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第10話
(6)
しおりを挟む組お抱えの医者は、こういう仕事もこなさなければならないのかと、内心でうんざりしながら、和彦は箸を動かす。
「先生、遠慮しないで、どんどん飲んでください」
中嶋の言葉に半ば反射的に頷く。和彦の好みをすでに把握しているらしく、膳とともに出されているのは、グラスワインだ。口当たりのいい美味しいワインだが、飲みすぎにだけは気をつけている。
中嶋の手前、形だけグラスに口をつけた和彦は、視線を泳がせたついでに、座敷を眺める。総和会の幹部がよく利用しているというだけあって、とにかく高そうな料亭だ。
総和会から呼び出しがかかったとき、いつものように、どこかの組から依頼された患者を診るものだと思ったが、そうではなかった。
中嶋に連れて行かれたのはこの高級料亭で、もちろんここで患者を診るわけではなく、昼食としては豪華すぎる食事をとることになった。
長嶺組の庇護を受けている和彦は、書類上は、総和会にも加入している。数か月前、長嶺組の加入書にサインしたあと、改めて場が設けられ、和彦は総和会の人間が見ている前で、今度は総和会の加入書にもサインをさせられた。その瞬間から、長嶺組だけでなく、総和会の身内となったのだ。
だからこそ、総和会から回ってくる仕事もこなしてきたのだが、和彦が直接引き受けるのではなく、長嶺組が仲介する形となっているため、正直なところ和彦には、自分が総和会の人間だという意識は希薄だった。
総和会側も、和彦については、仕事を依頼するたびに長嶺組から派遣されてくる医者、という認識だろう。傷一つつけないよう和彦を丁重に扱うが、それ以上でも、以下でもない。
ビジネスライクだが、面倒事に巻き込まれる可能性が低いのはありがたい。和彦は今日まで、そう考えていた――。
「クリニックの開業日は決まりましたか、先生?」
さきほどから話しかけてくるのは、総和会の藤倉だ。縁なし眼鏡をかけた印象の薄い容貌で、愛想よく話しかけてくる様子は、やはりビジネスマンのようだ。総和会の加入書に名前を書くよう求められてからのつき合いだが、こうして顔を合わせたのは、まだほんの数回ほどだ。
文書室筆頭という肩書きを持ち、事務処理を担当する藤倉は、和彦が総和会に回すカルテや処方箋の管理も行っているため、会話を交わす機会より、書類のやり取りのほうが遥かに多いのだ。
それが急に、慰労を兼ねて接待したいと言われれば、警戒心が乏しいと言われる和彦も、何事かと身構えてしまう。
「いえ、まだです。ただ、年明けには間に合わせるつもりです。クリニックそのものは、開業準備は順調に進んでいますから、あとは役所や関係機関への申請さえ無事に済めば……」
「なるほど。普通の医者が開業をするのとは、わけが違いますからね。その辺りは、細心の注意を払う必要があるというわけですか」
「ヤクザの道楽というには、金も手間も、何より、ぼくの人生がかかってますから」
和彦の言葉に、中嶋がちらりとこちらを見た。何を考えているかわからない眼差しに、居心地の悪さに拍車がかかる。
ここのところ明らかに、中嶋の和彦に対する態度は変わった。馴れ馴れしくない程度に和彦と親しくしていた中嶋だが、今はどこかよそよそしい。冷たくなったとか、悪意を向けられるとか、そういうわかりやすいものではないのだ。
おそらく、意識されている。そして、値踏みされている。和彦が秦にとってどういう人間なのかと。
秦のシンパといっても過言ではない中嶋としては、長嶺組組長のオンナである和彦と秦がキスする場面など見てしまっては、こんな態度を取って当然なのかもしれない。
状況を説明するべきなのかもしれないが、実のところ和彦にも、秦の考えなどわからないし、キスされたことも事実なのだ。それに、キスどころか――。
妖しい記憶が蘇りそうになり、和彦は慌ててワインを飲み干す。
ヤクザに接待されるという状況ですら肩が凝るのに、中嶋の態度を意識してしまうと、食事の味がわからなくなりそうだ。
「今の先生の言葉ですが、クリニックを開業するとなると、かかる金額も大きいんじゃないですか? 門外漢のわたしですら、医療機器は高価だと想像がつくぐらいです」
「ええ、まあ……。医者のぼくも、見積り金額に驚いたぐらいです」
食事中に出す話題としてはあからさまだと、思わず身構えた和彦に対して、藤倉は単刀直入に切り出した。
「――先生のクリニックに、総和会も協力させてもらえないだろうかと、そういう話が幹部会で挙がっているんですよ」
幹部会、と口中で反芻した和彦は、眉をひそめて藤倉に問いかける。
「総和会の、ですか?」
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