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4.この感情に名前があるなら

(二)

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 心がシカシカする。
 無理やり引きちぎったささくれ跡のように。ガリガリと引っ剥がしたカサブタ跡のように。
 触れる日常に、心がシカシカと痛む。
 原因はわかっている。
 新しく入ってきたバイト、梅咲さんと氷鷹。

 ――あの、この商品って、どこに出すんですか?

 この質問を、教育係になったオレに発するならいい。仕事でわからないところを訊かれるのも、教育係の仕事の一環だし、何度訊かれても別に気にしない。(そりゃあ、何十遍も同じこと訊かれたら、「メモ取れ!」って怒るかもだけど)
 だけど、この梅咲さんは、なぜか氷鷹に訊きに行く。それも。

 ――陽翔はるとくん、ちょっといい?

 と、氷鷹を名指しで。
 別に、オレが忙しい時なんかは、氷鷹に訊きに行ってもいいと思う。オレが暇になるのを待ってるよりは、誰かに訊いて解決させたほうがいいし。氷鷹だって、一ヶ月程度だけど先輩なんだから、後輩の面倒を見たっていい。
 そう思うんだけど。

 ――陽翔はるとくん。

 その呼び方が、心に引っかかる。
 「氷鷹」じゃなく、「陽翔」と呼んでいること。そこに、馴れなれしさを感じてしまうこと。
 一応、このスーパーでのルールとして、店長、次長はともかく、それ以外の人は、「佐波さん」「佐波くん」のように、苗字で呼ぶことを徹底している。
 オレが「志弦さん」と氷鷹に呼ばせなかった理由の一つに、このルールがある。バイト以外のところで「志弦さん」を許したとして、バイト中にウッカリ、その呼び方をしたらと思ったのだ。――大方は、「志弦」という名前を知られたくないという感情だったけど。
 だから。
 だから、気になるんだ、梅咲さんがアイツを「陽翔」と呼ぶことが。大学とかで「陽翔くん」と呼ぶならまだしも、バイト先で呼んでるから。
 それに。

 ――これはね、詩織しおりちゃん。

 「陽翔」と呼ばれた氷鷹も、梅咲さんを名前で呼ぶ。
 それも、優しい目をして。
 
 (お前ら、いつの間に、そんなに仲良くなってたんだよ!)

 妙齢の男女が「陽翔くん」「詩織ちゃん」って。それって、「俺たち、そういう関係で~っす」って言ってるようなもんだろ。
 別に、それならそれで構わないけど? 誰が誰とつき合おうと、オレには関係ないし? オレも梅咲さんを狙ってたとか、そういうわけじゃないし? 「お幸せに」ぐらい言うだけの心のゆとりはあるつもりだし?
 だけど。

 ――すんません、先輩。俺、今日は家に帰るっす。

 たまたま時間の重なったバイト上がり。

 ――今日もウチで飯食ってくか。

 オレからの誘いを、申し訳無さそうに断った氷鷹。断っただけじゃない。同じくいっしょに上がりを迎えた梅咲さんと連れ立って帰っていった。

 (ふぅん。そうかい。そうなのかよ)

 夕闇に溶け込むように消えていった二人の背中を見て、また胸がシカシカする。
 別に。
 別に、氷鷹が誰と懇意にしても、オレには関係ない。夕飯は、一人でゆっくり食べるほうが性に合ってる。ベッドだって、寝返り打てるほどの広さが一番だ。
 弟のように懐いてきてた氷鷹。
 ヤツに恋人ができたのなら、それはそれでいいじゃないか。
 「おめでとう」でいいじゃないか。梅咲さん、カワイイし、氷鷹にお似合いじゃないか。今だって、連れ立って歩いていく氷鷹は、彼女を守るように車道側を歩いてったし。ちゃんと騎士ナイト役もこなせるアイツなら、なんの問題もない。 
 オレはこうして二人を見送って。
 一人、アパートに帰る。氷鷹もいない今、自転車に跨って、いつもより早くアパートに着く。「ただいま」と言っても返事もない、暗いアパートの部屋。買った土鍋は洗って、サッサとシンク下に仕舞い込んだ。おそらくだけど、もう卒業するまで、二度と使わないだろう土鍋。
 冷蔵庫に残ってた、しいたけと白菜は、油揚げといっしょに煮込んで、卵でとじて消費した。ポン酢は、冷凍餃子を焼いて、餃子のタレ代わりにつけて食べた。アイツの残していったゴマダレは――、どうしようか、現在悩み中。サラダにかけるか、冷しゃぶにかけて食べるか。って、これから冬に向かうってのに、冷しゃぶはないな。
 飯を食べ終えたら、一人で食器を片付け、一人風呂に入る。シャワーで済ませてもいいような気もしたが、「それじゃあ寒いか」と理由をつけて、湯船に入る。

 「ハァ……」

 立ち昇る湯気に紛れるようにして、息を吐き出す。
 冷え性だからと、寒いから温めてと、抱きついてくるヤツはいない。だから、そんなに体を温めておく必要はない。けど。けど。

 (なんだろうな、この気持ち)

 シカシカと、痛み続ける心を持て余してる。
 もとに戻っただけ。これが普通。
 そう思うのに、心にポッカリ穴が空いたような。どこか落ち着かないような。

 (いやいや、これは、ただのやっかみだ)

 まだ一年生のくせに、カノジョを作った氷鷹に対する嫉妬。年下のくせに、先にカノジョを作りやがって。散々オレを振り回すようなことしておいて、恋人できたら「はい、サヨナラ」かよっていう。
 多分、そういう感情の集合体。それが、心をシカシカさせてる。

 そう結論づけて、湯船を出る。
 シャワーを頭からぶっ被って、ワシワシと髪を洗い、体も洗う。
 洗って、流して。流した泡が、排水口のところで膨らみながらグルグルと回る。
 泡といっしょに、このシカシカの元も流れ去っていけばいいのに。
 ドンっと、鈍い音を立てて、目の前、鏡に手をつく。湯気で曇った鏡をそのまま拭くと、現れたのは泡にまみれた、醜いオレの顔。

 嫉妬。

 わかってるんだ。
 このシカシカの原因が「嫉妬」だってことは。
 オレは「嫉妬」して、イライラしている。嫉妬が、オレの顔を醜くしていることも。
 誰に。何に。どうして。
 嫉妬の原因がわからない。
 いや。
 わかってるんだ。
 わかってるけど、それを認められない。

 シャワーヘッドを持ち上げ、ジャっと残った泡と鏡を洗い流す。
 醜いオレでいたくない。自分の気持ちなんて分析したくない。分析してどうする。知ってどうするっていうんだ。
 ただこうして、何もかも流して、綺麗さっぱり、昔の自分に戻りたくて仕方ない。
 風呂を出て、用意しておいたバスタオルで、乱暴に髪と体をこする。そうすれば、何もかも削ぎ落として、キレイになれる気がして。
 しかし。
 一人寝に広く感じてしまうベッドは、キレイになったはずの体に、再び嫉妬を呼び起こし、また心がシカシカ痛み始める。

 (最悪だ)

 ゴロンと、寝返りを打つ。
 持て余す痛み。どうにもならない感情。
 どうすればいい。どうなったらいい。
 どうしたら自分は納得して、以前の自分に戻れる?
 わからないまま、自分以外のぬくもりのない、冷たいままのシーツに手を伸ばす。
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