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4.あまくはじけてほろ苦く
(四)
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「こんばんは~。大里くん、いますかぁ?」
土曜の夕方。
誰もいない待合室のほうから、僕を呼ぶ声がした。
「――山野? どうしたの?」
今日の診察は午前で終わり。だから、受付の看護師さんもいない。ドアに鍵をかけてないのは、万が一、誰か急患が訪れた時のため。そもそもこのあたりで、鍵をかける習慣もないし。
そんな、診療所のドアから入ってきたのは、いくつかタッパーを持った山野。いつもの制服じゃなくて私服姿。
「大里くん、もうゴハン食べちゃった?」
「いや、まだだけど」
今はちょうど、夕飯作ってる最中。
今日の夕飯担当は、僕。僕も、Tシャツにハーフパンツというラフな格好。
「よかった」
ホッとして、山野が顔をゆるませた。
「あのね。昨日もらったネギでおかず作ってきたの」
「おかず?」
「うん。ネギ入りの卵焼き」
いそいそとタッパーを開けた山野。フタの間から見えたのは、黄色に緑の混じった卵焼き。
「あ、もしかして、大里くんも同じメニューを作ってた――とか?」
僕が無反応に見えたんだろう。急に、山野の声が落ち着かなくなった。
ネギ入り卵焼きを作ってる最中に、ネギ入り卵焼きをおすそ分けしたら、間抜けというか、なんというかなんだけど。
「違うよ。僕が作ってたのは肉豆腐。豆腐と豚肉とネギを煮込んでた」
煮込んでた――というより、今煮込んでる。
台所の引き戸を開けっ放しで出てきたので、醤油の匂いがここまで漂ってきてる。
「よかった。おかずかぶりしなくって」
緊張がほどける。
「それとね。おばあちゃんから梅干し持ってけって。去年漬けたヤツだから、ちょっと古いけど。また新しいのを漬けたらおすそ分けするから、今日はこれでって」
山野が持ってきた二つ目のタッパー。半透明のプラスチックから透けて見える、赤くて少し黒っぽい中身。
「やった。僕、山野ン家のおばあさんの作る梅干し、好きなんだよね」
山野のおばあさんが作る梅干しは、お店のものと比べて、無骨で赤みが濃いんだけど、酸っぱすぎるとかそういうのがなくて、とても美味しい。ハチミツを使ってまろやかにとか、そういうわけじゃなくて。なんて言うのか、ちょうどいい「塩梅」。
「じゃあわたし、おばあちゃんに梅干し作り、教えてもらっとこうかな」
「え?」
「そしたら、いつでも持ってきてあげられるでしょ? こんにちは~、梅干しのお届け物で~す。毎度おなじみ、山野家一子相伝の味です~って」
「同級生のなじみで?」
「そ。同級生のなじみで」
言って、互いに笑う。
おばあちゃんになった山野が、おじいちゃんになった僕のところに梅干しを届けに来る。そんな未来を想像した。
「おーい、陽。ちょっと往診に出かけてくるが……、なんや未瑛ちゃん、来とったんか?」
「お邪魔してます、先生」
ペコリと山野が、じいちゃんに頭を下げる。
「また、美浜屋さんとこのお婆さん?」
「そうや。なんや、ずっとゴハンを食べへんって、大将から相談があった」
「ゴハンを?」
「食べさせようとしても嫌がるんやと」
なんで?
疑問が頭に浮かぶ。
美浜屋のお婆さん。足を骨折して以来、ずっと寝たきりで介護を受けている。
その場合、身体を動かさないことが影響して、便秘になって食欲が落ちることがある。けど、それでずっと食べない、家族が心配するほど食べられないってこと、あるんだろうか。それも食べさせようとして嫌がるなんて。
「まあ、ちょっと飯前やけど、診てくるわ」
「うん。気をつけて」
話す間に、じいちゃんが靴を履く。
「そや。未瑛ちゃん、どうや。身体、しんどいことあらへんか?」
「わたし? わたしは元気やよ。この通り」
ムン。山野が空いた片手で力こぶを作る。できてないけど。
「そっか。それならええけど。しんどい、づつない時は誰でもええから言うんやで? 無理したらあかん」
「はい」
「陽、お前もちゃんと戸締まりして用心してな」
「わかってるって」
「あと、未瑛ちゃんを送ったり。暗なってきたからな」
「うん」
それもわかってる。
診療所の外。初夏の今、まだ明るいはずの時間なのに、雲が空を覆い始めてるのか、灯りがほしいくらいにドヨンと暗い。
「美浜屋のお婆ちゃん、なんでゴハン食べないんだろう」
じいちゃんが出かけてしばらくして。ポツリと山野が言った。
「ゴハン、ずっと食べなかったら、死んじゃうのに」
「山野?」
「食べたら、まだ生きられるのに。どうして」
うつむいたままの彼女。
食べなかったら死んじゃう。けど、食べたら生きられる。
生きることは食べること。食べることは生きること。
食を拒絶するということは、緩やかに自死を選んでいるようにもみえる。
美浜屋のお婆さんを心配してるのか。僕と違って、山野とお婆さんのつき合いは長い。それこそ、山野が生まれた時からのつき合いかもしれない。
「大丈夫だよ。じいちゃんがなんとかしてくれ――山野?」
ポタポタと、コンクリートの三和土に落ちた水滴。泣いてる?
美浜屋のお婆さんのことを心配して?
未来を想像して、暗いため息をつくならわかるけど、どうして泣くんだ? まだ、お婆さんは助かるかもしれないってのに。
山野がやさしいから? 人に共感しやすい質、感受性が強いから?
「山野」
静かに泣く山野。涙が、乾いたコンクリートに、いくつも丸い模様を描いていく。
「大丈夫だよ。きっとじいちゃんがなんとかしてくれる」
だから泣くなよ。
「――うん」
泣き止まない山野に、どうしたらいいのかわからない僕の手が、伸ばすことも戻すこともできなくて、宙ぶらりんになる。カレシなら、ここで優しく抱きしめたりするんだろうけど。(仮)でしかない僕には、中途半端でありきたりな慰めしかできない。
その日の夜遅く。
予報通り、梅雨前線がもたらした雨が降り始めた。
降り出した雨に満ちる、濡れたアスファルトの匂い。
例年より遅く、仁木島町に梅雨が訪れた。
土曜の夕方。
誰もいない待合室のほうから、僕を呼ぶ声がした。
「――山野? どうしたの?」
今日の診察は午前で終わり。だから、受付の看護師さんもいない。ドアに鍵をかけてないのは、万が一、誰か急患が訪れた時のため。そもそもこのあたりで、鍵をかける習慣もないし。
そんな、診療所のドアから入ってきたのは、いくつかタッパーを持った山野。いつもの制服じゃなくて私服姿。
「大里くん、もうゴハン食べちゃった?」
「いや、まだだけど」
今はちょうど、夕飯作ってる最中。
今日の夕飯担当は、僕。僕も、Tシャツにハーフパンツというラフな格好。
「よかった」
ホッとして、山野が顔をゆるませた。
「あのね。昨日もらったネギでおかず作ってきたの」
「おかず?」
「うん。ネギ入りの卵焼き」
いそいそとタッパーを開けた山野。フタの間から見えたのは、黄色に緑の混じった卵焼き。
「あ、もしかして、大里くんも同じメニューを作ってた――とか?」
僕が無反応に見えたんだろう。急に、山野の声が落ち着かなくなった。
ネギ入り卵焼きを作ってる最中に、ネギ入り卵焼きをおすそ分けしたら、間抜けというか、なんというかなんだけど。
「違うよ。僕が作ってたのは肉豆腐。豆腐と豚肉とネギを煮込んでた」
煮込んでた――というより、今煮込んでる。
台所の引き戸を開けっ放しで出てきたので、醤油の匂いがここまで漂ってきてる。
「よかった。おかずかぶりしなくって」
緊張がほどける。
「それとね。おばあちゃんから梅干し持ってけって。去年漬けたヤツだから、ちょっと古いけど。また新しいのを漬けたらおすそ分けするから、今日はこれでって」
山野が持ってきた二つ目のタッパー。半透明のプラスチックから透けて見える、赤くて少し黒っぽい中身。
「やった。僕、山野ン家のおばあさんの作る梅干し、好きなんだよね」
山野のおばあさんが作る梅干しは、お店のものと比べて、無骨で赤みが濃いんだけど、酸っぱすぎるとかそういうのがなくて、とても美味しい。ハチミツを使ってまろやかにとか、そういうわけじゃなくて。なんて言うのか、ちょうどいい「塩梅」。
「じゃあわたし、おばあちゃんに梅干し作り、教えてもらっとこうかな」
「え?」
「そしたら、いつでも持ってきてあげられるでしょ? こんにちは~、梅干しのお届け物で~す。毎度おなじみ、山野家一子相伝の味です~って」
「同級生のなじみで?」
「そ。同級生のなじみで」
言って、互いに笑う。
おばあちゃんになった山野が、おじいちゃんになった僕のところに梅干しを届けに来る。そんな未来を想像した。
「おーい、陽。ちょっと往診に出かけてくるが……、なんや未瑛ちゃん、来とったんか?」
「お邪魔してます、先生」
ペコリと山野が、じいちゃんに頭を下げる。
「また、美浜屋さんとこのお婆さん?」
「そうや。なんや、ずっとゴハンを食べへんって、大将から相談があった」
「ゴハンを?」
「食べさせようとしても嫌がるんやと」
なんで?
疑問が頭に浮かぶ。
美浜屋のお婆さん。足を骨折して以来、ずっと寝たきりで介護を受けている。
その場合、身体を動かさないことが影響して、便秘になって食欲が落ちることがある。けど、それでずっと食べない、家族が心配するほど食べられないってこと、あるんだろうか。それも食べさせようとして嫌がるなんて。
「まあ、ちょっと飯前やけど、診てくるわ」
「うん。気をつけて」
話す間に、じいちゃんが靴を履く。
「そや。未瑛ちゃん、どうや。身体、しんどいことあらへんか?」
「わたし? わたしは元気やよ。この通り」
ムン。山野が空いた片手で力こぶを作る。できてないけど。
「そっか。それならええけど。しんどい、づつない時は誰でもええから言うんやで? 無理したらあかん」
「はい」
「陽、お前もちゃんと戸締まりして用心してな」
「わかってるって」
「あと、未瑛ちゃんを送ったり。暗なってきたからな」
「うん」
それもわかってる。
診療所の外。初夏の今、まだ明るいはずの時間なのに、雲が空を覆い始めてるのか、灯りがほしいくらいにドヨンと暗い。
「美浜屋のお婆ちゃん、なんでゴハン食べないんだろう」
じいちゃんが出かけてしばらくして。ポツリと山野が言った。
「ゴハン、ずっと食べなかったら、死んじゃうのに」
「山野?」
「食べたら、まだ生きられるのに。どうして」
うつむいたままの彼女。
食べなかったら死んじゃう。けど、食べたら生きられる。
生きることは食べること。食べることは生きること。
食を拒絶するということは、緩やかに自死を選んでいるようにもみえる。
美浜屋のお婆さんを心配してるのか。僕と違って、山野とお婆さんのつき合いは長い。それこそ、山野が生まれた時からのつき合いかもしれない。
「大丈夫だよ。じいちゃんがなんとかしてくれ――山野?」
ポタポタと、コンクリートの三和土に落ちた水滴。泣いてる?
美浜屋のお婆さんのことを心配して?
未来を想像して、暗いため息をつくならわかるけど、どうして泣くんだ? まだ、お婆さんは助かるかもしれないってのに。
山野がやさしいから? 人に共感しやすい質、感受性が強いから?
「山野」
静かに泣く山野。涙が、乾いたコンクリートに、いくつも丸い模様を描いていく。
「大丈夫だよ。きっとじいちゃんがなんとかしてくれる」
だから泣くなよ。
「――うん」
泣き止まない山野に、どうしたらいいのかわからない僕の手が、伸ばすことも戻すこともできなくて、宙ぶらりんになる。カレシなら、ここで優しく抱きしめたりするんだろうけど。(仮)でしかない僕には、中途半端でありきたりな慰めしかできない。
その日の夜遅く。
予報通り、梅雨前線がもたらした雨が降り始めた。
降り出した雨に満ちる、濡れたアスファルトの匂い。
例年より遅く、仁木島町に梅雨が訪れた。
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