血と束縛と

北川とも

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第1話

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 個室の外の気配をうかがいつつ、和彦は懸命に千尋を宥める。最初から千尋にどうこうしてもらうつもりはなかったが、状況としては変なことになっていた。和彦は、自分をひどい目に合わせた千尋の父親を、千尋から庇おうとしているのだ。もちろん自分のために。
「お前は、ぼくのために何もするな。……今はそっとしておいてもらいたい。お前たちの事情に巻き込まれるのはご免だ」
「オヤジが監視をつけていると思っているなら、俺が言って――」
「しばらく一人で過ごしたいんだ」
 和彦がわずかに口調を荒らげると、途端に千尋は傷ついた子供のような顔をする。今さっき、組を継ぐと言い切った人物と同じとは思えない表情に、和彦は胸の疼きと同時に腹立たしさも覚える。千尋に感情を掻き乱されていると、自分でも感じているからだ。
「わかってくれ。ぼくはいままで、お前がいる世界のことなんて何も知らなかったし、関わったことすらないんだ。普通の生活を送ってきた人間なら、怖くて怯える」
 諭しながら和彦は、両手で千尋の頬を挟む。
「今こうしているのだって、本当は怖くてたまらないんだ」
 千尋は考え込む表情を見せてから、おずおずと切り出してきた。
「少しの間なら、会うのは我慢する。でも、電話とメールは許してよ……」
 和彦が感じている危機感を、肝心なところで千尋はわかっていない。もっとも、生まれた頃から跡継ぎとして育てられてきた千尋に、一般人の感覚を理解しろというほうが無理なのだ。
 千尋と出会って三か月、関係を持ってからの二か月は楽しかったが、命や生活と引き換えにするほどのものではない。
 とにかく一刻でも早く千尋と別れることを考え、和彦はこう返事をした。
「……わかった。だけど、ぼくがいいと言うまで、絶対に会いに来るな」
「約束する。でも先生も、約束して」
「なんだ……?」
「――俺との関係を一方的に終わらせないってこと」
 和彦は顔を強張らせ、まばたきすら忘れて千尋の顔を見つめる。心の内を見透かされたと思った。
 千尋はしたたかな笑みを浮かべると、和彦の唇に軽くキスした。
「俺、組やオヤジが絡もうが、先生を諦める気は全然ないよ」
 そう囁いた千尋にぐいっと肩を引き寄せられ、噛み付くように激しく唇を吸われる。最初はされるがままになっていた和彦だが、千尋の情熱に圧されるようにして受け入れ、舌を絡め合っていた。
 状況がますます複雑になっていることに危機感を覚えながら――。




 千尋と会ってから二日が経った。その間、千尋と、千尋の父親――長嶺組との要求に挟まれて、和彦は対応策も考えついていない。
 いっそのこと、このまま無為に時間が流れ、千尋が十歳も年上の男のことなど忘れてくればいいのにと、都合のいい、半ば自棄ともいえる事態を望んでしまう。
 ハンドルを握る和彦の目に、自宅マンションが入る。拉致されてからの習慣にしているが、常にマンション周辺に不審な車が停まっていないか、まず確認するようになっていた。それから駐車場に車を停める。
 車をロックして歩き出そうとした瞬間、背後で別の車のドアが開く音がした。和彦の背に冷たい感覚が駆け抜け、もう一歩も動けなくなった。どうやら、本来ならマンションの住人しか停められないスペースで、車のエンジンを切って和彦の帰りを待っていたらしい。
「――組長が会いたいと言っている」
 声をかけられ、やはり、と思わず絶望から目を閉じる。一度奥歯を噛み締めてから、和彦はやっと言葉を絞り出した。
「嫌だ……」
「頼みがある。……組として」
 淡々としていながら、どこか切実な響きを帯びたハスキーな声に、わずかに和彦の心は動く。ゆっくりと振り返ったが、相手を見た瞬間には激しく後悔して、走り出そうとする。
「待てっ」
 車の前に立っていた男が素早く駆け出し、あっという間に和彦は腕を掴まれて引き止められる。
「離せっ」
 必死に手を振り払おうとするが、男は動じない。和彦は敵意を剥き出しで男を睨みつける。
 当然だ。男は、拉致された和彦を道具で弄んだ本人だった。あごにうっすらと残る細い傷跡を忘れるわけがない。
「暴れられると、縛り上げてでも連れて行くことになる」
「……スタンガンは?」
「連れて行ってすぐ、先生には役に立ってもらわないといけない。だからあれは使えない」
 まともな会話が成り立ったことで、ようやく和彦は少し気持ちを落ち着ける。
「役に立ってもらうって……」
「時間が惜しい。とにかく来てくれ」
 肩を抱かれるようにして強引に車まで連れて行かれる。車には他にもう一人男が乗っていたが、先日のあの場にいたかどうかはわからない。和彦がはっきりと覚えているのは、今肩を抱いている男と、千尋の父親の顔だけだ。
 助手席に押し込まれ、すぐに運転席に乗り込んだ男が車を出す。やむなくシートベルトを締めた和彦だが、できることなら車から飛び降りたい心境だった。頭の中を駆け巡るのは、二日前、千尋と会った出来事だった。あのことが知られ、また報復を受けるのではないかと思うと、指先が震えてくる。
「ぼくを…… どうするつもりだ」
「どうする、じゃない。今日は先生に、どうにかしてもらいたいことがあるんだ」
「ぼくにあんなことをしておいて、どうにかしてもらいたいことがあるなんて、ムシがよすぎるんじゃないか」
「言いたいことがあるなら、すべて組長に言ってくれ。ただ、俺個人としては、頭を下げて頼みたい。面子の問題で、今の先生相手にそれはできないけどな」
 面子、と呟いた和彦は、軽く鼻を鳴らす。ヤクザの面子など、どうでもよかった。面子と言いながらやることと言えば、一般人を拉致して、何人もの男たちで取り囲みながら辱めることなのだ。
 和彦の尊厳はとことんまで踏みにじられてしまった挙げ句、面倒な事態に巻き込まれたままだ。
 言いたいことは山ほどあるが、さすがに、痛めつけられたくはない。
 それに――。千尋の父親の顔を思い返したとき、和彦の心臓の鼓動は恐怖以外のものでわずかに速くなっていた。
 道具で内奥を犯される和彦の姿を、顔色一つ変えずにずっと見下ろしていた男だ。冷たい質感を持っていそうでありながら、あごを掴んできたのは熱い手だった。千尋とは違う、ごつごつとして厚みのある、年齢を重ねてきた男の手だということも覚えている。
 組長という立場にある男が、自分にどうにかしてもらいたいことがあると言うのだ。千尋の件でどうこうしたいというのなら、そもそも理由など必要としないはずだと考え、渋々和彦は覚悟を決めた。

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