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第20話
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しおりを挟むバレンタイン当日、男としての面目が立つ程度に、和彦は成果を上げていた。
クリニックのスタッフに、何度かカウンセリングに訪れている患者、そして、エレベーターでときどき一緒になる、クリニックの下の階で働いている女性事務員から、チョコレートをもらったのだ。
前に勤めていたクリニックでは、まるでシステムが出来上がっているように、朝、医局のデスクにチョコレートが素っ気なく置いてあるのが常だった。そのせいか、手渡しされるというのは非常に新鮮で、純粋に和彦は喜んでいた。三田村が言う世俗的なイベントの楽しみ方を、初めて理解したかもしれない。
しかし、無邪気に喜んでいる場合ではない。
この日、最後の患者を見送った和彦はデスクにつき、真剣な顔で考え込む。自分がバレンタインデーを堪能したから、あとは素知らぬ顔をしていい道理はなく、和彦は和彦で、しっかり役目がある。
昨日デパートで買ったものを、日ごろ〈世話〉になっている人間に渡さなくてはならないのだ。あくまで、誕生日を祝ってくれた礼のためであって、男の身でバレンタインデーに積極的にチョコレートを配り歩くわけではない。たまたま、今日なのだ。
近しい男たちに説明したところで、ニヤニヤと笑われるのが目に浮かぶような理由を、和彦は必死に心の中で繰り返す。
やはり、一日ぐらいズラしたほうがいいのではないかと思わなくもないが、それはそれで自意識過剰な気もする。何事もない顔をして、淡々と渡すのが一番無難なのだろう。
時間通りにクリニックを閉めて、他のスタッフとともに掃除を始める。
処置室で器具の数を確認してから、掃除機をかけていたところで、ふと和彦は自分の体の異変を感じた。本当は、今朝マンションを出るときから漠然と違和感はあったのだが、さほど気にかけていなかった。
それが時間とともに無視できなくなり、とうとう――。
掃除機のスイッチを一度切って、大きく息を吐き出す。少し動くのも息が切れるほど、体がだるかった。暖房が効きすぎているのかやけに顔が熱く、なんとなく気分がすっきりしない。首を撫でた和彦は心当たりを考えて、すぐにピンときた。
昨晩守光と会い、その後の出来事が鮮明に蘇る。確実に、体温が上がった。
南郷の運転する車でマンションまで送り届けられ、それからすぐに休んだが、さすがに肉体的なものはもちろん、精神的な疲労もまだ残っているようだ。
今日が金曜日で助かったと思いながら和彦は、掃除機を引きずりながらなんとか診察室までの掃除を終える。
月曜日に入っている予約について簡単に打ち合わせをしてから、スタッフを帰らせると、さっそく携帯電話を取り出した。
ある人物に電話をかけると、こちらが口を開く前に、勢い込むように元気な声が聞こえてきた。
『――先生っ、これからデートしよっ』
なんと切り出そうかと考えていたのがバカらしくなるほど、千尋は明け透けだ。周囲に誰もいないのだろうかと、余計な心配をしつつ和彦は苦笑を洩らす。
「今日はぼくが誘おうと思っていたのに、先を越されたな」
『えっ、バレンタインだから、何かくれるの?』
和彦の周囲にいる男たちは、行事ごとに対して非常に几帳面だ。その几帳面さは行事の種類を選ばないと、改めて痛感する。
バレンタインという単語を口にすることに千尋は抵抗がないようだが、和彦はどうしても、気恥ずかしさが先に立つ。
「いや……、なんというか、誕生日プレゼントの礼をしたいんだ。ちょうど、お前が今言ったイベントで盛り上がっているから、手間が省けるというか、手抜きしたわけじゃないが――」
『先生、チョコレート買ってくれたんだ』
千尋の声が笑いを含んでいる。ますます顔が熱くなっていくのを感じながら和彦は、渋々認める。
「お返しにちょうどよかったからな。言っておくが、深い意味はないからな。たまたま、チョコレートを売っていたから、いくつか買っただけだ」
『……ムキになって言い訳するあたりが、可愛いよなー、先生』
ニヤニヤとしている千尋の顔が容易に想像でき、どうやって反撃してやろうかと思った和彦だが、次の千尋の言葉でどうでもよくなった。
『今日、先生にチョコレートもらったら、次は俺が、ホワイトデーにお返しするね』
和彦はやや呆れて応じる。
「バカ。そんなことしてたら、キリがないだろ」
『いいの。俺、先生に貢ぐの好きだし』
「人聞きが悪い言い方するな……」
楽しそうな笑い声を上げた千尋に一緒に夕食をとろうと誘われ、和彦は承諾する。最初から、そのつもりだったのだ。
三十分後に外で落ち合うことにして、電話を切る。和彦はすぐに帰り支度を整え、クリニックをあとにする。
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