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第13話
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「ああ……」
こんな生活を送っていれば、知りたくないことは山のようにある。それでも、視界に入り、耳に入るものを塞ぐことはできない。今の生活は、知りたくないことを知りながら、感情と良心に折り合いをつけて成り立っているのだ。
感情はともかく、和彦の良心は確実に磨耗している。そのうち、この世界にいて何を知っても、眉をひそめることはなくなるだろう。
上手く隠してくれという三田村への頼みは、ささやかな足掻きのようなものだ。
スタッフの採用までの流れを、確認を兼ねて打ち合わせする。三田村はクリニック経営に関わることはないが、まったく無関係というわけではない。賢吾以外で、和彦と長嶺組を強く結びつけているのは、三田村なのだ。
「組絡みの患者を診るとき、先生を手伝うスタッフについては、安心してくれ。今、うちの人間が動いている。むしろ、人材集めはこっちのほうが手間はかからないかもしれない」
「そうなのか?」
「先生が思っている以上に、先生のクリニックに期待している人間――組は多い。医者の手伝いができる人間を捜していると言えば、どの組も喜んでツテをあたってくれる」
責任重大だ、と洩らした和彦は、開いたままだったファイルを閉じる。持ち帰って目を通すつもりだった。年明けには、一緒に働くことになる人間を選ぶのだ。履歴書のコピーと報告書を見て、慎重に考えたい。
これで打ち合わせは終わりだ。長居して、三田村の仕事を邪魔するのも悪いので、和彦は帰ることを告げ、立ち上がる。
コートを羽織ってからマフラーを取り上げると、三田村が表情を和らげた。
「先生もとうとう、マフラーを巻いて出歩くようになったんだな」
「……仕方ないだろ。巻いてないと、寒くないかと聞かれるんだ。こうして巻いておいたら、ぼくより、周りの人間が安心するんだと思うようにした」
「先生に、風邪でも引かれたら大変だから、諦めてくれ」
傍らに立った三田村が、首に引っ掛けただけのマフラーを丁寧な手つきで巻いてくれる。こんなことをされると、車に乗っても外せない。
「気をつけて帰ってくれ」
「ああ」
短く応じた和彦は、マフラーの端を掴む三田村の手を、素早く握り締めた。
時間が緩やかに流れているような夜だった。賢吾も千尋も訪れないし、書斎に閉じこもって書類仕事をする気分でもなく、急患を告げる電話もない。
言い換えるなら、退屈な夜ともいえるが、今のような生活に入る前は、これが当たり前だった。
リビングのソファに腰掛けた和彦は、ミルクがたっぷり入ったコーヒーを啜りながら、ぼんやりとDVDを観ていた。まとめ買いしたまま放置していた映画のDVDを、こういうときに消化すべきだと、妙な義務感に駆られたのだ。
最初はまじめに観ていたのだが、次第に内容が頭に入らなくなる。
外の空気が恋しくなり、マンション近くのホテルのバーに飲みに行こうかと、ちらりと考える。もちろん、考えるだけだ。寒い中、護衛の組員を呼び出してまで飲む気はない。
誰か外に誘い出してくれないだろうかと考えていると、テーブルの上に置いた携帯電話が鳴った。
反射的に携帯電話を取り上げて、表示された名を見る。思わず和彦は、口元に笑みを浮かべていた。
「――もしかして、夜遊びのお誘いか」
電話に出た和彦の開口一番の言葉に、電話の向こうから微かな笑い声が聞こえてくる。
『なんだか、待ちかねていたような口ぶりですね、先生』
「実は、退屈していたんだ」
『気をつけてください。非日常が、今の先生にとっての日常ですから。強い刺激に慣れてしまうと、感覚はなかなか元には戻りませんよ』
「……嫌なことを言う」
電話の向こうで中嶋が声を洩らして笑っている。すでに酔っているのかと思うほど、機嫌はよさそうだ。
『先生が考えた通り、これから〈二人〉で飲みに行かないかと思って、こうして連絡しました。出世したおかげで、夜は人並みに楽しく過ごせるようになりましたから、さっそく満喫しようかと』
「それはいい。今のぼくを気軽に誘ってくれる人間なんて、ほとんどいないからな。君が遊び歩けるようになったら、ぼくもありがたい」
三十分後に中嶋が、タクシーでマンション前まで迎えにくることで、あっさり話はまとまる。
電話を切った和彦は、すぐにクロゼットから服を引っ張り出してくる。ラフな格好でかまわないという話なので、気楽にアルコールが楽しめる店のようだ。忘れずにマフラーも持ってきたところで、和彦はあることを思い出し、子機を取り上げる。
こんな生活を送っていれば、知りたくないことは山のようにある。それでも、視界に入り、耳に入るものを塞ぐことはできない。今の生活は、知りたくないことを知りながら、感情と良心に折り合いをつけて成り立っているのだ。
感情はともかく、和彦の良心は確実に磨耗している。そのうち、この世界にいて何を知っても、眉をひそめることはなくなるだろう。
上手く隠してくれという三田村への頼みは、ささやかな足掻きのようなものだ。
スタッフの採用までの流れを、確認を兼ねて打ち合わせする。三田村はクリニック経営に関わることはないが、まったく無関係というわけではない。賢吾以外で、和彦と長嶺組を強く結びつけているのは、三田村なのだ。
「組絡みの患者を診るとき、先生を手伝うスタッフについては、安心してくれ。今、うちの人間が動いている。むしろ、人材集めはこっちのほうが手間はかからないかもしれない」
「そうなのか?」
「先生が思っている以上に、先生のクリニックに期待している人間――組は多い。医者の手伝いができる人間を捜していると言えば、どの組も喜んでツテをあたってくれる」
責任重大だ、と洩らした和彦は、開いたままだったファイルを閉じる。持ち帰って目を通すつもりだった。年明けには、一緒に働くことになる人間を選ぶのだ。履歴書のコピーと報告書を見て、慎重に考えたい。
これで打ち合わせは終わりだ。長居して、三田村の仕事を邪魔するのも悪いので、和彦は帰ることを告げ、立ち上がる。
コートを羽織ってからマフラーを取り上げると、三田村が表情を和らげた。
「先生もとうとう、マフラーを巻いて出歩くようになったんだな」
「……仕方ないだろ。巻いてないと、寒くないかと聞かれるんだ。こうして巻いておいたら、ぼくより、周りの人間が安心するんだと思うようにした」
「先生に、風邪でも引かれたら大変だから、諦めてくれ」
傍らに立った三田村が、首に引っ掛けただけのマフラーを丁寧な手つきで巻いてくれる。こんなことをされると、車に乗っても外せない。
「気をつけて帰ってくれ」
「ああ」
短く応じた和彦は、マフラーの端を掴む三田村の手を、素早く握り締めた。
時間が緩やかに流れているような夜だった。賢吾も千尋も訪れないし、書斎に閉じこもって書類仕事をする気分でもなく、急患を告げる電話もない。
言い換えるなら、退屈な夜ともいえるが、今のような生活に入る前は、これが当たり前だった。
リビングのソファに腰掛けた和彦は、ミルクがたっぷり入ったコーヒーを啜りながら、ぼんやりとDVDを観ていた。まとめ買いしたまま放置していた映画のDVDを、こういうときに消化すべきだと、妙な義務感に駆られたのだ。
最初はまじめに観ていたのだが、次第に内容が頭に入らなくなる。
外の空気が恋しくなり、マンション近くのホテルのバーに飲みに行こうかと、ちらりと考える。もちろん、考えるだけだ。寒い中、護衛の組員を呼び出してまで飲む気はない。
誰か外に誘い出してくれないだろうかと考えていると、テーブルの上に置いた携帯電話が鳴った。
反射的に携帯電話を取り上げて、表示された名を見る。思わず和彦は、口元に笑みを浮かべていた。
「――もしかして、夜遊びのお誘いか」
電話に出た和彦の開口一番の言葉に、電話の向こうから微かな笑い声が聞こえてくる。
『なんだか、待ちかねていたような口ぶりですね、先生』
「実は、退屈していたんだ」
『気をつけてください。非日常が、今の先生にとっての日常ですから。強い刺激に慣れてしまうと、感覚はなかなか元には戻りませんよ』
「……嫌なことを言う」
電話の向こうで中嶋が声を洩らして笑っている。すでに酔っているのかと思うほど、機嫌はよさそうだ。
『先生が考えた通り、これから〈二人〉で飲みに行かないかと思って、こうして連絡しました。出世したおかげで、夜は人並みに楽しく過ごせるようになりましたから、さっそく満喫しようかと』
「それはいい。今のぼくを気軽に誘ってくれる人間なんて、ほとんどいないからな。君が遊び歩けるようになったら、ぼくもありがたい」
三十分後に中嶋が、タクシーでマンション前まで迎えにくることで、あっさり話はまとまる。
電話を切った和彦は、すぐにクロゼットから服を引っ張り出してくる。ラフな格好でかまわないという話なので、気楽にアルコールが楽しめる店のようだ。忘れずにマフラーも持ってきたところで、和彦はあることを思い出し、子機を取り上げる。
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