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19話:先生の昇進と、商売繁盛と介入者
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「相変わらず、やってるわね」
工房にやって来たツユクサ先生は言った。
見慣れていると思うのだが、毎度面白そうに俺を見る。
やはりマヌケに見えるのだろうか?
「がんばってね」
そう言って、工房の中に入っていく。
俺はどんよりと曇った空の下、銅線を握りしめている。
亜麻色の髪が揺れる先生の後姿をただ見つめるだけの俺。
銅線を握りながら。
俺の手からはビリビリと電気が流れ出している。
俺がなぜ外にいるかというと、この作業は中でやるのが危険だからだ。
塩素と水素がブクブクと発生している。
塩素は集めているが、水素は垂れ流し。
集めてはいる塩素だって、外に漏れている可能性はあるだろう。
これを、建物の中でやるのは危ないのだ。
塩素は毒ガスで、水素は爆発物だ。
よって、俺だけ外にいる。
雨が降っても外。今は降ってないけど。
とにかく、俺がやっているのは「食塩水の電気分解」だ。
中学生レベルの理科の実験のようなものだ。
夏休みの自由研究レベル。
電気を作る俺の能力で、食塩水を分解している。
左右の手から発生する電気が、銅線を伝わる。
右手に陽極、左手に陰極ができる。
で、そこから気体が発生する。
塩素と水素だ。
理屈の上では、塩素と水素が、食塩水、つまり塩化ナトリウムから抜ければ、ナトリウムイオンと水酸化物イオンが残る。
で、水酸化ナトリウムが出来る様に思える。
Na+OH=NaOH
しかし、そうは上手く行かない。
水溶液中の塩素が水酸化ナトリウムと反応して次亜塩素酸ナトリウムになってしまう。
これを防ぐには半透膜で電極を区切る必要があるわけだ。
まず、最初に考えた卵の膜ね。
「これ、1枚が小さすぎます」
「こう、格子上の木枠を作ってはめ込むとか?」
「うーん、やってみますか」
てな感じで、スズランと話して、色々工夫した。
で、失敗。
隙間なく溶液を分けることができなかったからだ。
木の部分が問題だった。
一枚ものの半透膜が必要だった。
工房ではしばらく「卵料理」が振る舞われた。
奴隷たちには好評だった。卵はそこそこ高級品だ。
ただ、電気分解で塩素を作ることはできた。
それを水に溶かして、次亜塩素酸は出来る。
コイツは時間をおけば、塩酸になるので、漂白剤はそれで出来ることはできる。
しばらくはそれを生産していた。
塩素パワーで白さがアップ!
紙の脱色の効率はよくなった。
成果はゼロではないが、目的は達成できていなかった。
試行錯誤の連続。
頭で考えていたことと、実際に出来ることは違うことを思い知らされる日々だった。
◇◇◇◇◇◇
「先生、アルカリ溶液できましたよ」
俺は食塩水を電気分解して作った水酸化ナトリウム溶液を工房の中に運び込む。
これは、劇薬だ。
木片をドロドロに溶かす。もし、人間が浴びれば肉が溶ける。
「じゃあ、補充しておいてね」
「はい」
なんとか、水酸化ナトリウム溶液の生成に成功したのは最近だ。
結局、紙が問題を解決していた。
必要な材料は自分たちが造っていたんだ。アホウな話だ。
陰極と陽極は、自分たちが造った紙を何枚も重ねたフィルターで囲んだ。
完全ではないかもしれない。不純物は混じったが、それでも一応は成功した。
紙の生産力はまたアップした。
しかも、仕入れていたアルカリ溶液が自前でできるのだ。原価も下がった。
多分、成功だ。
この世界で質の良い紙を作りだし量産することは成功に向かっている。
スズラン先生は、紙の製造工程を見つめていた。
俺はその整ってはいるが、なぜか親しみを感じる横顔に視線を向ける。
そして、彼女の視線の先に目を向けた。
俺の兄であるハルシャギクの弟子、ヒナゲシが大剣を振りまわり、丸太を粉砕して行く。
人間技とは思えない。(兄はそれを素手で一瞬でやるが)
そして、奴隷がそれをアルカリ溶液に漬けこむ。
溶けてドロドロになった「紙の原液」とでもいうものから紙を造っていく。
漂白も行う。
奴隷たちと、職人が動きまわる。
「おらぁ! モタモタするな! 納期があるんだ!」
工房のカタクリ親方の怒声が響く。ただ、機嫌が悪いわけじゃない。
なんせ、凄まじく儲かっているのだから。
禁呪「カガク」に書かれていたことが、この異世界で実現しつつあった。
俺は、再びツユクサ先生を見た。
その制服には、金色のラインが2本。
先生は「准教授」に昇進していた。
◇◇◇◇◇◇
「色々あったけど――」
先生は自前のカップを口元に寄せ紅茶を飲む。
そして、口を離した。
「ライがいなければ、ここまでこれなかったかもしれないわ」
ブルーの瞳が真っ直ぐに俺を見た。
先生は俺を「ライ」と呼ぶようになっていた。
「そ、そうですかね……」
俺も自前のカップを持って紅茶を飲む。一気に飲んだ。
なぜか、喉が急に乾いた気がしたからだ。
魔法大学、禁呪学科の研究室だ。
窓からは相変わらずの、曇天が見えている。
先生は一番下っ端の「講師」から「准教授」になった。
あり得ないことらしい。
このことで、魔法大学内は少し騒然となった。
魔法大学の教官は肩書きなしの「講師」→「上級講師」→「特級講師」と昇進していく。
で、「特級講師」で相当の実績を上げないと「准教授」にはなれない。
「講師」と「准教授」との間には、分厚い壁が存在していた。
身分があるわけではない孤児だったツユクサ先生。
おまけに、若い。年齢は訊けないが、下手したら俺と同じくらいかもしれない。
(精神年齢的には、俺は30を超えているが)
紙の質を上げ、量産体制を作り、価格を下げたことは、魔法大学への貢献も大きかったからだ。
魔法大学では、魔法を構築し、魔導書を作る学部が多い。
それには、紙が必要だ。
その紙が大量に、それも高品質の物が手に入るなら大歓迎というわけだ。
「おかげで、禁呪学科の存続もほぼ決まり―― もしかしたら、独立した学部になるかも」
「そうなんですか!」
「まだ、本決まりじゃないけど。そうなると、ここも手狭になるわね」
そう言って、彼女は研究室の中を見る。愛おしむような視線で。
雑然としたこの場所は、俺にとっても居心地が悪くない。
なにより、先生と2人きりの空間だった。
先生がトンとテーブルに肘をつき、両手を組んでこっちを見た。
相変わらずの真っ直ぐな視線だ。
「今度はきちんと『カガク』のどこに何が書いてあったのか、全部報告してね。何度も言ってわるいとは思うけど」
「はい。分かりました……」
食塩の電気分解による水酸化ナトリウム溶液の作成。
そして、塩酸を作ることで、俺は電池も作った。
亜鉛と銅だ。
イオン化傾向の異なる金属を、電解質に電極としてさしこむ。
イオン化傾向とは、電解質溶液に溶けやすいか、溶けにくいかという話だ。
起電力(要するに電圧の高さ)は、イオン化傾向の差が大きければ大きくなる。
ただ、金とか銀は溶けない。溶けないのでは、電気はおきない。
中学生で基礎を学んで、高校生で踏み込む化学の知識だ。
現代の日本において――
つまり、俺はやっちまったということなのだ。
「でも、こんな大事なことをしっかり覚えてないとか…… まあ、概念が分かれば探せはするけど」
ツユクサ先生は、概念を理解できれば、禁呪の魔導書「カガク」からその記載のある本を引っ張ってこれる。
「次からは、きちんと覚えておきます」
「本当に、なにが重要なのか、分からないのだから、全てを教えて」
「はい」
今回の電気分解に関して、最初にどの本に書かれていたか、俺は答えることができないでいた。
ツユクサ先生は異常に記憶力がいい。
電気分解と電池のことを話し、それが書かれている本を抽出する。
その本を並べながら、先生は「全部、初めて調べる書物な気がするわ。気のせいかしら?」と言った。
真っ直ぐな視線が俺に向けられた。
薄明りに浮かび上がるブルーの瞳。
その先生の怪訝そうな顔を克明に覚えている。
ちょっとヤバかった。
とにかくだ。
先生は異常に気にする。
新しい知識。それが、最初にどの本に書かれていたか。
そのあたりは、学者的な几帳面さかもしれない。
ヤバいくらいに妥協を許さない雰囲気がある。
もう、ごまかせない。
自分の知っている「知識」を「ガガク」に書いてあったと言うことはできる。
そして、その概念を理解した先生は、類書を探し出すことが出来る。
しかし、今回みたいなことを繰り返すと、先生に変な疑念を生じさせてしまう。
今後は適当なことを言えない。もう、「覚えてません」は通用しない。
俺は転生者だ。
元は日本の受験生。
俺が転生者であることを含め、全部ぶちまけようかとも思ったこともある。
でも、そのことで、今の先生との関係が変わってしまうのは絶対に嫌だった。
俺は俺だ。
この世界では貴族のボンボンで魔法大学、禁呪学科の1年。
それでよかった。
「それは、そうとすごいことになりましたよね。紙の値段が凄まじく下がっちゃいましたから」
この言葉は、話題を変える意味もあった。
紙の市中価格は大きく下がった。そして流通する紙の量が増えた。
安くなれば、紙の需要はいたるところにあった。
紙は手軽で確実な記憶媒体だからだ。
「でも、あの考えのヒントを出したのは、ライよね?」
「ボクのは、ただの思いつきで…… 実際に動いて実現したのは『准教授』になった先生ですよ!」
「まあ、それくらいは―― 准教授だし」
そう言って先生はカップをもって、澄ました横顔を俺に見せる。
ただ、亜麻色の髪の間から見える耳は真っ赤になっていた。
◇◇◇◇◇◇
「おい、スズラン本当か? それは、んん?」
まるで、恐喝するかのような胴間声(どうまごえ)だ。
「本当です。今月の純売上が1万グオルドを越えるかもしれません」
声変わり前の少年のような声が答える。
カタクリ親方の工房。
それも、元々の方の工房だ。
ちなみに、ここも今の生産方法は「カガク」による工法に変更している。
俺、ツユクサ先生、カタクリ親方、その娘のスズランがいる。
そこの、簡単な会議室にも使える食堂だった。
「間違いないです。色々な工房からお金が入ってきますから」
真っ白な紙の帳面を見ながら、スズランが言った。
「カガク」の工法を他の工房に教える代わりに、月々に使用料を取っていた。
それほど大きな金額じゃない。
この工法を使えば、生産力が増える。しかも紙の需要は拡大するばかりだ。
魔法大学、カタクリ親方の工房との「契約」という形で、他の工房もこの工法を使えた。
まあ、ヒナゲシみたいな剣士はそうそういないと思っていたら、兄道場には何人か同じことが出来る剣士がいたらしい。兄の道場を通し、アルバイトを始めた剣士が出てきている。
「こういった契約でお金を儲けるとかすごいです。さすが大学の先生です」
尊敬の眼差しでツユクサ先生を見つめるスズラン。
「それほどもないことなのよ」
先生は用意されたお茶を口に寄せつつ言った。
ただ、その契約を守らせるために、ちょっと厄介な物が介入はしているのだが…‥
「月に1万グオルドってことは年に…… いくらだ?」
「12万です」
指を折り数えていたカタクリ親方にスズランが言った。
この世界の通貨単位は、グオルド(金貨)、シルバル(銀貨)、カパル(銅貨)の三種類。
1グオルド10万円くらいかなと漠然と思っている。
物価水準も、文明も、経済体制も異なるので、実際に比較するのは難しい。
目安程度だ。
そうなると……
1万グオルドっていくらだ? 日本円で。
俺はテーブルの下で指を折る。
カラクリ親方と同じだ。
(一、十、百、千、万…… 十万、百万、千万、億、十億? ん? ん? え――!!)
年間100億以上か?
この目の前の兇悪な山賊にしか見えないおっさん。
年間100億以上の純売上あげる企業の社長さんだよ。
これ、かなりの大企業じゃないか?
「本当に、ツユクサ先生のおかげだ……」
「親方やスズランさんの頑張りがあってこそです」
外向きの顔で先生は言った。
カタクリ親方の工房は元々潰れそうなわけではなかった。
しかし、経営は楽ではなかったはずだ。
奴隷が高いとぼやいていたのを覚えている。
今では、その奴隷も倍増している。
しかも、5年程度で「解放奴隷」にすると約束しているので、奴隷のやる気も違う。
奴隷を辞めても、職人として、親方の下で働きたいと言っている奴隷もいる。
「そういえば、今週です。視察です」
スズランが話を変えた。
赤いバンダナを目深にかぶっている。
その下の顔は、一見美少年だが、性別は女の子。
カタクリ親方の遺伝子がどこにあるのか謎だ。
「教会ね――」
先生は椅子の背もたれに身をあずけていった。
教会が来る。この工房にだ。
そう――
契約を守らせる担保となる存在。
介入してきた者――
それは、教会だった。
工房にやって来たツユクサ先生は言った。
見慣れていると思うのだが、毎度面白そうに俺を見る。
やはりマヌケに見えるのだろうか?
「がんばってね」
そう言って、工房の中に入っていく。
俺はどんよりと曇った空の下、銅線を握りしめている。
亜麻色の髪が揺れる先生の後姿をただ見つめるだけの俺。
銅線を握りながら。
俺の手からはビリビリと電気が流れ出している。
俺がなぜ外にいるかというと、この作業は中でやるのが危険だからだ。
塩素と水素がブクブクと発生している。
塩素は集めているが、水素は垂れ流し。
集めてはいる塩素だって、外に漏れている可能性はあるだろう。
これを、建物の中でやるのは危ないのだ。
塩素は毒ガスで、水素は爆発物だ。
よって、俺だけ外にいる。
雨が降っても外。今は降ってないけど。
とにかく、俺がやっているのは「食塩水の電気分解」だ。
中学生レベルの理科の実験のようなものだ。
夏休みの自由研究レベル。
電気を作る俺の能力で、食塩水を分解している。
左右の手から発生する電気が、銅線を伝わる。
右手に陽極、左手に陰極ができる。
で、そこから気体が発生する。
塩素と水素だ。
理屈の上では、塩素と水素が、食塩水、つまり塩化ナトリウムから抜ければ、ナトリウムイオンと水酸化物イオンが残る。
で、水酸化ナトリウムが出来る様に思える。
Na+OH=NaOH
しかし、そうは上手く行かない。
水溶液中の塩素が水酸化ナトリウムと反応して次亜塩素酸ナトリウムになってしまう。
これを防ぐには半透膜で電極を区切る必要があるわけだ。
まず、最初に考えた卵の膜ね。
「これ、1枚が小さすぎます」
「こう、格子上の木枠を作ってはめ込むとか?」
「うーん、やってみますか」
てな感じで、スズランと話して、色々工夫した。
で、失敗。
隙間なく溶液を分けることができなかったからだ。
木の部分が問題だった。
一枚ものの半透膜が必要だった。
工房ではしばらく「卵料理」が振る舞われた。
奴隷たちには好評だった。卵はそこそこ高級品だ。
ただ、電気分解で塩素を作ることはできた。
それを水に溶かして、次亜塩素酸は出来る。
コイツは時間をおけば、塩酸になるので、漂白剤はそれで出来ることはできる。
しばらくはそれを生産していた。
塩素パワーで白さがアップ!
紙の脱色の効率はよくなった。
成果はゼロではないが、目的は達成できていなかった。
試行錯誤の連続。
頭で考えていたことと、実際に出来ることは違うことを思い知らされる日々だった。
◇◇◇◇◇◇
「先生、アルカリ溶液できましたよ」
俺は食塩水を電気分解して作った水酸化ナトリウム溶液を工房の中に運び込む。
これは、劇薬だ。
木片をドロドロに溶かす。もし、人間が浴びれば肉が溶ける。
「じゃあ、補充しておいてね」
「はい」
なんとか、水酸化ナトリウム溶液の生成に成功したのは最近だ。
結局、紙が問題を解決していた。
必要な材料は自分たちが造っていたんだ。アホウな話だ。
陰極と陽極は、自分たちが造った紙を何枚も重ねたフィルターで囲んだ。
完全ではないかもしれない。不純物は混じったが、それでも一応は成功した。
紙の生産力はまたアップした。
しかも、仕入れていたアルカリ溶液が自前でできるのだ。原価も下がった。
多分、成功だ。
この世界で質の良い紙を作りだし量産することは成功に向かっている。
スズラン先生は、紙の製造工程を見つめていた。
俺はその整ってはいるが、なぜか親しみを感じる横顔に視線を向ける。
そして、彼女の視線の先に目を向けた。
俺の兄であるハルシャギクの弟子、ヒナゲシが大剣を振りまわり、丸太を粉砕して行く。
人間技とは思えない。(兄はそれを素手で一瞬でやるが)
そして、奴隷がそれをアルカリ溶液に漬けこむ。
溶けてドロドロになった「紙の原液」とでもいうものから紙を造っていく。
漂白も行う。
奴隷たちと、職人が動きまわる。
「おらぁ! モタモタするな! 納期があるんだ!」
工房のカタクリ親方の怒声が響く。ただ、機嫌が悪いわけじゃない。
なんせ、凄まじく儲かっているのだから。
禁呪「カガク」に書かれていたことが、この異世界で実現しつつあった。
俺は、再びツユクサ先生を見た。
その制服には、金色のラインが2本。
先生は「准教授」に昇進していた。
◇◇◇◇◇◇
「色々あったけど――」
先生は自前のカップを口元に寄せ紅茶を飲む。
そして、口を離した。
「ライがいなければ、ここまでこれなかったかもしれないわ」
ブルーの瞳が真っ直ぐに俺を見た。
先生は俺を「ライ」と呼ぶようになっていた。
「そ、そうですかね……」
俺も自前のカップを持って紅茶を飲む。一気に飲んだ。
なぜか、喉が急に乾いた気がしたからだ。
魔法大学、禁呪学科の研究室だ。
窓からは相変わらずの、曇天が見えている。
先生は一番下っ端の「講師」から「准教授」になった。
あり得ないことらしい。
このことで、魔法大学内は少し騒然となった。
魔法大学の教官は肩書きなしの「講師」→「上級講師」→「特級講師」と昇進していく。
で、「特級講師」で相当の実績を上げないと「准教授」にはなれない。
「講師」と「准教授」との間には、分厚い壁が存在していた。
身分があるわけではない孤児だったツユクサ先生。
おまけに、若い。年齢は訊けないが、下手したら俺と同じくらいかもしれない。
(精神年齢的には、俺は30を超えているが)
紙の質を上げ、量産体制を作り、価格を下げたことは、魔法大学への貢献も大きかったからだ。
魔法大学では、魔法を構築し、魔導書を作る学部が多い。
それには、紙が必要だ。
その紙が大量に、それも高品質の物が手に入るなら大歓迎というわけだ。
「おかげで、禁呪学科の存続もほぼ決まり―― もしかしたら、独立した学部になるかも」
「そうなんですか!」
「まだ、本決まりじゃないけど。そうなると、ここも手狭になるわね」
そう言って、彼女は研究室の中を見る。愛おしむような視線で。
雑然としたこの場所は、俺にとっても居心地が悪くない。
なにより、先生と2人きりの空間だった。
先生がトンとテーブルに肘をつき、両手を組んでこっちを見た。
相変わらずの真っ直ぐな視線だ。
「今度はきちんと『カガク』のどこに何が書いてあったのか、全部報告してね。何度も言ってわるいとは思うけど」
「はい。分かりました……」
食塩の電気分解による水酸化ナトリウム溶液の作成。
そして、塩酸を作ることで、俺は電池も作った。
亜鉛と銅だ。
イオン化傾向の異なる金属を、電解質に電極としてさしこむ。
イオン化傾向とは、電解質溶液に溶けやすいか、溶けにくいかという話だ。
起電力(要するに電圧の高さ)は、イオン化傾向の差が大きければ大きくなる。
ただ、金とか銀は溶けない。溶けないのでは、電気はおきない。
中学生で基礎を学んで、高校生で踏み込む化学の知識だ。
現代の日本において――
つまり、俺はやっちまったということなのだ。
「でも、こんな大事なことをしっかり覚えてないとか…… まあ、概念が分かれば探せはするけど」
ツユクサ先生は、概念を理解できれば、禁呪の魔導書「カガク」からその記載のある本を引っ張ってこれる。
「次からは、きちんと覚えておきます」
「本当に、なにが重要なのか、分からないのだから、全てを教えて」
「はい」
今回の電気分解に関して、最初にどの本に書かれていたか、俺は答えることができないでいた。
ツユクサ先生は異常に記憶力がいい。
電気分解と電池のことを話し、それが書かれている本を抽出する。
その本を並べながら、先生は「全部、初めて調べる書物な気がするわ。気のせいかしら?」と言った。
真っ直ぐな視線が俺に向けられた。
薄明りに浮かび上がるブルーの瞳。
その先生の怪訝そうな顔を克明に覚えている。
ちょっとヤバかった。
とにかくだ。
先生は異常に気にする。
新しい知識。それが、最初にどの本に書かれていたか。
そのあたりは、学者的な几帳面さかもしれない。
ヤバいくらいに妥協を許さない雰囲気がある。
もう、ごまかせない。
自分の知っている「知識」を「ガガク」に書いてあったと言うことはできる。
そして、その概念を理解した先生は、類書を探し出すことが出来る。
しかし、今回みたいなことを繰り返すと、先生に変な疑念を生じさせてしまう。
今後は適当なことを言えない。もう、「覚えてません」は通用しない。
俺は転生者だ。
元は日本の受験生。
俺が転生者であることを含め、全部ぶちまけようかとも思ったこともある。
でも、そのことで、今の先生との関係が変わってしまうのは絶対に嫌だった。
俺は俺だ。
この世界では貴族のボンボンで魔法大学、禁呪学科の1年。
それでよかった。
「それは、そうとすごいことになりましたよね。紙の値段が凄まじく下がっちゃいましたから」
この言葉は、話題を変える意味もあった。
紙の市中価格は大きく下がった。そして流通する紙の量が増えた。
安くなれば、紙の需要はいたるところにあった。
紙は手軽で確実な記憶媒体だからだ。
「でも、あの考えのヒントを出したのは、ライよね?」
「ボクのは、ただの思いつきで…… 実際に動いて実現したのは『准教授』になった先生ですよ!」
「まあ、それくらいは―― 准教授だし」
そう言って先生はカップをもって、澄ました横顔を俺に見せる。
ただ、亜麻色の髪の間から見える耳は真っ赤になっていた。
◇◇◇◇◇◇
「おい、スズラン本当か? それは、んん?」
まるで、恐喝するかのような胴間声(どうまごえ)だ。
「本当です。今月の純売上が1万グオルドを越えるかもしれません」
声変わり前の少年のような声が答える。
カタクリ親方の工房。
それも、元々の方の工房だ。
ちなみに、ここも今の生産方法は「カガク」による工法に変更している。
俺、ツユクサ先生、カタクリ親方、その娘のスズランがいる。
そこの、簡単な会議室にも使える食堂だった。
「間違いないです。色々な工房からお金が入ってきますから」
真っ白な紙の帳面を見ながら、スズランが言った。
「カガク」の工法を他の工房に教える代わりに、月々に使用料を取っていた。
それほど大きな金額じゃない。
この工法を使えば、生産力が増える。しかも紙の需要は拡大するばかりだ。
魔法大学、カタクリ親方の工房との「契約」という形で、他の工房もこの工法を使えた。
まあ、ヒナゲシみたいな剣士はそうそういないと思っていたら、兄道場には何人か同じことが出来る剣士がいたらしい。兄の道場を通し、アルバイトを始めた剣士が出てきている。
「こういった契約でお金を儲けるとかすごいです。さすが大学の先生です」
尊敬の眼差しでツユクサ先生を見つめるスズラン。
「それほどもないことなのよ」
先生は用意されたお茶を口に寄せつつ言った。
ただ、その契約を守らせるために、ちょっと厄介な物が介入はしているのだが…‥
「月に1万グオルドってことは年に…… いくらだ?」
「12万です」
指を折り数えていたカタクリ親方にスズランが言った。
この世界の通貨単位は、グオルド(金貨)、シルバル(銀貨)、カパル(銅貨)の三種類。
1グオルド10万円くらいかなと漠然と思っている。
物価水準も、文明も、経済体制も異なるので、実際に比較するのは難しい。
目安程度だ。
そうなると……
1万グオルドっていくらだ? 日本円で。
俺はテーブルの下で指を折る。
カラクリ親方と同じだ。
(一、十、百、千、万…… 十万、百万、千万、億、十億? ん? ん? え――!!)
年間100億以上か?
この目の前の兇悪な山賊にしか見えないおっさん。
年間100億以上の純売上あげる企業の社長さんだよ。
これ、かなりの大企業じゃないか?
「本当に、ツユクサ先生のおかげだ……」
「親方やスズランさんの頑張りがあってこそです」
外向きの顔で先生は言った。
カタクリ親方の工房は元々潰れそうなわけではなかった。
しかし、経営は楽ではなかったはずだ。
奴隷が高いとぼやいていたのを覚えている。
今では、その奴隷も倍増している。
しかも、5年程度で「解放奴隷」にすると約束しているので、奴隷のやる気も違う。
奴隷を辞めても、職人として、親方の下で働きたいと言っている奴隷もいる。
「そういえば、今週です。視察です」
スズランが話を変えた。
赤いバンダナを目深にかぶっている。
その下の顔は、一見美少年だが、性別は女の子。
カタクリ親方の遺伝子がどこにあるのか謎だ。
「教会ね――」
先生は椅子の背もたれに身をあずけていった。
教会が来る。この工房にだ。
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介入してきた者――
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ファンタジー
高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
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