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4.あまくはじけてほろ苦く
(二)
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「――むかし、田舎をわたらひしける人の子ども、井のもとに出でて遊びけるを、大人になりにければ、男も女も恥ぢかしてありけれど、男はこの女こそ得めと思ふ」
外が曇り空のせいで、少し暗い教室。
そこに、淀みない朗読の声が響く。
「女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども聞かでなむありける」
健太のつっかえつっかえ、ドッコンドッコンした音読とは違う。
今日の音読は、山野。
少し緊張しているような風ではあるけど、でも優しい声で読み続ける。
筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに
比べこし 振り分け髪も 肩過ぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき
――その昔、井筒と背比べした私の背丈は、井筒を追い越してしまったよ。アナタに会わない間に。
――アナタと長さを比べあった私の振分け髪も、肩を過ぎるぐらいに伸びました。アナタでなければ、誰がこの髪を上げて、私を大人にしてくださるのでしょう。
『伊勢物語』のこの部分。
幼なじみの二人が大人になって結婚する話。
よくある幼なじみ恋愛モノかと思いきや、その続きで、零落した女と連れ添うことに嫌気がさした男が、別のところの新しい女と浮気(?)を始めてしまう。けど、元の幼なじみは、浮気する男の身を案じたりするほど心優しい。一方の浮気相手は、とってもガサツな本性を持っていた。最終的に、幼なじみのもとに戻ってくる男って展開。
(浮気男の身を案じるって、どれだけお人好しなのさ)
惚れた心は揺るがない?
僕なら、そのケツを蹴っ飛ばして、二度と家に入れないけど。
もちろん教科書には、男の不実な部分は載っていない。歌を詠み合って結婚しました――で終わる。文科省的に、「不実な男、待つ女」を高校生に教えるのは、よろしくないんだろう。
でも、それでいいと思う。
長年互いを想い合って、結婚しましたで、幸せリア充で終わっていいと思う。その先の、地に足つきすぎた、どうかすると地に足がのめり込んだような現実は見たくない。
(筒井筒、かあ)
山野の声を聴きながら思う。
女性が振分け髪で過ごすのは、12歳ごろまで。そんな幼い時に知り合っていない。
近所にはそんな井戸もないし、そんな背比べをしたこともない。
けど、僕と山野は、「筒井筒」の分類に入るんだろうか。幼なじみ枠。
「はい。よく読めましたね」
先生に褒められ、山野が着席し直す。彼女が動くと、一拍遅れて髪が揺れる。柔らかそうな髪に縁取られた、「ちゃんと読めてホッ」とした顔。軽く椅子を引き直して、授業に臨めるように、シャーペンを持ち直す。先にピコッとウサギのついたキャラモノシャーペン。
「ここの二首。贈答歌ですが、表現がよく呼応してます。『井筒にかけし』と『比べこし』、『過ぎにけらしな』と『過ぎぬ』。あとは『妹』と『君』ですね」
説明しながら、黒板に書いてあった二首に先生が、丸と丸。つなぐ線を書き込む。
この和歌、「見ざる、ならず」のような未然形の言葉に接続する打消の助動詞とか文法を学ぶに格好の教材なんだけど、この日下先生は、あまりそういうことを説明したがらない。「あり、おり、はべり、いまそかり」は、先生にとって重要ではないらしい。どっちかというと、書かれた文章の素晴らしさ重視。
受験を考えれば、そのロマンチストな授業はちょっと困るのだけど、僕としてはこっちのほうが好き。だって、誰も文章の品詞分解なんて考えながら書いてないだろうし。そんなことをとやかく言うのは野暮。
先生が黒板に書いていくにつれ、僕たちも、黒板を見たりノートを見たり、せわしなく顔を動かして写していく。
ちょっと水飲み鳥みたいな動き。
その中で一人、どうしても山野から目を離せない。
うつむくたびに、顔をあげるたびに揺れる髪。真剣な表情。シャーペンの、ピョコっとウサギのクルクルした動き。ちょっと丸まった背中。腰掛け、座るスカートから揃えて伸びる細い脚。
僕の斜め前の席だからか。たまたま黒板を見る視線の射線上にいるからか。
他の誰よりも、山野の動きが僕の目に止まる。
神社での一件。
あれから、僕と山野の間が、ギクシャクするとか険悪なものになる――とかはない。
山野はいつもどおり接してくるし、普通に「大里くん」と呼びかけてくれる。
間違って飲んだだけで、故意に飲んだわけじゃない。
わかってくれてるんだろう。許してくれてるんだろう。
誰にも言わないし、何も言ってこない。
最初は、いつ「ヒドい! 勝手に飲むなんて!」となじられるかとハラハラしてたけど、そうじゃないことに、最近ようやくホッとしてきている。なじられたら。誰かに話されたら。平謝りして、そのまま立ち直れずに潰れそう。
強引な健太の計画で、僕のカノジョ(仮)にされた山野。
彼女は、僕のこと、どう思ってるんだろう。
嫌な顔一つせずに、僕のカノジョ(仮)でいてくれてるけど。
「――大里くん? 手が止まってるようだけど。どうしたの?」
先生の名指しに、我に返る。
そうだ。今は古典の授業中だった。
「せっかくだから、キミに質問してみようか。『男はこの女をこそ得めと思ふ』の、『こそ』と『得め』。この辺を少し解説してくれないかな」
「えっと。『こそ』は強意の助係詞で、『得む』の『む』、意思の助動詞『め』の己然形といっしょに、ナニナニしようという強い意志を現してます。『得る』、結婚するという意味の言葉を、『結婚したい』と強く願ってるように変化させてます」
「なるほど。さすがですね」
日下先生からの称賛。ついでクラスから「おーっ」と感嘆の声が上がる。その中にはもちろん、山野も混じる。
(予習しておいてよかった)
本気で思った。
外が曇り空のせいで、少し暗い教室。
そこに、淀みない朗読の声が響く。
「女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども聞かでなむありける」
健太のつっかえつっかえ、ドッコンドッコンした音読とは違う。
今日の音読は、山野。
少し緊張しているような風ではあるけど、でも優しい声で読み続ける。
筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに
比べこし 振り分け髪も 肩過ぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき
――その昔、井筒と背比べした私の背丈は、井筒を追い越してしまったよ。アナタに会わない間に。
――アナタと長さを比べあった私の振分け髪も、肩を過ぎるぐらいに伸びました。アナタでなければ、誰がこの髪を上げて、私を大人にしてくださるのでしょう。
『伊勢物語』のこの部分。
幼なじみの二人が大人になって結婚する話。
よくある幼なじみ恋愛モノかと思いきや、その続きで、零落した女と連れ添うことに嫌気がさした男が、別のところの新しい女と浮気(?)を始めてしまう。けど、元の幼なじみは、浮気する男の身を案じたりするほど心優しい。一方の浮気相手は、とってもガサツな本性を持っていた。最終的に、幼なじみのもとに戻ってくる男って展開。
(浮気男の身を案じるって、どれだけお人好しなのさ)
惚れた心は揺るがない?
僕なら、そのケツを蹴っ飛ばして、二度と家に入れないけど。
もちろん教科書には、男の不実な部分は載っていない。歌を詠み合って結婚しました――で終わる。文科省的に、「不実な男、待つ女」を高校生に教えるのは、よろしくないんだろう。
でも、それでいいと思う。
長年互いを想い合って、結婚しましたで、幸せリア充で終わっていいと思う。その先の、地に足つきすぎた、どうかすると地に足がのめり込んだような現実は見たくない。
(筒井筒、かあ)
山野の声を聴きながら思う。
女性が振分け髪で過ごすのは、12歳ごろまで。そんな幼い時に知り合っていない。
近所にはそんな井戸もないし、そんな背比べをしたこともない。
けど、僕と山野は、「筒井筒」の分類に入るんだろうか。幼なじみ枠。
「はい。よく読めましたね」
先生に褒められ、山野が着席し直す。彼女が動くと、一拍遅れて髪が揺れる。柔らかそうな髪に縁取られた、「ちゃんと読めてホッ」とした顔。軽く椅子を引き直して、授業に臨めるように、シャーペンを持ち直す。先にピコッとウサギのついたキャラモノシャーペン。
「ここの二首。贈答歌ですが、表現がよく呼応してます。『井筒にかけし』と『比べこし』、『過ぎにけらしな』と『過ぎぬ』。あとは『妹』と『君』ですね」
説明しながら、黒板に書いてあった二首に先生が、丸と丸。つなぐ線を書き込む。
この和歌、「見ざる、ならず」のような未然形の言葉に接続する打消の助動詞とか文法を学ぶに格好の教材なんだけど、この日下先生は、あまりそういうことを説明したがらない。「あり、おり、はべり、いまそかり」は、先生にとって重要ではないらしい。どっちかというと、書かれた文章の素晴らしさ重視。
受験を考えれば、そのロマンチストな授業はちょっと困るのだけど、僕としてはこっちのほうが好き。だって、誰も文章の品詞分解なんて考えながら書いてないだろうし。そんなことをとやかく言うのは野暮。
先生が黒板に書いていくにつれ、僕たちも、黒板を見たりノートを見たり、せわしなく顔を動かして写していく。
ちょっと水飲み鳥みたいな動き。
その中で一人、どうしても山野から目を離せない。
うつむくたびに、顔をあげるたびに揺れる髪。真剣な表情。シャーペンの、ピョコっとウサギのクルクルした動き。ちょっと丸まった背中。腰掛け、座るスカートから揃えて伸びる細い脚。
僕の斜め前の席だからか。たまたま黒板を見る視線の射線上にいるからか。
他の誰よりも、山野の動きが僕の目に止まる。
神社での一件。
あれから、僕と山野の間が、ギクシャクするとか険悪なものになる――とかはない。
山野はいつもどおり接してくるし、普通に「大里くん」と呼びかけてくれる。
間違って飲んだだけで、故意に飲んだわけじゃない。
わかってくれてるんだろう。許してくれてるんだろう。
誰にも言わないし、何も言ってこない。
最初は、いつ「ヒドい! 勝手に飲むなんて!」となじられるかとハラハラしてたけど、そうじゃないことに、最近ようやくホッとしてきている。なじられたら。誰かに話されたら。平謝りして、そのまま立ち直れずに潰れそう。
強引な健太の計画で、僕のカノジョ(仮)にされた山野。
彼女は、僕のこと、どう思ってるんだろう。
嫌な顔一つせずに、僕のカノジョ(仮)でいてくれてるけど。
「――大里くん? 手が止まってるようだけど。どうしたの?」
先生の名指しに、我に返る。
そうだ。今は古典の授業中だった。
「せっかくだから、キミに質問してみようか。『男はこの女をこそ得めと思ふ』の、『こそ』と『得め』。この辺を少し解説してくれないかな」
「えっと。『こそ』は強意の助係詞で、『得む』の『む』、意思の助動詞『め』の己然形といっしょに、ナニナニしようという強い意志を現してます。『得る』、結婚するという意味の言葉を、『結婚したい』と強く願ってるように変化させてます」
「なるほど。さすがですね」
日下先生からの称賛。ついでクラスから「おーっ」と感嘆の声が上がる。その中にはもちろん、山野も混じる。
(予習しておいてよかった)
本気で思った。
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