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第1話:僕は昨日魔法使いになった
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昨日、僕は魔法使いになった。
神と言ってしまっても大外れではないだろう。
簡単に言ってしまえば人間を超える力を手に入れたということだ。
簡単すぎて、一体僕が何を言っているのか分からないかもしれない。経緯の説明はする。丁寧に。
僕に何が起きたかは単純で明解。
「奇蹟」を起こせる道具を手に入れた。外見はなんの変哲もないスマホだ。
手に入れたと言ったが、正確を期すなら、譲り受けたというのが正しいだろう。
「奇蹟」と言ってしまうと、宗教がかり、分かりにくいかもしれない。
ここは「魔法」と言い換えた方がいい。その方が通りがいいだろう。
とにかく理外の力であることは間違いない。
さて、人は「魔法」という言葉にどんなイメージを持つだろうか。
漫画、アニメ、ゲームに僕は興味がない。作りごと、嘘に興味が無い。徹底的にない。
それでも、そのようなフィクションの世界に登場する魔法使いという者に対するイメージはあった。
呪文を唱え超常的な現象を起こす存在。主に相手を攻撃する、破壊する効果を表す。
今風な解釈だ。ゲームによって作られたイメージと言ってもいいはずだ。
時代を遡れば違ってくるかもしれないが「魔法」についての現時点での共通認識はこうして欲しい。
つまりだ――。
僕が手に入れたスマホは魔法が使える。
魔法というしかない現象を起こすアプリが入っている。
スマホの妙に明るい白い液晶画面に映るアプリアイコン。こいつが不条理で超常的で非日常の力を発揮する。
地球上どこにでも、爆発を起こせるアプリだ。
爆発の規模はコントロールできる。試してはいないが最大で核爆弾級だ。最小なら爆竹程度。それでも人の脳の血管をぶち壊すには十分だ。
都市を地図の上から消去することも、特定個人の脳を破壊し殺すこともできる。
非常に愉快だ。
僕はまだアプリを使ったことはまだない。機能しているのを見たことはあるが。
使ってはない。まだ。
ただその力を得たというだけで、喜びが肉の底から湧いてくる。
僕が世界を破壊できるから。
破壊し、蹂躙し、灰燼と化す。
雑草すら生えない世界を作り出せる。現在の原罪のない清浄で正常な世界だ。
僕は思う。思うより自然だ。慣性のついた思考が脳の回廊を永久運動している。
思考の帰結は決まっていた。
スマホのアプリ――
つまり「魔法」でこの世界を破壊したい――
容赦なく徹底的な破壊を希求する。
それだけを僕は考えるようになっていた。
スマホを握る。素晴らしい歓喜が僕を包む。
歓喜はある種の情念へと変質し、深く沈殿する。
僕の身の内を黒く染めていく。蕩ける程に気持ちが良い。恍惚となるしかない。
◇◇◇◇◇◇
昨日は風が強かった。強風が吹き荒んでいたというのはあまりに散文的表現だろうか。
曇天を見上げれば雲が流されて行くのが分かる。低く垂れ込めた薄墨色の雲が。
冬の研ぎ澄まされた空気が肌を切り裂いていた。風は真正面から吹いていた。僕は身を縮めポケットに手をいれ歩いていたはずだ。
風は僕の陰鬱な気持ちを吹き飛ばすようなことはなかった。ただ顔が冷たくなる。心の温度も下がっていく。
「寒いな」
呟いてみたところで現状は変わらなかった。今の感覚を追認するだけの言葉。何の力もないのは明らかで、無駄以上に無益な言葉だ。
早くアパートに帰るのべきだった。誰もいない寒々とした空間ではあるが、強風の中を歩くよりマシだったはずだ。
なのに僕は意味もなく彷徨った。
しばらく行っていなかった大学に行った帰りだった。真っすぐ帰ることもできたのにそうしなかった。理由は特にない。
大学に行っても僕の居場所などないということを確認しただけだった。波長の合わない人間と一緒にいるよりがひとりの方が心地いい。
風音が強くなった。冷たい空気が耳朶を叩く。
欅の街路樹が風で枝を揺らしていた。
商店街と言うには閑散とした場所を僕は通った。
いつも人通りは少ないがこの日は本当に人気が無かった。
自販機が目に入る。温かい物を買おうかと一瞬思った。が、小銭を取り出すのが億劫なので止めた。
道の向かいに児童公園がある。道を横断して中に入った。
人はいなかった。土日の天気のいい日であれば近所の子どもや親子がいるのだろう。
風がブランコを揺らす。風音に軋んだ音が混ざり込んでいたのを覚えている。
妙に耳障りだったことも。
公園のベンチの下。そこに黒くうずくまっているモノがあった。一瞬、ゴミと思った。黒いポリ袋かなにか。風で表面が波打つ。
もぞりと、それが動いたように見えた。風のせいには見えなかった。それは内部から自重に逆らう動きだった。
「え……人か」
自分が口にした言葉に僕は固まる。
一度そう思うと人にしか見えなくなる。
公園のベンチの下に倒れている人。
十分に非日常の存在だった。
少なくとも僕にとっては。
色々な想像が頭を駆け巡り恐怖と好奇心のふたつの感情が生まれた。
両者が天秤に乗る。好奇心の方に少しだけ傾いた。
僕は一歩、二歩と足を進めた。足の動きが意識から解離しているようだった。
気づくと僕はかなり接近していた。顔が確認できた。鼓動が耳の奥で響く。
女だった。息を飲んだ。若い女だ。それも美しい。現実感を喪失するほどに。
女性の年齢を判別するのは苦手だったが、四〇歳を超えている様には見えない。
僕が見ることの多い、女子大生が幼く見えるほどには歳を重ねているだろう。
目をつぶっていた。口も閉じていた。
死体なのか意識を失っているだけなのか判然としない。
肌は白かったが、血の気を失っているような白さではなかった。
唇だけがやけに赤く見えた。血の色が透けているようだった。
僕はしばらくの間その女性を見つめていた。強い風が吹いた。髪と服が揺らぐ。
髪は肩よりやや長かった。漆黒という言葉が色あせるほどの黒髪。
髪だけではない。身に着けている物全てが黒かった。
更に僕は近づいた。
肌だけが白く、全身が黒い。身に纏った空気が黒い。
尋常な黒じゃなかった。
空間を抉ったような空虚な闇色を想起させた。形容し難い感情をかきたてる色だった。
僕は足を止めた。世界から切り離されたように、時間の経過を体感していなかった。風音よりも鼓動が響く。
女の目が開いた。唐突に。長いまつ毛が揺れる。
衝撃波のような鼓動が僕の胸を叩いた。
空間に暴露された女の眼球がぎゅるりと動いた。僕の姿を捉えたのだろう。泥沼のような眼差しが絡みつく。
体が凝固した。顔に比べ妙に大きな目が僕を見つめている。光を感じさせない|虚
《うつ》ろな穴のような瞳が舐めるように僕を見た。
一直線に結ばれた真っ赤な唇が動く。口角が釣り上がり笑みの形となった。心臓が不可視の手に掴まれたようだった。
「あ、あ奴、らで、はな、いか」
容貌からは想像できない泥濘をこねくり回したような声音だった。肌が粟立つ。
「わ、私もこ、こま、でか……でも、う、運、がいい」
声に呼吸音が混ざる。絡みつく呼気を千切って吐き出すような言葉。
日本語としての意味は分かる。が、何を言わんとしているのかは全く分からなかった。
ただ僕はその場にじっと立っていた。
逃げることはできた。そうするべきであったのかもしれない。
ずるりと女は地を這った。袖の上からでも分かる細い腕がぬるりと伸びた。
服の黒さとは対照的な白く艶めかしい肌が露わとなる。
両生類の腹部を思わせる白さだった。
墓穴から這いずり出たかのような動きで女はゆるゆると立ち上がった。
思いのほか背が高い。風に髪が巻き上げられた。
表情には笑みがへばりついていた。ここまで虚無を感じさせる笑みは見たことがなかった。
女は不意に僕に向けて手を伸ばした。
「手を、だ、出し、て」
心がささくれ立つような声。鼓動を遮り耳朶に直接届く。息が詰まる。肺の中の空気が液化したようだった。
「何を、一体」
やっと言葉が出た。口が乾き舌が重い。自分の声が擦過音のように感じた。
「魔法、使い、にして、あげ、る。お、前を」
ただでさえ揺らいでいた現状認識をさらに混乱させる言葉だった。
狂人の戯言のような申し出であったが、凄まじい吸引力があった。逆らい難い。
魔法使い?
言葉の意味は分かる。だが意図が分からない。そもそも、この女と会話をしていることが僕にとっては不条理であった。
やや首を傾げ女は僕を見つめている。僕は自然と見つめ返した。
美貌という表現すら生ぬるい容姿の持ち主だった。顔が整いすぎていて戦慄すら感じた。たまらず視線を外した。
「こ、こ、れを手に、取、って」
女の手には黒い何かが握られていた。
スマホだった。それを握って手を伸ばしていたのだ。
「ほら、手、に取、って」
磁力のある言葉だった。意識するより先に僕の腕は伸びていた。
暗晦を映し出したような色をしたスマホだった。手にした瞬間、一瞬モータ音のようなものがした。
長方形に切り取られた闇が純白の光彩に包まれる。
なんとも奇妙なスマホだった。
真っ白な画面に黒いダイヤ型のアイコンがあるだけだった。他には何もなかった。
スマホが震えた。何度か振動が手に伝わる。
何かが起動した。
何かをダウンロードしているのだろうか。円形のゲージが動きだした。
やがて、それは一周した。そして止まる。一瞬の間を置き、元の白い画面に戻った。
最初にあった黒いアイコンの形が変わっていた。色も。
オレンジ色の――炎、爆炎を意匠しているのだろうか。そう思われる形状となっていた。
「これは……」
一体何なのか? 尋ねる相手は目の前の女しかいなかったが、独り言のような疑問を口にしただけだった。視線は画面に置いたままだった。
「ど、どう、なっ、た」
相変わらず呼気で言葉を千切って話した。
「いや、これは? なんですか?」
「み、見せ、て」
僕はスマホを返した。
風に黒髪を弄ばれながら、女はスマホを手に取った。
深淵の闇を思わせる瞳が、スマホを見た。じっと見つめた。
「お、面白、い。力、だ」
「力?」
「お、前の望、む力が顕現した。具、現した。具象し、た。魔法と、して形、をなした。ああ、面白い。あ奴、らとも戦える」
魔法――?
戦う――?
またしても、意味が分からない。説明にもなっていない。言葉の意味を問う気にもならない。
もう立ち去るべきであろうか。思考がその方向に傾く。
踵を――。
「ま、ずは見せてや、るか」
僕は動かしかけた足を止めた。
女は言葉を続けた。僕の様子を見て、そう判断したのだろう。
一方の手を伸ばし、白い指で画面を数回タップした。
「後ろ、の木の枝、を見、て」
女の視線の先にある木。僕は振り返ってそれを見た。
桜の木だった。
「き、木の枝、を一本……爆、ぜさせ、よう」
無造作な言葉が風音に混ざる。
木の枝を爆ぜさせる? どういうこと――
一瞬の間――
炸裂音が僕の思考を中断させた。
生木がへし折れる音がそれに続き、大ぶりの枝が地に落ちた。
枝から伸びる毛細血管のような細い枝が落下のエネルギーを受け揺れていた。
「何が……爆発? これは?」
「ば、爆発さ、せたの、よ。このスマホ、のアプリ、でね」
ざらざらと鼓膜にヤスリをかけるような声音は不協和音のように響いた。
僕は現象を受け入れるか受け入れないかの判断もできず、ただ立ちすくんでいた。
少し冷静になり、目の前で起きたことに対する合理的な説明を頭の中でひねり出す。
手の込んだいたずらか?
youtubeの動画撮影かなにかではないか?
そんな考えも浮かぶが、確証はない。
ただ、事前に火薬を木の枝に仕込み、スマホの操作で爆発させることは可能だ。
協力者が他にいるのではないか。僕は周囲を見やった。
人はいなかった。
公園内にも道路にも変わらず人気が無い。
強かった風も時が止まったかのようにやんでいた。
僕と女のいる公園が現実から切り離された結界の中にあるようだった。
「次は、砂場」
女はスマホを操作した。スマホを砂場の方に向けた。
そして、爆発音とともに、砂が大量にまき散らされた。地雷の爆発を見るような光景だった。
「面白、いだろ、う? あ、あは、は、は、は」
恐怖すら感じるような美麗な顔には闇のような笑みが浮かんでいた。黒い笑みだ。
「スマホで爆発を?」
「そう、よ。お前の身の、内にある、欲望、希求、願望――そう、いったも、のを力にした。魔、法にし、た。破壊、が望み、か」
僕の身の内に破壊の願望は確かにあった。
確実にあった。
だが、僕の願望がこのように現実になる魔法として具現化するというのは、受け入れがたかった。
僕は次第に落ち着いてきた。
この女を最初に見たときのような、激しい鼓動音はいつの間にか平常のものとなっていた。
この不可解な現状、現象に対し平常心を取り戻しているのかもしれなかった。
「トリックかもしれない。火薬があれば、可能だ」
爆発という現象は現実的な方法で起こすことができる。
僕は現実で常識的な解釈で現象を塗りつぶしにいった。
「なる、ほど、疑う、か」
呼吸が苦しいのだろうか。言葉が隙間風のような呼気で途切れる。
肩が上下し、細身の体から緩やかに膨らむ胸も呼気に合わせ動いていた。
「魔法を持ち出さなくても、これはできる。あらかじめ火薬を仕込んで、騙す相手を待てばいい。何かの動画の撮影なのかい?」
平常心は取り戻していた。それでも毛先ほどの揺らぎ――現実が崩れるのではないかという気配はあった。
いや、僕はそのときそれを望んでいたのかもしれなかった。
望んでいたからこそ、本物であることを願ったからこそ、合理的な解釈の言葉を口にしていたのかもしれない。
この世界を破壊できるなら、僕は悪魔の靴の裏でも舐めただろう。本物の悪魔であれば。
女は全てを喪失したかのような虚ろなな双眸を僕に向けたまま静止した。
口角がゆっくり動き、笑みの形となる。怖気を震うような笑みだった。
唇が動く。血の色をした唇だ。
「に、匂、いはどう、だ?」
「匂い?」
「火、薬の匂い、だ」
確かにしない。火薬の匂いは微塵もしなかった。
「匂いのしない火薬があるのかもしれない」
「な、るほど――」
そんな物があるのかどうかは知らない。けれども、魔法の存在を受け入れるよりは現実的だった。
女が首の角度を大きくした。かくっと頭を横に落とした。肩の上に頭を乗せたようになった。
「ど、どうだ、好き、なところ、を爆発さ、せてみるか?」
足元が微かに揺らぐ。僕は本物と出会ったのかもしれないと一瞬思った。
バカな――という思いがそれを塗りつぶす。
「好きなところ?」
「ど、こで、もいい」
僕は女を見つめた。女は空虚で蠱惑的とさえ言える人外の表情を浮かべていた。
呼吸は相変わらず荒く、揺蕩ようにして辛うじてバランスをとって立っているようだった。
「どんなものでも?」
「ど、どんなもの、でも。お前の能力――望む力であれば、か、核爆発です、ら凌ぎ、かねない」
「核爆発?」
「爆竹、程度、の爆発もでき、る」
からかいを滲ませた声だった。
「じゃあ、あなたの頭を吹き飛ばしてほしい」
咄嗟に出た言葉だったが、僕自身、面白いと思った。
何かしらのトリックがあるのだろうと思った。
だからこの言葉は拒否を前提としたものであって、それが実行に移されるとは僕は微塵も思っていなかった。
女は笑った。これ以上ない愉悦を溢れさせる笑み。赤い唇が繊月の形を作った。血の色をした月だ。
「い、いねぇ。い、逸材、だ。私の頭か……。はは、い、いねぇ」
呼気で途切れる言葉とともに、女はスマホを操作した。自分にスマホを向けた。
周辺の空気が固形化したかのようだった。
爆ぜた。
目の前で女の頭が砕けた。
スイカ割のスイカのように。真っ赤な血と、透明な脳漿が飛散する。地べたににぶちまけられた。
頭部を失った頸動脈からは、噴水のような血があふれ出していた。
髪の毛のついた頭皮が、木の幹にへばりついていた。
頭を失った身体が、膝から崩れ落ちた。
頸部から流れる血は止まらない。肉と骨が見えた。断面から赤い奔流が作られた。
人の身体にこれほど血があるのかと思わせるほどに地面を赤黒く染めていく。
ヌルヌルとした血は酸素と反応し泡を作った。真っ赤な蛇を思わせる血の流れがいくつもできていた。
血か脳漿の一部が僕の頬まで飛んできていた。
生臭い匂いで鼻腔が染まっていく。
どこからか、笛のような音が聞こえた。
僕は胸に溜まっていた空気を細く長く吐き出していたのだ。
その音だと気づいた。
震えていた。恐怖ではない。
僕は歓喜に貫かれていたのかもしれなかった。
ことによっては絶頂に達していたのかもしれない。
僕が覚えているのはここまでだった。
ここから先、アパートに帰るまで記憶が欠落していた。切り取られたかのようにだ。
スマホを拾い、家に帰ったのだろう。スマホは僕の手中にあった。
スマホを見つめる。僅かな曇りすらない白い画面。本来のスマホにあるべき色々なアイコンがない。
あるのは、爆炎を意匠したオレンジのアイコンだけ。
白色の液晶の中、それだけがあった。
確信があった。
僕は、このスマホを手に入れたことで魔法使いになったのだ。
人を超える存在となった。世界を破壊できる存在となった。
それだけは確信していた。
神と言ってしまっても大外れではないだろう。
簡単に言ってしまえば人間を超える力を手に入れたということだ。
簡単すぎて、一体僕が何を言っているのか分からないかもしれない。経緯の説明はする。丁寧に。
僕に何が起きたかは単純で明解。
「奇蹟」を起こせる道具を手に入れた。外見はなんの変哲もないスマホだ。
手に入れたと言ったが、正確を期すなら、譲り受けたというのが正しいだろう。
「奇蹟」と言ってしまうと、宗教がかり、分かりにくいかもしれない。
ここは「魔法」と言い換えた方がいい。その方が通りがいいだろう。
とにかく理外の力であることは間違いない。
さて、人は「魔法」という言葉にどんなイメージを持つだろうか。
漫画、アニメ、ゲームに僕は興味がない。作りごと、嘘に興味が無い。徹底的にない。
それでも、そのようなフィクションの世界に登場する魔法使いという者に対するイメージはあった。
呪文を唱え超常的な現象を起こす存在。主に相手を攻撃する、破壊する効果を表す。
今風な解釈だ。ゲームによって作られたイメージと言ってもいいはずだ。
時代を遡れば違ってくるかもしれないが「魔法」についての現時点での共通認識はこうして欲しい。
つまりだ――。
僕が手に入れたスマホは魔法が使える。
魔法というしかない現象を起こすアプリが入っている。
スマホの妙に明るい白い液晶画面に映るアプリアイコン。こいつが不条理で超常的で非日常の力を発揮する。
地球上どこにでも、爆発を起こせるアプリだ。
爆発の規模はコントロールできる。試してはいないが最大で核爆弾級だ。最小なら爆竹程度。それでも人の脳の血管をぶち壊すには十分だ。
都市を地図の上から消去することも、特定個人の脳を破壊し殺すこともできる。
非常に愉快だ。
僕はまだアプリを使ったことはまだない。機能しているのを見たことはあるが。
使ってはない。まだ。
ただその力を得たというだけで、喜びが肉の底から湧いてくる。
僕が世界を破壊できるから。
破壊し、蹂躙し、灰燼と化す。
雑草すら生えない世界を作り出せる。現在の原罪のない清浄で正常な世界だ。
僕は思う。思うより自然だ。慣性のついた思考が脳の回廊を永久運動している。
思考の帰結は決まっていた。
スマホのアプリ――
つまり「魔法」でこの世界を破壊したい――
容赦なく徹底的な破壊を希求する。
それだけを僕は考えるようになっていた。
スマホを握る。素晴らしい歓喜が僕を包む。
歓喜はある種の情念へと変質し、深く沈殿する。
僕の身の内を黒く染めていく。蕩ける程に気持ちが良い。恍惚となるしかない。
◇◇◇◇◇◇
昨日は風が強かった。強風が吹き荒んでいたというのはあまりに散文的表現だろうか。
曇天を見上げれば雲が流されて行くのが分かる。低く垂れ込めた薄墨色の雲が。
冬の研ぎ澄まされた空気が肌を切り裂いていた。風は真正面から吹いていた。僕は身を縮めポケットに手をいれ歩いていたはずだ。
風は僕の陰鬱な気持ちを吹き飛ばすようなことはなかった。ただ顔が冷たくなる。心の温度も下がっていく。
「寒いな」
呟いてみたところで現状は変わらなかった。今の感覚を追認するだけの言葉。何の力もないのは明らかで、無駄以上に無益な言葉だ。
早くアパートに帰るのべきだった。誰もいない寒々とした空間ではあるが、強風の中を歩くよりマシだったはずだ。
なのに僕は意味もなく彷徨った。
しばらく行っていなかった大学に行った帰りだった。真っすぐ帰ることもできたのにそうしなかった。理由は特にない。
大学に行っても僕の居場所などないということを確認しただけだった。波長の合わない人間と一緒にいるよりがひとりの方が心地いい。
風音が強くなった。冷たい空気が耳朶を叩く。
欅の街路樹が風で枝を揺らしていた。
商店街と言うには閑散とした場所を僕は通った。
いつも人通りは少ないがこの日は本当に人気が無かった。
自販機が目に入る。温かい物を買おうかと一瞬思った。が、小銭を取り出すのが億劫なので止めた。
道の向かいに児童公園がある。道を横断して中に入った。
人はいなかった。土日の天気のいい日であれば近所の子どもや親子がいるのだろう。
風がブランコを揺らす。風音に軋んだ音が混ざり込んでいたのを覚えている。
妙に耳障りだったことも。
公園のベンチの下。そこに黒くうずくまっているモノがあった。一瞬、ゴミと思った。黒いポリ袋かなにか。風で表面が波打つ。
もぞりと、それが動いたように見えた。風のせいには見えなかった。それは内部から自重に逆らう動きだった。
「え……人か」
自分が口にした言葉に僕は固まる。
一度そう思うと人にしか見えなくなる。
公園のベンチの下に倒れている人。
十分に非日常の存在だった。
少なくとも僕にとっては。
色々な想像が頭を駆け巡り恐怖と好奇心のふたつの感情が生まれた。
両者が天秤に乗る。好奇心の方に少しだけ傾いた。
僕は一歩、二歩と足を進めた。足の動きが意識から解離しているようだった。
気づくと僕はかなり接近していた。顔が確認できた。鼓動が耳の奥で響く。
女だった。息を飲んだ。若い女だ。それも美しい。現実感を喪失するほどに。
女性の年齢を判別するのは苦手だったが、四〇歳を超えている様には見えない。
僕が見ることの多い、女子大生が幼く見えるほどには歳を重ねているだろう。
目をつぶっていた。口も閉じていた。
死体なのか意識を失っているだけなのか判然としない。
肌は白かったが、血の気を失っているような白さではなかった。
唇だけがやけに赤く見えた。血の色が透けているようだった。
僕はしばらくの間その女性を見つめていた。強い風が吹いた。髪と服が揺らぐ。
髪は肩よりやや長かった。漆黒という言葉が色あせるほどの黒髪。
髪だけではない。身に着けている物全てが黒かった。
更に僕は近づいた。
肌だけが白く、全身が黒い。身に纏った空気が黒い。
尋常な黒じゃなかった。
空間を抉ったような空虚な闇色を想起させた。形容し難い感情をかきたてる色だった。
僕は足を止めた。世界から切り離されたように、時間の経過を体感していなかった。風音よりも鼓動が響く。
女の目が開いた。唐突に。長いまつ毛が揺れる。
衝撃波のような鼓動が僕の胸を叩いた。
空間に暴露された女の眼球がぎゅるりと動いた。僕の姿を捉えたのだろう。泥沼のような眼差しが絡みつく。
体が凝固した。顔に比べ妙に大きな目が僕を見つめている。光を感じさせない|虚
《うつ》ろな穴のような瞳が舐めるように僕を見た。
一直線に結ばれた真っ赤な唇が動く。口角が釣り上がり笑みの形となった。心臓が不可視の手に掴まれたようだった。
「あ、あ奴、らで、はな、いか」
容貌からは想像できない泥濘をこねくり回したような声音だった。肌が粟立つ。
「わ、私もこ、こま、でか……でも、う、運、がいい」
声に呼吸音が混ざる。絡みつく呼気を千切って吐き出すような言葉。
日本語としての意味は分かる。が、何を言わんとしているのかは全く分からなかった。
ただ僕はその場にじっと立っていた。
逃げることはできた。そうするべきであったのかもしれない。
ずるりと女は地を這った。袖の上からでも分かる細い腕がぬるりと伸びた。
服の黒さとは対照的な白く艶めかしい肌が露わとなる。
両生類の腹部を思わせる白さだった。
墓穴から這いずり出たかのような動きで女はゆるゆると立ち上がった。
思いのほか背が高い。風に髪が巻き上げられた。
表情には笑みがへばりついていた。ここまで虚無を感じさせる笑みは見たことがなかった。
女は不意に僕に向けて手を伸ばした。
「手を、だ、出し、て」
心がささくれ立つような声。鼓動を遮り耳朶に直接届く。息が詰まる。肺の中の空気が液化したようだった。
「何を、一体」
やっと言葉が出た。口が乾き舌が重い。自分の声が擦過音のように感じた。
「魔法、使い、にして、あげ、る。お、前を」
ただでさえ揺らいでいた現状認識をさらに混乱させる言葉だった。
狂人の戯言のような申し出であったが、凄まじい吸引力があった。逆らい難い。
魔法使い?
言葉の意味は分かる。だが意図が分からない。そもそも、この女と会話をしていることが僕にとっては不条理であった。
やや首を傾げ女は僕を見つめている。僕は自然と見つめ返した。
美貌という表現すら生ぬるい容姿の持ち主だった。顔が整いすぎていて戦慄すら感じた。たまらず視線を外した。
「こ、こ、れを手に、取、って」
女の手には黒い何かが握られていた。
スマホだった。それを握って手を伸ばしていたのだ。
「ほら、手、に取、って」
磁力のある言葉だった。意識するより先に僕の腕は伸びていた。
暗晦を映し出したような色をしたスマホだった。手にした瞬間、一瞬モータ音のようなものがした。
長方形に切り取られた闇が純白の光彩に包まれる。
なんとも奇妙なスマホだった。
真っ白な画面に黒いダイヤ型のアイコンがあるだけだった。他には何もなかった。
スマホが震えた。何度か振動が手に伝わる。
何かが起動した。
何かをダウンロードしているのだろうか。円形のゲージが動きだした。
やがて、それは一周した。そして止まる。一瞬の間を置き、元の白い画面に戻った。
最初にあった黒いアイコンの形が変わっていた。色も。
オレンジ色の――炎、爆炎を意匠しているのだろうか。そう思われる形状となっていた。
「これは……」
一体何なのか? 尋ねる相手は目の前の女しかいなかったが、独り言のような疑問を口にしただけだった。視線は画面に置いたままだった。
「ど、どう、なっ、た」
相変わらず呼気で言葉を千切って話した。
「いや、これは? なんですか?」
「み、見せ、て」
僕はスマホを返した。
風に黒髪を弄ばれながら、女はスマホを手に取った。
深淵の闇を思わせる瞳が、スマホを見た。じっと見つめた。
「お、面白、い。力、だ」
「力?」
「お、前の望、む力が顕現した。具、現した。具象し、た。魔法と、して形、をなした。ああ、面白い。あ奴、らとも戦える」
魔法――?
戦う――?
またしても、意味が分からない。説明にもなっていない。言葉の意味を問う気にもならない。
もう立ち去るべきであろうか。思考がその方向に傾く。
踵を――。
「ま、ずは見せてや、るか」
僕は動かしかけた足を止めた。
女は言葉を続けた。僕の様子を見て、そう判断したのだろう。
一方の手を伸ばし、白い指で画面を数回タップした。
「後ろ、の木の枝、を見、て」
女の視線の先にある木。僕は振り返ってそれを見た。
桜の木だった。
「き、木の枝、を一本……爆、ぜさせ、よう」
無造作な言葉が風音に混ざる。
木の枝を爆ぜさせる? どういうこと――
一瞬の間――
炸裂音が僕の思考を中断させた。
生木がへし折れる音がそれに続き、大ぶりの枝が地に落ちた。
枝から伸びる毛細血管のような細い枝が落下のエネルギーを受け揺れていた。
「何が……爆発? これは?」
「ば、爆発さ、せたの、よ。このスマホ、のアプリ、でね」
ざらざらと鼓膜にヤスリをかけるような声音は不協和音のように響いた。
僕は現象を受け入れるか受け入れないかの判断もできず、ただ立ちすくんでいた。
少し冷静になり、目の前で起きたことに対する合理的な説明を頭の中でひねり出す。
手の込んだいたずらか?
youtubeの動画撮影かなにかではないか?
そんな考えも浮かぶが、確証はない。
ただ、事前に火薬を木の枝に仕込み、スマホの操作で爆発させることは可能だ。
協力者が他にいるのではないか。僕は周囲を見やった。
人はいなかった。
公園内にも道路にも変わらず人気が無い。
強かった風も時が止まったかのようにやんでいた。
僕と女のいる公園が現実から切り離された結界の中にあるようだった。
「次は、砂場」
女はスマホを操作した。スマホを砂場の方に向けた。
そして、爆発音とともに、砂が大量にまき散らされた。地雷の爆発を見るような光景だった。
「面白、いだろ、う? あ、あは、は、は、は」
恐怖すら感じるような美麗な顔には闇のような笑みが浮かんでいた。黒い笑みだ。
「スマホで爆発を?」
「そう、よ。お前の身の、内にある、欲望、希求、願望――そう、いったも、のを力にした。魔、法にし、た。破壊、が望み、か」
僕の身の内に破壊の願望は確かにあった。
確実にあった。
だが、僕の願望がこのように現実になる魔法として具現化するというのは、受け入れがたかった。
僕は次第に落ち着いてきた。
この女を最初に見たときのような、激しい鼓動音はいつの間にか平常のものとなっていた。
この不可解な現状、現象に対し平常心を取り戻しているのかもしれなかった。
「トリックかもしれない。火薬があれば、可能だ」
爆発という現象は現実的な方法で起こすことができる。
僕は現実で常識的な解釈で現象を塗りつぶしにいった。
「なる、ほど、疑う、か」
呼吸が苦しいのだろうか。言葉が隙間風のような呼気で途切れる。
肩が上下し、細身の体から緩やかに膨らむ胸も呼気に合わせ動いていた。
「魔法を持ち出さなくても、これはできる。あらかじめ火薬を仕込んで、騙す相手を待てばいい。何かの動画の撮影なのかい?」
平常心は取り戻していた。それでも毛先ほどの揺らぎ――現実が崩れるのではないかという気配はあった。
いや、僕はそのときそれを望んでいたのかもしれなかった。
望んでいたからこそ、本物であることを願ったからこそ、合理的な解釈の言葉を口にしていたのかもしれない。
この世界を破壊できるなら、僕は悪魔の靴の裏でも舐めただろう。本物の悪魔であれば。
女は全てを喪失したかのような虚ろなな双眸を僕に向けたまま静止した。
口角がゆっくり動き、笑みの形となる。怖気を震うような笑みだった。
唇が動く。血の色をした唇だ。
「に、匂、いはどう、だ?」
「匂い?」
「火、薬の匂い、だ」
確かにしない。火薬の匂いは微塵もしなかった。
「匂いのしない火薬があるのかもしれない」
「な、るほど――」
そんな物があるのかどうかは知らない。けれども、魔法の存在を受け入れるよりは現実的だった。
女が首の角度を大きくした。かくっと頭を横に落とした。肩の上に頭を乗せたようになった。
「ど、どうだ、好き、なところ、を爆発さ、せてみるか?」
足元が微かに揺らぐ。僕は本物と出会ったのかもしれないと一瞬思った。
バカな――という思いがそれを塗りつぶす。
「好きなところ?」
「ど、こで、もいい」
僕は女を見つめた。女は空虚で蠱惑的とさえ言える人外の表情を浮かべていた。
呼吸は相変わらず荒く、揺蕩ようにして辛うじてバランスをとって立っているようだった。
「どんなものでも?」
「ど、どんなもの、でも。お前の能力――望む力であれば、か、核爆発です、ら凌ぎ、かねない」
「核爆発?」
「爆竹、程度、の爆発もでき、る」
からかいを滲ませた声だった。
「じゃあ、あなたの頭を吹き飛ばしてほしい」
咄嗟に出た言葉だったが、僕自身、面白いと思った。
何かしらのトリックがあるのだろうと思った。
だからこの言葉は拒否を前提としたものであって、それが実行に移されるとは僕は微塵も思っていなかった。
女は笑った。これ以上ない愉悦を溢れさせる笑み。赤い唇が繊月の形を作った。血の色をした月だ。
「い、いねぇ。い、逸材、だ。私の頭か……。はは、い、いねぇ」
呼気で途切れる言葉とともに、女はスマホを操作した。自分にスマホを向けた。
周辺の空気が固形化したかのようだった。
爆ぜた。
目の前で女の頭が砕けた。
スイカ割のスイカのように。真っ赤な血と、透明な脳漿が飛散する。地べたににぶちまけられた。
頭部を失った頸動脈からは、噴水のような血があふれ出していた。
髪の毛のついた頭皮が、木の幹にへばりついていた。
頭を失った身体が、膝から崩れ落ちた。
頸部から流れる血は止まらない。肉と骨が見えた。断面から赤い奔流が作られた。
人の身体にこれほど血があるのかと思わせるほどに地面を赤黒く染めていく。
ヌルヌルとした血は酸素と反応し泡を作った。真っ赤な蛇を思わせる血の流れがいくつもできていた。
血か脳漿の一部が僕の頬まで飛んできていた。
生臭い匂いで鼻腔が染まっていく。
どこからか、笛のような音が聞こえた。
僕は胸に溜まっていた空気を細く長く吐き出していたのだ。
その音だと気づいた。
震えていた。恐怖ではない。
僕は歓喜に貫かれていたのかもしれなかった。
ことによっては絶頂に達していたのかもしれない。
僕が覚えているのはここまでだった。
ここから先、アパートに帰るまで記憶が欠落していた。切り取られたかのようにだ。
スマホを拾い、家に帰ったのだろう。スマホは僕の手中にあった。
スマホを見つめる。僅かな曇りすらない白い画面。本来のスマホにあるべき色々なアイコンがない。
あるのは、爆炎を意匠したオレンジのアイコンだけ。
白色の液晶の中、それだけがあった。
確信があった。
僕は、このスマホを手に入れたことで魔法使いになったのだ。
人を超える存在となった。世界を破壊できる存在となった。
それだけは確信していた。
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