173 / 1,267
第9話
(21)
しおりを挟む
一瞬にして完璧な無表情となった三田村が、低い声で電話に応対する。和彦は気にしていないふりをして立ち上がり、もう一度砂浜に下りてみる。さきほど見かけたカップルは、今はぴったりと身を寄せ合い、互いの腰に腕を回していた。微笑ましさに顔を綻ばせていると、背後から三田村に呼ばれる。
「先生」
振り返り、険しさを増した三田村の顔を見た和彦は、すぐに階段へと戻る。
「何かあったのか?」
「あった、というほど大げさなことじゃない。ただ、俺がついている若頭のシマで、ちょっとした面倒が起こりそうだと、報告があったんだ」
長嶺組の若頭たちは、それぞれ自分の組を持っている。実際のところは、長嶺組が治める縄張りを管理するための名目上のものだが、長嶺組直轄の配下という存在は、ヤクザの世界では特別視されるらしい。長嶺組から与えられた組の名は、その名刺のようなものだ。
長嶺組では『若頭』である男たちは、任されている縄張りの中では、『組長』であり、組を切り盛りしなくてはならない。
それらの組は、長嶺組に一定の上納金を納め、縄張り内での裁量の自由を得る。不義理をしない限り、長嶺組は口出ししないのだという。
三田村が言った『シマ』とは、その長嶺組から任されている縄張りのことだ。
「今夜、シマにある店のいくつかに手入れがあるらしい」
「……警察絡み、だよな? それがどうして、今わかるんだ」
階段を上がりながら和彦が問いかけると、三田村にちらりと視線を向けられる。それで、なんとなく理解した。
「清廉潔白な警官だけじゃない。鷹津のように、ヤクザをいたぶって、骨までしゃぶろうとした腐った奴もいれば、ヤクザに飼われて小金を得る奴もいる」
三田村の話を聞いて、鷹津は一体、ヤクザ相手に何をしていたのかと、空恐ろしくなる。あの存在を思い返すだけで不快感に襲われるため、賢吾からあえて詳しい話を聞いていないのだが、ロクでもない男だということは確かだ。
「いつもなら、警察は何日も前から下調べをしているから、早いうちに手入れの情報は入手できるんだが、今回に限っては、突然だ。組のほうも少し混乱しているらしい。組と、その警官が繋がっていると知られたうえで、偽の情報を掴まされた可能性もあるからな」
「それで、どうするんだ?」
「今、対応を話し合っているそうだ。俺も戻ってから、若頭の元に顔を出さなきゃいけない」
和彦は返事をしないまま、残っていたコーヒーを飲み干す。すると、すかさず伸びてきた三田村の手に缶を取り上げられた。二人はゴミ箱の前で立ち止まり、示し合わせたように互いの顔を見つめる。
「……今、警察がイレギュラーな動きをしていると聞くと、ある男の顔がまっさきに頭に浮かぶんだが、ぼくの考えすぎか?」
和彦の言葉に、三田村は首を横に振る。
「警察の詳しい内情まではわからないが、鷹津が長嶺の周辺をうろついている限り、考えすぎということはないだろう。慎重すぎるほど慎重になって間違いはない。特に、先生は」
三田村に促され、並んで歩きながら車へと戻る。
「いざとなれば組は、誰も立ち入れない鉄の壁そのものになる。必要とあれば、誰かが犠牲になるが、それすら、組を守るためだ。その中で先生は、組長だけじゃなく、組そのものにとっての弱点になる。かけがえのない存在だからだ。だからこそ俺たちは守るし、反対に、警察は目をつけるかもしれない」
「なんだか、大事だな……」
「怯えて暮らしてくれと言っているわけじゃない。ただ、俺たちに守られてほしいんだ」
三田村が〈助手席〉のドアを開けてくれ、乗り込みながら和彦は、ため息交じりに洩らした。
「そんなにぼくは、危なっかしいか」
「ようやく自覚してくれたな、先生」
生まじめな顔で三田村に言われ、和彦としては苦笑を洩らすしかなかった。
冷蔵庫を開けた和彦は、あっ、と小さく声を洩らす。シャワーを浴びて出て飲むつもりだった牛乳がなかったからだ。必要なものがあれば、連絡さえしておけば組員が買ってきてくれるのだが、頼むのをうっかり忘れていた。
ペットボトルのお茶はあるので、それで我慢しておこうかとも思ったのだが、欲しいものが冷蔵庫にないと、気になって仕方ない。
少し考えてから和彦は、着込んだばかりのパジャマから、カーゴパンツとシャツに着替え、その上から上着を羽織る。髪は濡れたままだが、近所のコンビニに出かけるだけなので、わざわざ乾かす必要はない。
ポケットに財布と鍵を突っ込み、部屋を出た。
「先生」
振り返り、険しさを増した三田村の顔を見た和彦は、すぐに階段へと戻る。
「何かあったのか?」
「あった、というほど大げさなことじゃない。ただ、俺がついている若頭のシマで、ちょっとした面倒が起こりそうだと、報告があったんだ」
長嶺組の若頭たちは、それぞれ自分の組を持っている。実際のところは、長嶺組が治める縄張りを管理するための名目上のものだが、長嶺組直轄の配下という存在は、ヤクザの世界では特別視されるらしい。長嶺組から与えられた組の名は、その名刺のようなものだ。
長嶺組では『若頭』である男たちは、任されている縄張りの中では、『組長』であり、組を切り盛りしなくてはならない。
それらの組は、長嶺組に一定の上納金を納め、縄張り内での裁量の自由を得る。不義理をしない限り、長嶺組は口出ししないのだという。
三田村が言った『シマ』とは、その長嶺組から任されている縄張りのことだ。
「今夜、シマにある店のいくつかに手入れがあるらしい」
「……警察絡み、だよな? それがどうして、今わかるんだ」
階段を上がりながら和彦が問いかけると、三田村にちらりと視線を向けられる。それで、なんとなく理解した。
「清廉潔白な警官だけじゃない。鷹津のように、ヤクザをいたぶって、骨までしゃぶろうとした腐った奴もいれば、ヤクザに飼われて小金を得る奴もいる」
三田村の話を聞いて、鷹津は一体、ヤクザ相手に何をしていたのかと、空恐ろしくなる。あの存在を思い返すだけで不快感に襲われるため、賢吾からあえて詳しい話を聞いていないのだが、ロクでもない男だということは確かだ。
「いつもなら、警察は何日も前から下調べをしているから、早いうちに手入れの情報は入手できるんだが、今回に限っては、突然だ。組のほうも少し混乱しているらしい。組と、その警官が繋がっていると知られたうえで、偽の情報を掴まされた可能性もあるからな」
「それで、どうするんだ?」
「今、対応を話し合っているそうだ。俺も戻ってから、若頭の元に顔を出さなきゃいけない」
和彦は返事をしないまま、残っていたコーヒーを飲み干す。すると、すかさず伸びてきた三田村の手に缶を取り上げられた。二人はゴミ箱の前で立ち止まり、示し合わせたように互いの顔を見つめる。
「……今、警察がイレギュラーな動きをしていると聞くと、ある男の顔がまっさきに頭に浮かぶんだが、ぼくの考えすぎか?」
和彦の言葉に、三田村は首を横に振る。
「警察の詳しい内情まではわからないが、鷹津が長嶺の周辺をうろついている限り、考えすぎということはないだろう。慎重すぎるほど慎重になって間違いはない。特に、先生は」
三田村に促され、並んで歩きながら車へと戻る。
「いざとなれば組は、誰も立ち入れない鉄の壁そのものになる。必要とあれば、誰かが犠牲になるが、それすら、組を守るためだ。その中で先生は、組長だけじゃなく、組そのものにとっての弱点になる。かけがえのない存在だからだ。だからこそ俺たちは守るし、反対に、警察は目をつけるかもしれない」
「なんだか、大事だな……」
「怯えて暮らしてくれと言っているわけじゃない。ただ、俺たちに守られてほしいんだ」
三田村が〈助手席〉のドアを開けてくれ、乗り込みながら和彦は、ため息交じりに洩らした。
「そんなにぼくは、危なっかしいか」
「ようやく自覚してくれたな、先生」
生まじめな顔で三田村に言われ、和彦としては苦笑を洩らすしかなかった。
冷蔵庫を開けた和彦は、あっ、と小さく声を洩らす。シャワーを浴びて出て飲むつもりだった牛乳がなかったからだ。必要なものがあれば、連絡さえしておけば組員が買ってきてくれるのだが、頼むのをうっかり忘れていた。
ペットボトルのお茶はあるので、それで我慢しておこうかとも思ったのだが、欲しいものが冷蔵庫にないと、気になって仕方ない。
少し考えてから和彦は、着込んだばかりのパジャマから、カーゴパンツとシャツに着替え、その上から上着を羽織る。髪は濡れたままだが、近所のコンビニに出かけるだけなので、わざわざ乾かす必要はない。
ポケットに財布と鍵を突っ込み、部屋を出た。
46
お気に入りに追加
1,359
あなたにおすすめの小説
もう人気者とは付き合っていられません
花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。
モテるのは当然だ。でも――。
『たまには二人だけで過ごしたい』
そう願うのは、贅沢なのだろうか。
いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。
「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。
ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。
生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。
※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中
塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ある少年の体調不良について
雨水林檎
BL
皆に好かれるいつもにこやかな少年新島陽(にいじまはる)と幼馴染で親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)。高校に入学してしばらく陽は風邪をひいたことをきっかけにひどく体調を崩して行く……。
BLもしくはブロマンス小説。
体調不良描写があります。
ヤクザと捨て子
幕間ささめ
BL
執着溺愛ヤクザ幹部×箱入り義理息子
ヤクザの事務所前に捨てられた子どもを自分好みに育てるヤクザ幹部とそんな保護者に育てられてる箱入り男子のお話。
ヤクザは頭の切れる爽やかな風貌の腹黒紳士。息子は細身の美男子の空回り全力少年。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる