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13.グーパンしてもいいですか?

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 「ただいま~」

 ドアを開け、自分のじゃない靴があることに、軽く身に電気が走る。防犯用に言った「ただいま~」だったから。少し気安すぎる言い方だったな。なんだか恥ずかしい。

 「すみません、遅くなりました」

 「いえ。それより、――お疲れ様でした」

 廊下を抜け、リビングに入ったところで、先に帰ってきていた夫と言葉を交わす。
 にしても、珍しいな。わたしの方が帰りが遅くなるだなんて。
 以前にも似たようなことがあったけど、あの時は遅くに入った注文のせいで残業したからで、今日は普通に帰ってきただけなんだけど。
 時計を見ても、まだ8時12分。

 「チャチャッと用意しちゃいますから。少し待ってていただけますか?」

 言って、カバンだけソファに放り投げると、キッチンにむかう。
 今日のメニューは、豚の生姜焼きに小松菜としめじの煮びたし、たたききゅうり、それとかき玉汁。
 遅くなってる自覚はあるから、あっちで切ってきた具材をタッパーに入れてきた。調理の時短。豚肉だって、向こうでタレに漬けてから持ってきてる。
 手順も、調味料の量も、すべて身に染みついてるから、そこまで時間はかからない。タッパーから出した豚肉を熱したフライパンに並べると、途端に、お腹を刺激する生姜と醤油のいい匂いがあたりに広がる。焼き加減を見ながら、できた料理を皿に盛りつけていく。

 「お待たせしました~」

 お盆に載せて運んだ料理。
 最後に、白い丸皿に盛った生姜焼きを席の中心に置けば、今日の夕食、完成!

 「いただきます」

 いつもと同じように向かい合って席に着いたわたしたち。手を合わせて、箸を持つ。けど。

 「あの……、お口に合いませんか?」

 「いや。旨い」

 「じゃあ、また片頭痛とか?」

 「そんなことはない。問題ない」

 黙々と箸を動かす夫。視線はずっとお皿の上。一度も顔を上げない。

 (ホントに大丈夫なのかなあ)

 今朝は、昨日の残った夕食がそのまま朝食になったけど。あの時は、食べてる最中でも、時折は視線が合うこともあったのに、今はそれがゼロ。
 ゴハンが美味しすぎて夢中になってる? にしては、「旨い」は一回だけだし。
 体調が悪いのをガマンしてる? 連続2日体調不良はさすがに……みたいな。だとしたら、豚の生姜焼きなんて味の濃いもの、鬼門だよね。それに、もしそうだとしたら、あんな機械みたいに規則正しいリズムで箸は動かないよね。
 夫の箸の動き。それは、まるで機械にプログラムされてるかのように、次に口に運ぶものを迷いなくつまみ上げる。迷い箸などありえない。キチンとキレイに三角食べを実行していく。
 遅くなった夕食に腹を立ててる? でもそれならそれで、口に出して文句言えっての。まあ言われたところで「ごめんなさい」する気はないけど。
 時計の時間は、8時43分。これより遅い夕食なんて、今まで普通にあったし、これ以降に夫が帰宅するのが当たり前だったし。自分が早く帰れた日に、妻が夕飯を用意してないことに腹を立ててるのなら、グーパンかましていいかな。わたしはアンタの「飯炊き、おさんどん」じゃないっての。
 そんなことを考えながら、わたしも黙々と箸を進める。作った料理、いつも通りの味で、いつも通りに美味しい。

 「――ごちそうさまでした」

 わたしより先に食べ終えた夫。米粒一つ残さずキレイに食べ尽くした食器をキッチンへと運んでいく。
 少し遅れて食べ終えたわたしも、食器をキッチンへと持って行く。

 「――檜原ひはらさん」

 先にキッチンにいた夫が呼んだ。ってか、檜原ひはらさん? 旧姓? 今まで、名前を呼ばれたことなかったから、ちょっと驚く。

 「この結婚は、借金のカタであり、アナタの店を存続させるためのもので、愛がないことは知っています」

 はい?
 硬い声色の夫に驚く。唐突にナニ言い出すんだ?

 「ですが。それでも現在のアナタは、〝檜原ひはら透子とおこ〟ではなく、僕の妻、〝入海いりうみ透子とおこ〟です」

 「えっと。……はい」

 それぐらい、わかってますけど? だって、婚姻届出したし。

 「無理に僕を愛せとは言いません。ですが、誰の目につくかわからないところで、恋人と接触するのは、やめていただけますか?」

 「――は? 恋人?」

 眉がグニュ~っと寄って、一回転しそうなほど思いっきり首をひねる。恋人ってナニさ。

 「今日、お店にいたでしょう? アナタが頭を撫でてあげていた相手ですよ」

 へ?

 「意に沿わない、愛のない結婚であることは承知してます。だから、アナタが誰と恋愛関係にあっても気にしません。ですが、結婚している以上、そういった醜聞は避けていただきたいのです。アナタ自身のためにも、スキャンダルは起こさないでください」

 わたしが間抜けな顔してたんだろう。畳み掛けるように、夫が早口でまくし立てる。

 「ちょっ、ちょっと待ってください!」

 ストップ! マジでストップ!

 「入海いりうみさん、お店に来てたんですかっ!?」
 
 「ええ。仕事が早く終わったので」

 それで、わたしが雄吾の頭を撫でてたのを見たっていうのなら。あの時の、自動ドア勝手に開いたよ事件は、そこに入海いりうみさんがいたから? もしかして、乙丸くんが見たって言ってた、「俳優みたいなイケメンリーマン」は、入海いりうみさんだったの?

 「あの男と懇意にしたいとおっしゃるのなら、いつでも離婚には応じます。もともと、借金のカタに結ばれたものです。解消には応じますよ。ただ、父が入院してる今は、負担をかけたくないので、しばらく待っていただけると助かります」

 「――違います」

 グッと歯を噛みしめ、握り拳を作る。

 「わたし、彼とはなんでもありません」

 「ですが、彼を親しげに名前で呼んでましたよね?」

 「あれは……」

 溜まった唾をゴクリと呑み込む。

 「彼、武智たけち雄吾ゆうごは、わたしの幼なじみです」

 「――え?」

 「今度の結婚式! 二次会に出席して欲しいってお願いした結婚式の主役です!」

 「結婚式? 友人の結婚式というのはまさか……」

 「ええ! 彼のことですよ! もちろん、彼のお嫁さんとも友だちですけど!」

 雄吾と美菜さんの結婚式。わたしは、新郎雄吾側の招待客として参列する。

 「彼と気安すぎたことは反省します! でも、わたし、そんな関係じゃありません!」

 雄吾を気安く名前で呼んでたけど、だからって、恋心とかそういうのはこれっぽっちも持ち合わせていない! 美菜さんとの結婚を心の底から祝福してる!
 それに。

 「わたし、形だけでもアナタの妻のつもりです」

 愛のない結婚だったとしても。夫という存在がいるのに、別の男と恋愛を始めたりしない。そんなふしだらな女じゃない。
 言いながら、視界が揺れ始める。ダメだ。泣くな。

 「――すみません。今日は疲れたので、このまま休みます」

 食器を置いたままキッチンを離れ、早足で寝室に向かう。

 (悔しい……)

 ムカつく。腹立つ。悲しい。
 悔しい以外のいろんな感情も、グルグルと身体の中を駆け回る。
 感情だけじゃない。噛み締めた歯の隙間から、こらえきれない嗚咽が漏れる。
 スキャンダルってなに? わたし、そんなことする女だと思われてたの?
 握った拳。思いっきりグーパンぶつけてやれば、スッキリしたかもしれないけど。
 暗いわたしの寝室。冷たいフローリングの床に、こらえきれなかった涙がポタポタ滴り落ちた。
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