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第20話
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夕方になって突然〈決められた〉のだが、実はこれから、長嶺の本宅に向かわなければならない。賢吾から電話がかかってきて、いつものように夕食に誘われたのだ。クリニックを開業してから何かと多忙な和彦の食生活を、長嶺組として気遣っているらしい。夕食の誘いは頻繁だ。
ただ、今日に限っては間が悪いとしか言いようがない。
エレベーターの中で和彦は、手荒く自分の頬を撫でる。顔の筋肉が強張ってしまい、不自然な表情になりそうなのだ。興奮が鎮まった代わりに、今度は緊張感が肩にのしかかる。
昼間、里見に会ったあと、夕方からは賢吾と顔を合わせるのだ。大蛇を潜ませたあの目に見つめられれば、問われもしないうちに、何もかも話してしまいそうで、怖い。だからといって誘いを断る選択肢は、和彦にはなかった。
ビルを出ると、いつもの手順で迎えの車に乗り込み、長嶺の本宅に向かう。
組員に出迎えられて玄関に入ると、コートとアタッシェケースを預けて、まっすぐ賢吾の部屋へと行く。
緊張のあまり、不自然な態度を取ってしまうのではないかと危惧していたが、寛いだ様子で座卓についた賢吾の姿を見ると、胸の奥がじわりと熱くなった。
自分にとっての日常が、目の前にある。理屈ではなく、本能的にそう思った和彦は、すぐには声が出せず、ただ立ち尽くして賢吾を見つめる。
ニュース番組を観ていた賢吾が、そんな和彦を見てニヤリと笑い、テレビを消した。
「――どうかしたのか、先生。いまさら俺の顔なんざ、珍しくもないだろ」
賢吾の言葉に我に返り、和彦は慌てて部屋に入って障子を閉める。
「別に……、あんたの顔を見ていたわけじゃない。人を呼びつけておいて、悠然としているなと思ったんだ」
「なんだ。俺に玄関まで出迎えてほしかったのか?」
からかってくる賢吾に抗議しようとすると、組員がお茶とおしぼりを運んできたため、和彦も座卓についた。
賢吾が正面からじっと見つめてくる。いつになくその視線を意識しながら、熱いおしぼりで手を拭いた和彦は、さりげなく障子のほうを見る。
「千尋は?」
「すぐにやってくる。先生に渡したいものがあるそうだ」
こう言われてピンとこないほど、和彦は鈍くない。そっと眉をひそめると、賢吾は短く声を洩らして笑った。
「そんな顔をするな。高いものは買ってないそうだから、気楽に受け取ればいい。あいつなりに大事な先生を喜ばせようと、あれこれ考えているんだ」
賢吾の口調が心なしか柔らかくなる。賢吾と千尋の父子関係は独特で、特殊ですらあると言えるが、こういうときに和彦はやはり実感するのだ。ヤクザの組長である男は、一方で、一人息子をしっかりと育て上げてきた男でもあるのだと。
面映くなった和彦は、お茶を一口飲んでぼそぼそと応じる。
「……長嶺の男は、けっこうマメなんだな」
「それは、じいさんも込みで褒めているのか?」
さりげない賢吾の指摘に、和彦は慌てて湯のみを置いていた。里見と会ったこと以外に、賢吾にもう一つ隠し事をしていたことを思い出したのだ。独断で守光の側近に連絡を取り、誕生日プレゼントの礼を伝えてもらった件だ。
もっとも、隠し事というより、未報告といったほうが正確だろう。和彦は自分の口から話すつもりだったし、すでにもう守光が賢吾に話したかもしれない。
「言うのが遅くなったが――」
和彦が説明しようとしたとき、廊下から慌しい足音が聞こえてきたかと思うと、勢いよく障子が開いた。姿を見せたのはもちろん千尋で、なぜかスーツを着ている。
「先生っ」
パッと表情を輝かせた千尋が、人懐こい犬っころのように和彦の側にやってくる。きれいにセットされた髪や、鼻先を掠めたコロンの香りから、千尋がこれから出かけるのだと見当がついた。
「どこか行くのか?」
「オヤジの代理で、ちょっとね」
そう答えてから、千尋がジャケットのポケットから小さな紙袋を取り出す。
「先生、手出して」
「えっ、ああ……」
和彦が手を出すと、てのひらにその紙袋がのせられた。誕生日プレゼントだと言われ、思わず眉をひそめた和彦に、千尋は屈託なく笑いかけてくる。
「大丈夫。ものすごく安いものだから。でも絶対、先生は喜んでくれる」
千尋に促され、和彦は紙袋を開ける。中に入っていたのは皮製の携帯ストラップだった。
まじまじと眺めてから顔を上げると、千尋がじっと和彦の反応をうかがっている。和彦は顔を綻ばせた。
「ありがとう。嬉しいよ、千尋」
「よかった。値が張るもの贈ったら、先生が目を吊り上げて怒ると思ったから、いろいろ考えたんだ。あっ、もちろん、俺とお揃いだから」
「……だと思った」
ただ、今日に限っては間が悪いとしか言いようがない。
エレベーターの中で和彦は、手荒く自分の頬を撫でる。顔の筋肉が強張ってしまい、不自然な表情になりそうなのだ。興奮が鎮まった代わりに、今度は緊張感が肩にのしかかる。
昼間、里見に会ったあと、夕方からは賢吾と顔を合わせるのだ。大蛇を潜ませたあの目に見つめられれば、問われもしないうちに、何もかも話してしまいそうで、怖い。だからといって誘いを断る選択肢は、和彦にはなかった。
ビルを出ると、いつもの手順で迎えの車に乗り込み、長嶺の本宅に向かう。
組員に出迎えられて玄関に入ると、コートとアタッシェケースを預けて、まっすぐ賢吾の部屋へと行く。
緊張のあまり、不自然な態度を取ってしまうのではないかと危惧していたが、寛いだ様子で座卓についた賢吾の姿を見ると、胸の奥がじわりと熱くなった。
自分にとっての日常が、目の前にある。理屈ではなく、本能的にそう思った和彦は、すぐには声が出せず、ただ立ち尽くして賢吾を見つめる。
ニュース番組を観ていた賢吾が、そんな和彦を見てニヤリと笑い、テレビを消した。
「――どうかしたのか、先生。いまさら俺の顔なんざ、珍しくもないだろ」
賢吾の言葉に我に返り、和彦は慌てて部屋に入って障子を閉める。
「別に……、あんたの顔を見ていたわけじゃない。人を呼びつけておいて、悠然としているなと思ったんだ」
「なんだ。俺に玄関まで出迎えてほしかったのか?」
からかってくる賢吾に抗議しようとすると、組員がお茶とおしぼりを運んできたため、和彦も座卓についた。
賢吾が正面からじっと見つめてくる。いつになくその視線を意識しながら、熱いおしぼりで手を拭いた和彦は、さりげなく障子のほうを見る。
「千尋は?」
「すぐにやってくる。先生に渡したいものがあるそうだ」
こう言われてピンとこないほど、和彦は鈍くない。そっと眉をひそめると、賢吾は短く声を洩らして笑った。
「そんな顔をするな。高いものは買ってないそうだから、気楽に受け取ればいい。あいつなりに大事な先生を喜ばせようと、あれこれ考えているんだ」
賢吾の口調が心なしか柔らかくなる。賢吾と千尋の父子関係は独特で、特殊ですらあると言えるが、こういうときに和彦はやはり実感するのだ。ヤクザの組長である男は、一方で、一人息子をしっかりと育て上げてきた男でもあるのだと。
面映くなった和彦は、お茶を一口飲んでぼそぼそと応じる。
「……長嶺の男は、けっこうマメなんだな」
「それは、じいさんも込みで褒めているのか?」
さりげない賢吾の指摘に、和彦は慌てて湯のみを置いていた。里見と会ったこと以外に、賢吾にもう一つ隠し事をしていたことを思い出したのだ。独断で守光の側近に連絡を取り、誕生日プレゼントの礼を伝えてもらった件だ。
もっとも、隠し事というより、未報告といったほうが正確だろう。和彦は自分の口から話すつもりだったし、すでにもう守光が賢吾に話したかもしれない。
「言うのが遅くなったが――」
和彦が説明しようとしたとき、廊下から慌しい足音が聞こえてきたかと思うと、勢いよく障子が開いた。姿を見せたのはもちろん千尋で、なぜかスーツを着ている。
「先生っ」
パッと表情を輝かせた千尋が、人懐こい犬っころのように和彦の側にやってくる。きれいにセットされた髪や、鼻先を掠めたコロンの香りから、千尋がこれから出かけるのだと見当がついた。
「どこか行くのか?」
「オヤジの代理で、ちょっとね」
そう答えてから、千尋がジャケットのポケットから小さな紙袋を取り出す。
「先生、手出して」
「えっ、ああ……」
和彦が手を出すと、てのひらにその紙袋がのせられた。誕生日プレゼントだと言われ、思わず眉をひそめた和彦に、千尋は屈託なく笑いかけてくる。
「大丈夫。ものすごく安いものだから。でも絶対、先生は喜んでくれる」
千尋に促され、和彦は紙袋を開ける。中に入っていたのは皮製の携帯ストラップだった。
まじまじと眺めてから顔を上げると、千尋がじっと和彦の反応をうかがっている。和彦は顔を綻ばせた。
「ありがとう。嬉しいよ、千尋」
「よかった。値が張るもの贈ったら、先生が目を吊り上げて怒ると思ったから、いろいろ考えたんだ。あっ、もちろん、俺とお揃いだから」
「……だと思った」
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