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第11話
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和彦が思いつくまま簡単に述べると、秦は軽く拍手した。思わず睨みつけた和彦だが、すでに包帯が巻かれていない秦の右手のてのひらに、大きな絆創膏を貼ってあるのが見えた。和彦の視線に気づき、秦はてのひらを差し出してくる。
「先生が何度も忠告してくれたので、病院に行って胸のレントゲンを撮ってもらったんです。そのとき、抜糸もしてもらいました。もう少し早く来いと怒られましたが、傷の縫い目がきれいだとも言われましたよ」
「別に……、特別丁寧にしたわけじゃない。そういう縫い方が身についてるんだ」
「肋骨のほうは、しっかり固定して、静かに日常生活を送っていたので、完治も間近だそうです。すべて、先生のおかげです」
「感謝なら――」
中嶋くんにしてくれ、と言おうとして、和彦は反射的に口元に手をやる。先週、その中嶋と自分が何をしたのか思い出したのだ。
欲情を刺激されないくせに、不快どころか、心地よさを覚える不思議なキスだ。やましい気持ちがないからこそ、罪悪感とも無縁だ。だが、誰にも言えない。
「先生、どうかしましたか?」
「あっ、いや……。君を診るよう頼んできたのは、中嶋くんだ。そうじゃなかったら、ぼくは君と関わる気はなかった。感謝の言葉なら、彼にかけてやってくれ」
「もうたっぷり、メシを奢らされました。それに――」
ソファの背もたれに体を預けた秦が、ふっと唇に笑みを刻む。甘いだけではない、わずかな苦さを含んだ笑みに見えた。
「自分に感謝しているなら、本当の名前を教えてくれと言われましたよ。それどころか、わたしを襲った人間を捜し出したいから、心当たりがあったら、全部話してくれとも。わたしは今までにも何度もヤバイ目に遭ってきて、そのことを中嶋も知っているんですが、こんなことを言われたのは初めてです。さすがに、面食らいました」
秦の言葉から、中嶋の中で起こりつつある変化を知った。
和彦は無意識にソファに座り直し、先日、中嶋がスポーツジムで言っていたことを思い出していた。あのとき中嶋は、秦の個人的なことは詮索しないと言っていた。だからこそ秦は、自分の存在を気楽に感じているのかもしれないとも。
その中嶋が、秦の本当の姿を知りたがったというのは、大きな変化なのだ。
「……見た目はともかく、中嶋は中身は、筋金入りのヤクザですよ。自分が身を置く組織への忠義と野心が程よくバランスが取れて、情なんていくらでも切り売りできる。そういう人種です。――と、わたしはいままで思っていたんですが……」
「教えてやればいいじゃないか。本当の名前ぐらい。君は謎が多い人間なんだろ。だったら、いくつかの秘密を中嶋くんに話したところで、惜しくもないんじゃないか」
「先生は、中嶋の味方なんですね」
思わず咳払いした和彦は、ムキになって言い返した。
「違うっ。君がどんな男だろうが、慕っている人間からすれば、せめて名前ぐらい知りたいと思っても、当然じゃないかと言いたいんだ」
「――秦静馬が、わたしの本名ですよ。生まれた頃から」
ウソをつけと、非難がましく鋭い視線を向ける。そんな和彦に対して秦は、やっと真剣な表情を見せた。
「わたしの秘密は、長嶺組長の所有となりました。――野心をたっぷり抱えた中嶋にとっては、わたしの秘密なんてむしろ毒であり、邪魔になりますよ。奴は、わたしに深入りしないほうが、まっとうなヤクザとして生きていける。……ああ、この表現は変ですかね」
「だったらどうして、もっと早くにそう言ってやらなかった」
「ヤクザである中嶋は、利用できるからです。現に、暴行されたわたしを匿ってくれたのは、あいつだ」
あまりに簡単に言われ、和彦は咄嗟に声が出なかった。
中嶋も、秦を利用するつもりでいる。だから秦が、中嶋を利用したところで、お互い様の一言で片付く。しかし和彦は釈然としない。秦の芝居がかったような話し方のせいか、どこからどこまでが本心であり、偽りなのかわからないのだ。
ムキになるなと自分に言い聞かせ、深く息を吐き出す。
「……別に、君らの関係なんてどうでもいいんだ。ぼくを巻き込まない限りは」
「どうでしょうね。中嶋は、先生を気に入ってますよ。もちろん、わたしも」
和彦がぐっと唇を引き結んで黙り込むと、ノックもなしにいきなりドアが開き、賢吾が入ってきた。不機嫌そうな和彦の顔を見るなり、ニッと笑いかけてくる。
「ずいぶん、会話が盛り上がっているようだったな」
「そんなことはない……」
「そう素っ気ない返事をするな。この男は仮にも、先生の浮気相手だろ」
睨みつける和彦とは対照的に、賢吾はどこまでも楽しそうだ。和彦の隣にドカッと腰を下ろすと、当然のように肩を抱いてくる。
「おいっ――」
「先生が何度も忠告してくれたので、病院に行って胸のレントゲンを撮ってもらったんです。そのとき、抜糸もしてもらいました。もう少し早く来いと怒られましたが、傷の縫い目がきれいだとも言われましたよ」
「別に……、特別丁寧にしたわけじゃない。そういう縫い方が身についてるんだ」
「肋骨のほうは、しっかり固定して、静かに日常生活を送っていたので、完治も間近だそうです。すべて、先生のおかげです」
「感謝なら――」
中嶋くんにしてくれ、と言おうとして、和彦は反射的に口元に手をやる。先週、その中嶋と自分が何をしたのか思い出したのだ。
欲情を刺激されないくせに、不快どころか、心地よさを覚える不思議なキスだ。やましい気持ちがないからこそ、罪悪感とも無縁だ。だが、誰にも言えない。
「先生、どうかしましたか?」
「あっ、いや……。君を診るよう頼んできたのは、中嶋くんだ。そうじゃなかったら、ぼくは君と関わる気はなかった。感謝の言葉なら、彼にかけてやってくれ」
「もうたっぷり、メシを奢らされました。それに――」
ソファの背もたれに体を預けた秦が、ふっと唇に笑みを刻む。甘いだけではない、わずかな苦さを含んだ笑みに見えた。
「自分に感謝しているなら、本当の名前を教えてくれと言われましたよ。それどころか、わたしを襲った人間を捜し出したいから、心当たりがあったら、全部話してくれとも。わたしは今までにも何度もヤバイ目に遭ってきて、そのことを中嶋も知っているんですが、こんなことを言われたのは初めてです。さすがに、面食らいました」
秦の言葉から、中嶋の中で起こりつつある変化を知った。
和彦は無意識にソファに座り直し、先日、中嶋がスポーツジムで言っていたことを思い出していた。あのとき中嶋は、秦の個人的なことは詮索しないと言っていた。だからこそ秦は、自分の存在を気楽に感じているのかもしれないとも。
その中嶋が、秦の本当の姿を知りたがったというのは、大きな変化なのだ。
「……見た目はともかく、中嶋は中身は、筋金入りのヤクザですよ。自分が身を置く組織への忠義と野心が程よくバランスが取れて、情なんていくらでも切り売りできる。そういう人種です。――と、わたしはいままで思っていたんですが……」
「教えてやればいいじゃないか。本当の名前ぐらい。君は謎が多い人間なんだろ。だったら、いくつかの秘密を中嶋くんに話したところで、惜しくもないんじゃないか」
「先生は、中嶋の味方なんですね」
思わず咳払いした和彦は、ムキになって言い返した。
「違うっ。君がどんな男だろうが、慕っている人間からすれば、せめて名前ぐらい知りたいと思っても、当然じゃないかと言いたいんだ」
「――秦静馬が、わたしの本名ですよ。生まれた頃から」
ウソをつけと、非難がましく鋭い視線を向ける。そんな和彦に対して秦は、やっと真剣な表情を見せた。
「わたしの秘密は、長嶺組長の所有となりました。――野心をたっぷり抱えた中嶋にとっては、わたしの秘密なんてむしろ毒であり、邪魔になりますよ。奴は、わたしに深入りしないほうが、まっとうなヤクザとして生きていける。……ああ、この表現は変ですかね」
「だったらどうして、もっと早くにそう言ってやらなかった」
「ヤクザである中嶋は、利用できるからです。現に、暴行されたわたしを匿ってくれたのは、あいつだ」
あまりに簡単に言われ、和彦は咄嗟に声が出なかった。
中嶋も、秦を利用するつもりでいる。だから秦が、中嶋を利用したところで、お互い様の一言で片付く。しかし和彦は釈然としない。秦の芝居がかったような話し方のせいか、どこからどこまでが本心であり、偽りなのかわからないのだ。
ムキになるなと自分に言い聞かせ、深く息を吐き出す。
「……別に、君らの関係なんてどうでもいいんだ。ぼくを巻き込まない限りは」
「どうでしょうね。中嶋は、先生を気に入ってますよ。もちろん、わたしも」
和彦がぐっと唇を引き結んで黙り込むと、ノックもなしにいきなりドアが開き、賢吾が入ってきた。不機嫌そうな和彦の顔を見るなり、ニッと笑いかけてくる。
「ずいぶん、会話が盛り上がっているようだったな」
「そんなことはない……」
「そう素っ気ない返事をするな。この男は仮にも、先生の浮気相手だろ」
睨みつける和彦とは対照的に、賢吾はどこまでも楽しそうだ。和彦の隣にドカッと腰を下ろすと、当然のように肩を抱いてくる。
「おいっ――」
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