みに育てるヤクザ幹部とそんな保護者に育てられてる箱入り男子のお話。
ヤクザは頭の切れる爽やかな風貌の腹黒紳士。息子は細身の美男子の空回り全力少年。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる