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第16話 日本語は難しい。

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 「今日の夕飯は、食べに行くからいらないよ」

 朝、出勤間際に一条くんが言った。

 「誰かと飲んでくるの?」

 よくある飲みニケーション。もしくは接待かなにか?

 「違うよ。世那と高階と。ゴハンを食べに行きたいなって思ったんだけど」

 一条くんが笑った。
 誰かと食べに行く――ではなく、私達と食べに行くだったらしい。日本語って難しい。二十九年日本人やってるけど、未だに間違える。

 「せっかく東京に出てきたのに、高階、全然遊べてないだろ? だから、そのお詫びと、日頃世那の世話をしてくれてる感謝をこめて。この間も、結局早く帰ってきてもらったし」

 「そんなの別によかったのに」

 なんか気をつかってもらって申し訳ない。

 「それと、世那の一歳半記念も兼ねて。先輩にさ、ちょっといい場所を教えてもらったから。期待してて」

 じゃあね。
 軽く手を振って出勤していった一条くん。
 その日の夕方、少し早めに帰宅した彼に連れてきてもらったのは――りょっ、料亭っ!?
 ちょっといい場所どころじゃない。すっごくお高そうで、すっごくいい場所。
 実家から持ってきた中で一番いい、小花柄ワンピを着てきたけど……。うう、もうちょっと良いもの着てくればよかった。
 敷居が高いどころじゃないわよ。敷居、棒高跳びレベルで高い。それかそびえ立つ壁。
 仕事帰りのスーツ姿、ザ・都会の男!!って感じ、ビシッとカッコいい一条くんにはお似合いかもしれないけどさ。田舎出の冴えない私にはなかなか……。

 「一条さまですね。どうぞこちらへ」

 これまた上品そうな仲居さんが案内してくれたのは、上品すぎる和室。掛け軸つきの床の間には華やかにお花が活けられ、開け放たれた障子の向こうには、緑と池と石灯籠の和風庭園が広がってる。

 「ね、ねえ。本当にこんなところ、いいの?」

 私、場違い過ぎない?

 「気に入らない?」

 「ううん、そんなことない!! 絶対に!!」

 そこは即答の強調。緊張するけど、ステキなお部屋だと思う。

 「ならよかった」

 一条くんが笑った。

 仲居さんが運んでくれたのは、お祝い用の鯛の塩焼き、牛フィレの香草焼き、エビと貝柱の茶碗蒸し、蛤のお吸い物など、とっても豪華。枡?のような木の器に入ったご飯は、もち米を混ぜて炊いているのか、モチッとして美味しい。
 もちろん、世那くんのメニューも凝ってる。柔らかめに炊いたご飯、里芋や人参を使った煮物、蒸し鯛のあんかけ、バナナやいちごのカットフルーツ盛り合わせ。

 「美味しいね、世那くん」

 「ねー」っと顔を傾けると、世那くんも「ねー」っと返してくれた。用意されたスプーンを持って、満面の笑顔。いつもよりパクパクいっぱい食べてくれているような気がする。

 「アッ、ウ~、バッ!!」

 机に手をつき、立ち上がった世那くん。

 「こら、世那。お行儀悪いぞ」

 向かいに座る一条くんがたしなめるけど、世那くんが座る気配はナシ。隣の私の御膳、尾頭付きの鯛を興味深そうに覗き込こみ、「ア~、ウ~」と声を上げ続ける。
 和食系のファミレスの座敷だと、他のお客さんの迷惑になるから、世那くんを止めなきゃだけど、個室になってるから少しぐらい騒いでもいいだろう。悪代官と越後屋がこういう部屋で「お主も悪よのう」をするのは、誰にも聴かれないメリットがあるからだと思った。

 「――食べてみる? って、食べさせてもいいかな?」

 「ああ、いいけど」

 保護者に確認。了承。
 離乳食課程もほぼ終了してるし。ちょっとぐらいなら、食べても問題ないだろう。
 しっかり身をほぐしなるべく細かくして、骨のないことを確認してから世那くんの口元へ持っていく。

 パクリ。

 「どう? おさかなおいしい?」

 初めての鯛。初めての大人と一緒のメニュー。
 モグモグ咀嚼しながら、思案する世那くん。ゴクンと飲み下すと、ピョコピョコと体を前後に動かし、また口を開けた。
 
 「バー、ウッ!!」

 もっと欲しい。催促された。

 「おさかな、おいしいね~」

 手を添え、ほぐした身を箸で運ぶ。待ちきれなかった世那くんの口が、箸に食らいつく。

 「よっぽど気に入ったんだね、世那くん」

 その食いっぷりに感心する。なんか、鯛で世那くんを釣れそうな勢いですよ? 「海老で鯛を釣る」のではなく、「鯛で世那を釣る」。

 「ステキなお部屋だし、お料理すっごく美味しいし。ありがと、一条くん」

 連れてきてもらったことに感謝。
 自分には場違いなほど高級な料亭だけど、これだけ世那くんが喜んでくれてるのなら、連れてきてもらえてよかったって思える。

 「いや、僕の方こそ。いつも助けてもらって、本当に感謝してる」

 一条くんが微笑む。

 「高階のおかげで、こうして世那のことを祝う余裕ができた。あの時は……、誕生日のころは、それどころじゃなかったから」

 世那くんの誕生日の頃、奥さんが出ていったせいで、一条くんは仕事に育児にてんてこ舞いだったんだろう。誕生日を祝う気持ちがあっても、実行する余裕はなかった。
 つまり、これは半年遅れの世那くんのお誕生会。だから、こんなに豪勢な食事で豪華な場所なのか。
 
 「世那くん。おめでとう」

 遅れたけど、ちゃんと祝ってあげることができてよかった。

 「デッ、トォ?」
 
 本人は理解してないけど。

 「アウッ、バッ!!」

 それよりも、さらなる鯛を要求し始めたけど。

 「おいしいね~、おさかな」

 「オッ、カ、ナッ」

 おしい。「おさかな」まであと一歩。
 そうだ。

 「おいしいね~、あ~、おいし」

 キュルンッとかわいく頬に手を当て体を傾げて、「美味しい」を表現。ああ、美味しすぎてほっぺた落ちる~、みたいな。

 「ン~」

 真似っ子好きの世那くん。
 すぐに、同じ仕草をやってくれた。
 口の中の鯛をこぼさないように、唇を引き結んで。でもニコッと口角をあげての笑顔。全身でクネッと「キュルンッ」を表現。

 「うわあ、かわいい~」

 ムギュッてしたい!! そのかわいさを永久保存しておきたい!!
 マナーとか行儀とか知るか。かわいいものはかわいいんでい。
 何度でも世那くんに「キュルンッ」やってほしい。
 ほらほら、私が「キュルンッ」ってするから、世那くんも真似して、クネッて――。

 「――失礼いたします」

 一条くんの後ろ、襖がスッと開いた。入ってきたのは、お盆を持った仲居さん。
 って、もしかして、もしかしなくても、私の「キュルンッ」見られた?
 世那くんの「キュルンッ」はいいけど、二十九にもなる女の「キュルンッ」は……イタい。いろんな意味でイタい。

 「おかわいらしい奥様ですね」

 笑い声を抑えた営業スマイル。着物の袂さばきも優雅に、机にデザートとスプーンを並べていく。
 いや、「かわいい」じゃなくて「バカっぽい」「イタい」でしょ。
 これ、絶対厨房で笑いのネタにされる案件だわ。「あそこの部屋の嫁さんさあ、すっごいブリっ子してたんだよ~、ウケる~」みたいな。
 もう料理が運ばれてくることはないだろう。
 誰も来ないと思ったからこその「キュルンッ」だったんだけど。まさかラスト、「チョコレートムース」というデザートがあったとは。不覚。
 「悪巧みもそこまでだ」
 スターンと勝手に襖を開けて押し入られ、成敗シーンに突入された代官気分。うつむくしかない。

 「そうですね。彼女の明るさにいつも癒やされてます」

 一条くんの声に、弾かれたように顔を上げる。

 「育児に家事に頑張ってくれて。その上、楽しくて優しくて。僕には過ぎた妻ですよ」

 ニッコリ笑ってこちらを見られた。

 「あらあら。ごちそうさまです」

 クスクスと今度は声をあげて笑った仲居さん。――けど。

 (一条くん、それは言い過ぎっ!!)

 焦る。恥ずかしい。うれしい。困る。
 そもそも私、「妻」じゃないし。
 幼なじみのシッターなんて、説明めんどくさいからの「妻」発言なんだろうけど。
 微笑んで受け止めたら「妻」らしいかもしれないけど、シッターでしかない私は恥ずかしくて、微妙な面持ちで目の前のスプーンを凝視する。

 「では、ごゆっくり」

 仲居さんが部屋から出ていく。
 あ、これ、一条くんも厨房ネタにされるやつだ。「あそこの旦那さん、奥さんにべた惚れでさ~、こっちに惚気けてくるのよね~」ってやつ。リア充爆発しろって願われるやつ。
 高級料亭であっても、裏で噂のネタにされることは、普通のファミレスと大差ない。

 「――ごめんね」

 襖が閉められたことを確認してから一条くんが言った。
 勝手に「妻」にしたことを謝ってるのかな。

 「いいよ、気にしないで」

 あの場は、ああして偽装したほうがいいし。笑われた私をフォローしてくれたわけだし。

 「さあ、世那くん。デザートだよ。一緒に食べる?」

 軽くスプーンですくって、世那くんに見せる。パクッと食らいついた世那くん。おお。チョコムースで世那くんが釣れました。

 「マッマ~」

 世那くん満面の笑み。どうやらこれも気に入ったみたい。次から次へ、差し出すムースをパクパク食べる。

 「おいしいね~、世那くん」

 今は、世那くんのお世話に全集中。チョコムースは、美味しい。
 
 ――彼女の明るさにいつも癒やされてます。

 向けられた言葉と優しい眼差し。
 油断すると、何度も何度も、頭の中で勝手に自動再生されてしまう。――なんでか、わかんないけど。
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