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38.蒙古・高麗軍転進
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雨足は次第に強くなり、風の音も鋭さを増していた。
蒙古、高麗軍の本陣である「パオ」がキシキシと軋み音を上げる。
すでに夕刻というべき時間が過ぎ。
戦闘は終わっていた。
(この戦闘は負けた……)と金方慶は思っていた。
しかし、その戦意は衰えていなかった。
いや、ここで型をつけねば、ズルズルと戦は長期化し、本国である高麗はどんどん疲弊していくであろう――
戦を長引かせてはいけない。
だからこそ、戦闘は継続すべきだ。
金方慶は歴戦の将軍だ。そして、祖国・高麗の未来も憂いていた。
(ここで、引き下がったら、今までの犠牲はなんなのだ?)
その思いが、金方慶をして主戦論に走らせる結果となった。
「既に、倭の勢力圏内。背水の陣をもってでも、決戦を強いるべきです」
「そうであるか――」
顔に揺れる松明の光を浴び、総司令官のキントは無表情に言葉を呟く。
「兵法に曰わずや、これを死地に陥れて而る後生き、これを亡地に置きて而る後に存す――」
金方慶は土壌髭を揺らしながら静かに言った。
孫子の兵法であった。
はっきり言って、戦は苦戦の連続だ。
倭の戦場はまさに「死地」だ。しかし、滅びるかもしれぬという覚悟、恐れを持ち、死に物狂いで戦う必要があると主張した。
兵にとってはたまらない話だ。
が、もしここで中途半端に戦を終わらせ、撤退ということになればどうか?
次もまた、高麗には苛烈な要求がやってくるだろう。
国力、民の疲弊を考えても、こんな戦は一度で十分だ。
だから、全滅してでも、ひとつの区切りをつける必要がある。
金方慶の主張ここまで考えての主戦論、積極攻勢論であった。
(正論ではあるかもしれぬ―― が……)
キントは金方慶の主張に対しそう思う。
そして、状況を整理する。
まず、有力な将軍であった劉復享が矢を受け負傷。
今の段階で戦場に立つことは叶わない。
猛将である、劉復享を欠くのは戦力として痛い。
更にだ――
矢の消耗が異常なまでに多かった。
橋頭堡のある鷹島にある矢も、湿った船内での管理状態が悪かった。
多くの矢が反ってしまったりして、使い物にならなくなっている。
兵站上の明らかな失敗だ。
現在どの程度の矢が使用可能なのか、それはまだ把握できていない。
決して多くないことだけは明らかだが。
そして――
天候も悪化している。
地の利は明らかに倭軍にあり、夜襲も自在に仕掛けることが可能だ。
この本陣ですら、安全であるとは言い切れない。
「倭は強いな……」
ぽつりと転がるような言葉をキントは吐いた。
「奴らは死を恐れぬ。凶悪な戦闘力は、衰えることを知らぬだろう」
「敵を恐れていては……」
金方慶はそう言わざるを得なかった。
内心では、キントの言うことに一理あると認めていたが、それで引いてしまっては、高麗の未来が危うい。
「キント総司令官殿のおっしゃること、実に理にかなっております。この洪茶丘敬服いたしました」
高麗を捨て、蒙古という強者に媚びへつらうことで生きてきた洪茶丘という男は、キントの発言を支持する。
支持というより、迎合であったかもしれない。
「雨風も強くなっていますなぁ」
洪茶丘は下から舐るような嫌な視線で金方慶を見つめる。
金方慶もその視線を受け止め、目を据える。
パオの中にいいしれぬ、空気の重さが生じた。
「夜襲か……」
「左様に」
「矢も少ない」
「左様に」
「兵の疲労も大きい」
「左様に」
キントと洪茶丘のやりとり。
キントの胸の内は非戦という考えに染まっていく。徐々にだ。
「金方慶将軍は、孫子を引用し、死地で死の物狂いの奮戦を期待されるが……」
くいっと顎を挙げ、子バカにしたように、金方慶を見やる。
金方慶も鋭い視線を返す。
「『小敵の堅は大敵の擒なり』とも孫子にはありますな」
数こそが戦において重要であるという実も蓋もない話である。
数の少ない軍が頑張っても、より大きな軍で攻められれば、攻略されるということだ。
「うむ」
キントは、そう言うと金方慶を見やった。
視線がそのまま、返ってくる。
この老将軍は、真正面から人を人を見つめる。
キントは一瞬気圧された。
「この地で夜襲を警戒するのも限界がある。全軍、乗船―― 後に鷹島まで後退し反撃の機会を狙う」
結局のところ、橋頭堡まで舟艇で移動し、反撃体制を立て直すということになった。
決して「退却」ではない。
金方慶も納得するしかなかった。
蒙古・高麗軍は抜都魯《バートル》に乗り夜間乗船を強行した。
この時代の技術水準では、特記すべきことであったが、それでも強い風の中、多くの兵が海没することになった。
風は不吉なほどに音を強くし、雨も兵たちを叩くかのように振り続けていた。
軍船は、ゆっくりと闇の中を進んで行った。
蒙古、高麗軍の本陣である「パオ」がキシキシと軋み音を上げる。
すでに夕刻というべき時間が過ぎ。
戦闘は終わっていた。
(この戦闘は負けた……)と金方慶は思っていた。
しかし、その戦意は衰えていなかった。
いや、ここで型をつけねば、ズルズルと戦は長期化し、本国である高麗はどんどん疲弊していくであろう――
戦を長引かせてはいけない。
だからこそ、戦闘は継続すべきだ。
金方慶は歴戦の将軍だ。そして、祖国・高麗の未来も憂いていた。
(ここで、引き下がったら、今までの犠牲はなんなのだ?)
その思いが、金方慶をして主戦論に走らせる結果となった。
「既に、倭の勢力圏内。背水の陣をもってでも、決戦を強いるべきです」
「そうであるか――」
顔に揺れる松明の光を浴び、総司令官のキントは無表情に言葉を呟く。
「兵法に曰わずや、これを死地に陥れて而る後生き、これを亡地に置きて而る後に存す――」
金方慶は土壌髭を揺らしながら静かに言った。
孫子の兵法であった。
はっきり言って、戦は苦戦の連続だ。
倭の戦場はまさに「死地」だ。しかし、滅びるかもしれぬという覚悟、恐れを持ち、死に物狂いで戦う必要があると主張した。
兵にとってはたまらない話だ。
が、もしここで中途半端に戦を終わらせ、撤退ということになればどうか?
次もまた、高麗には苛烈な要求がやってくるだろう。
国力、民の疲弊を考えても、こんな戦は一度で十分だ。
だから、全滅してでも、ひとつの区切りをつける必要がある。
金方慶の主張ここまで考えての主戦論、積極攻勢論であった。
(正論ではあるかもしれぬ―― が……)
キントは金方慶の主張に対しそう思う。
そして、状況を整理する。
まず、有力な将軍であった劉復享が矢を受け負傷。
今の段階で戦場に立つことは叶わない。
猛将である、劉復享を欠くのは戦力として痛い。
更にだ――
矢の消耗が異常なまでに多かった。
橋頭堡のある鷹島にある矢も、湿った船内での管理状態が悪かった。
多くの矢が反ってしまったりして、使い物にならなくなっている。
兵站上の明らかな失敗だ。
現在どの程度の矢が使用可能なのか、それはまだ把握できていない。
決して多くないことだけは明らかだが。
そして――
天候も悪化している。
地の利は明らかに倭軍にあり、夜襲も自在に仕掛けることが可能だ。
この本陣ですら、安全であるとは言い切れない。
「倭は強いな……」
ぽつりと転がるような言葉をキントは吐いた。
「奴らは死を恐れぬ。凶悪な戦闘力は、衰えることを知らぬだろう」
「敵を恐れていては……」
金方慶はそう言わざるを得なかった。
内心では、キントの言うことに一理あると認めていたが、それで引いてしまっては、高麗の未来が危うい。
「キント総司令官殿のおっしゃること、実に理にかなっております。この洪茶丘敬服いたしました」
高麗を捨て、蒙古という強者に媚びへつらうことで生きてきた洪茶丘という男は、キントの発言を支持する。
支持というより、迎合であったかもしれない。
「雨風も強くなっていますなぁ」
洪茶丘は下から舐るような嫌な視線で金方慶を見つめる。
金方慶もその視線を受け止め、目を据える。
パオの中にいいしれぬ、空気の重さが生じた。
「夜襲か……」
「左様に」
「矢も少ない」
「左様に」
「兵の疲労も大きい」
「左様に」
キントと洪茶丘のやりとり。
キントの胸の内は非戦という考えに染まっていく。徐々にだ。
「金方慶将軍は、孫子を引用し、死地で死の物狂いの奮戦を期待されるが……」
くいっと顎を挙げ、子バカにしたように、金方慶を見やる。
金方慶も鋭い視線を返す。
「『小敵の堅は大敵の擒なり』とも孫子にはありますな」
数こそが戦において重要であるという実も蓋もない話である。
数の少ない軍が頑張っても、より大きな軍で攻められれば、攻略されるということだ。
「うむ」
キントは、そう言うと金方慶を見やった。
視線がそのまま、返ってくる。
この老将軍は、真正面から人を人を見つめる。
キントは一瞬気圧された。
「この地で夜襲を警戒するのも限界がある。全軍、乗船―― 後に鷹島まで後退し反撃の機会を狙う」
結局のところ、橋頭堡まで舟艇で移動し、反撃体制を立て直すということになった。
決して「退却」ではない。
金方慶も納得するしかなかった。
蒙古・高麗軍は抜都魯《バートル》に乗り夜間乗船を強行した。
この時代の技術水準では、特記すべきことであったが、それでも強い風の中、多くの兵が海没することになった。
風は不吉なほどに音を強くし、雨も兵たちを叩くかのように振り続けていた。
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