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前編
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あるところに、不治の病に侵され、死期の迫った老人がいた。近親者全員に先立たれ、身寄りのない老人だった。長生きをするということは、大切な人の死を他人よりも多く経験するということでもあるのだ。
入院している老人の見舞いに来てくれるのは、幼馴染の一郎だけだった。
「俺はもうすぐ死ぬ」
カーテンの隙間から差し込む夕焼けの光に目を細めながら、老人はそう呟いた。
「知ってるよ」
一郎は穏やかな表情でそう言った。
「俺の葬儀、頼まれてくれるか。もうお前以外に頼れる奴はいないんだ」
「ああ。質素なものになるだろうが、それでもよければ……」
「それで構わない。俺の僅かばかりのお金はお前に遺すようにと遺言状を書いておいたから、葬儀の費用にはそれを使ってくれ」
「ああ」
「年をとれば死ぬのは怖くなくなると思っていたんだが、そうでもないな」
「分かるよ。俺もお前と同い年だからな」
「最近、子どもの頃のことをよく思い出すんだ」
「どんなことを」
「そう。例えば小学生の夏休みだ」
「夏休みか」
「ああ。あの頃は、学校に行かなくてもいいというだけで楽しかったよな。毎日が休日になった今では、なかなかその感覚を思い出すことはできないが……。朝、お母さんに起こされて兄貴と一緒にラジオ体操に行き、一郎達と遊んだ後、帰ってきてお母さんの作ってくれた朝ご飯を食べる。お父さんが仕事に行くのを見送り、犬の散歩に行った後、宿題をやったり皆と遊んだりして、お母さんの切ってくれた冷たいスイカを食べたり、昼寝をしたりして夕方まで過ごす。お父さんやお母さん、兄貴と一緒にテレビを観ながら夕飯を食べる。お風呂に入り、布団の中で本を読んだりゲームをしたりして過ごし、眠くなったら寝る。そして――そのまま死にたい。最近、そんなふうなことを考えるんだ」
「なるほどな……。気持ちは分からないでもないが」
「分かってる。無理な相談だ。過去に戻ることはできない。あの楽しい日常を取り戻すことはできない」
老人は自分の年老いた顔が映る窓を見ながら言った。
「いや、やろうと思えばできるぞ」
一郎の思いがけない言葉に、老人は振り返った。
「どうやって」
「催眠術を使うのさ。退行催眠というのをやってもらい、過去の記憶の中に戻るんだ」
「退行催眠……。なるほど、それなら過去を追体験することができるな。だが、そんなことをやってくれる人がいるものかどうか」
「いる。ちょっとしたコネがあってな。俺の知り合いのイレブン氏という催眠術師が、そういったことを得意としているんだ」
「あの有名な天才催眠術師と知り合いだったのか。もしよかったら、紹介してくれないか」
「ああ……。お前がそれを望むのなら、頼んでみよう。ただ、何しろイレブン氏は多忙な人だから、会う約束を取り付けられるかどうか分からないが。それにお金もかかる」
「お金か。いくらくらいかかるんだろうか」
「たぶん、お前が今持っているお金で何とかなるさ」
「じゃあ、頼んでみてくれ。俺の遺産を全部渡してもいい。お願いだ」
「ああ、分かった」
一郎は頷き、病室を出て行った。
それから数日後。薄暗い病室の戸が開き、一郎と、すらりとした長身の男が入ってきた。
「おい、起きてるか」
一郎の言葉に、老人はゆっくりと目を開いた。上半身を起こそうとし、もはや自分の力では起き上がることができないのを思い出した。
「ああ……。一郎か」
「しっかりしろ。イレブン氏を連れて来たぞ」
「お初にお目にかかります。何でも、子ども時代に戻りたいのだとか」
イレブン氏の問いに、老人は短く答える。
「はい」
「一郎さんによると小学生の夏休みくらいに戻りたいのだそうですが、本当に後悔しませんか」
「はい」
「それでは、今から催眠術をかけます。心の準備はいいですか」
「はい」
「それでは、気持ちを楽にしてください。このペンライトの動きに集中して……」
■
「まったく、いつまで寝てるんだい」
女の人の声で、老人は目を覚ました。不機嫌そうな顔をした女が老人を見下ろしていた。老人が二十六歳のときに亡くなった、老人の母親だ。亡くなったときに比べると白髪も皺も少ない。
お母さん!
そう叫ぼうとして、声が出ないことに気がついた。その代わりに、老人の――いや、少年の口が勝手に動いてこう言っていた。
「もう少し寝かせて……」
ああそうか、と老人は気付いた。ここは過去の世界なのだから、老人が勝手に行動することはできないのだ。老人が少年だった頃の出来事を見たり聞いたりすることしかできない。だが、それでも構わない、と思った。懐かしい世界に帰ってくることができただけで満足だった。
「馬鹿言ってんじゃないよ。ほら、ラジオ体操の時間だろ。早く起きて行ってきなさい」
母親は苛立たしげな声で言い、敷布団ごと持ち上げ、少年を畳の上に転がせた。少年は目をこすりながら立ち上がり、箪笥の中からボロボロの子供服を取り出して着替える。
その布団も畳も服も、それどころか家そのものが、老人になったときにはないものだった。老人は懐かしさでいっぱいになった。
「兄ちゃんは?」
「先に行ったよ。あんたも早く行きなさい」
「はい」
ラジオ体操のカードを手にして、欠伸混じりに行ってきますと言いながら玄関へ行く。サンダルをつっかけ、戸締りもせずに家を出た。
その途中、少年の視線は犬小屋へ向かった。空っぽの犬小屋に。小屋の中には餌入れが伏せて置かれている。数秒間それを眺めていた少年だったが、やがてそれから強引に目を逸らし、歩き始めた。少年が何を考えているのかは分からない。だが、老人は思い出した。
確かに老人は子どもの頃に犬を飼っていたことがあった。だが、成犬になる前に――夏休みが来る前に死んでしまったのだ。だが、どうして死んでしまったのかその理由を思い出すことはできなかった。
考え込む老人をよそに、少年は重い足取りで近所の公園へ向かっていた。既にラジオ体操のテーマ曲が流れている。もう始まっているのだ。公園の少し手前で立ち止まった少年は、突然、背後から蹴られ、地面に倒れた。
「てめえ、そんなとこにぼうっと突っ立ってんじゃねえよ」
振り返ると、一郎が立っていた。あいつにもこんなに小さかった頃があったのか――と懐かしむ前に、彼の台詞と苛立たしげな表情が気になった。
「あん? 何だよ、その目は。うぜえなあ!」
そう唸ると、一郎はさらに少年を蹴った。何度も何度も。
ああ、そうだ。どうして忘れていたのだろう。
老人は呆然としながら思い出した。
この頃の一郎は同年代の子どもの中では格段に身体が大きく、いつも苛々して、周囲に当たり散らしていたのだ。そして、そのストレス解消の相手として選ばれていたのは、幼少期の老人だった。もちろん、一郎がずっとこんな性格のままだったら、年をとったときにあんなに仲良くなっているはずがない。一郎とは、成人式で再会してから交流を深めたのだった。小学生の頃はお互いに相手を嫌な奴だとしか思っていなかった――いや、それどころか、少年は一郎に一方的にいじめられていたのだ。
「お前の顔なんか見飽きたなあ。もう死ねよ。自分で死ぬのが嫌なら殺してやろうか。お前があの薄汚ねえ犬っころを殺したみたいに」
思い出した。
あの子犬を殺したのは、自分だったのだ。雨の日の散歩中に、一郎とその手下たちに出くわしたのが災難だった。彼らに囃し立てられて、子犬を雨の日の川に流したのだ。そうしなければ、川に突き落とされていたのは自分の方だったかもしれない。
頭を庇いながら蹴られ続けていると、ラジオ体操をやっている公園の方から誰かが歩いてくるのが見えた。背格好を見る限りでは子どものようだった。まだラジオ体操は続いているのだが、早引けしてきたのだろうか。
一郎もそれに気付いたのか、蹴るのを中断した。
「あ……」
老人が60歳のときに亡くなった兄だった。母の死後、何かと気をかけてくれた優しい兄だ。兄貴ならきっと助けてくれる。そう信じることができたのは、一瞬だけだった。
(後編へ続く)
入院している老人の見舞いに来てくれるのは、幼馴染の一郎だけだった。
「俺はもうすぐ死ぬ」
カーテンの隙間から差し込む夕焼けの光に目を細めながら、老人はそう呟いた。
「知ってるよ」
一郎は穏やかな表情でそう言った。
「俺の葬儀、頼まれてくれるか。もうお前以外に頼れる奴はいないんだ」
「ああ。質素なものになるだろうが、それでもよければ……」
「それで構わない。俺の僅かばかりのお金はお前に遺すようにと遺言状を書いておいたから、葬儀の費用にはそれを使ってくれ」
「ああ」
「年をとれば死ぬのは怖くなくなると思っていたんだが、そうでもないな」
「分かるよ。俺もお前と同い年だからな」
「最近、子どもの頃のことをよく思い出すんだ」
「どんなことを」
「そう。例えば小学生の夏休みだ」
「夏休みか」
「ああ。あの頃は、学校に行かなくてもいいというだけで楽しかったよな。毎日が休日になった今では、なかなかその感覚を思い出すことはできないが……。朝、お母さんに起こされて兄貴と一緒にラジオ体操に行き、一郎達と遊んだ後、帰ってきてお母さんの作ってくれた朝ご飯を食べる。お父さんが仕事に行くのを見送り、犬の散歩に行った後、宿題をやったり皆と遊んだりして、お母さんの切ってくれた冷たいスイカを食べたり、昼寝をしたりして夕方まで過ごす。お父さんやお母さん、兄貴と一緒にテレビを観ながら夕飯を食べる。お風呂に入り、布団の中で本を読んだりゲームをしたりして過ごし、眠くなったら寝る。そして――そのまま死にたい。最近、そんなふうなことを考えるんだ」
「なるほどな……。気持ちは分からないでもないが」
「分かってる。無理な相談だ。過去に戻ることはできない。あの楽しい日常を取り戻すことはできない」
老人は自分の年老いた顔が映る窓を見ながら言った。
「いや、やろうと思えばできるぞ」
一郎の思いがけない言葉に、老人は振り返った。
「どうやって」
「催眠術を使うのさ。退行催眠というのをやってもらい、過去の記憶の中に戻るんだ」
「退行催眠……。なるほど、それなら過去を追体験することができるな。だが、そんなことをやってくれる人がいるものかどうか」
「いる。ちょっとしたコネがあってな。俺の知り合いのイレブン氏という催眠術師が、そういったことを得意としているんだ」
「あの有名な天才催眠術師と知り合いだったのか。もしよかったら、紹介してくれないか」
「ああ……。お前がそれを望むのなら、頼んでみよう。ただ、何しろイレブン氏は多忙な人だから、会う約束を取り付けられるかどうか分からないが。それにお金もかかる」
「お金か。いくらくらいかかるんだろうか」
「たぶん、お前が今持っているお金で何とかなるさ」
「じゃあ、頼んでみてくれ。俺の遺産を全部渡してもいい。お願いだ」
「ああ、分かった」
一郎は頷き、病室を出て行った。
それから数日後。薄暗い病室の戸が開き、一郎と、すらりとした長身の男が入ってきた。
「おい、起きてるか」
一郎の言葉に、老人はゆっくりと目を開いた。上半身を起こそうとし、もはや自分の力では起き上がることができないのを思い出した。
「ああ……。一郎か」
「しっかりしろ。イレブン氏を連れて来たぞ」
「お初にお目にかかります。何でも、子ども時代に戻りたいのだとか」
イレブン氏の問いに、老人は短く答える。
「はい」
「一郎さんによると小学生の夏休みくらいに戻りたいのだそうですが、本当に後悔しませんか」
「はい」
「それでは、今から催眠術をかけます。心の準備はいいですか」
「はい」
「それでは、気持ちを楽にしてください。このペンライトの動きに集中して……」
■
「まったく、いつまで寝てるんだい」
女の人の声で、老人は目を覚ました。不機嫌そうな顔をした女が老人を見下ろしていた。老人が二十六歳のときに亡くなった、老人の母親だ。亡くなったときに比べると白髪も皺も少ない。
お母さん!
そう叫ぼうとして、声が出ないことに気がついた。その代わりに、老人の――いや、少年の口が勝手に動いてこう言っていた。
「もう少し寝かせて……」
ああそうか、と老人は気付いた。ここは過去の世界なのだから、老人が勝手に行動することはできないのだ。老人が少年だった頃の出来事を見たり聞いたりすることしかできない。だが、それでも構わない、と思った。懐かしい世界に帰ってくることができただけで満足だった。
「馬鹿言ってんじゃないよ。ほら、ラジオ体操の時間だろ。早く起きて行ってきなさい」
母親は苛立たしげな声で言い、敷布団ごと持ち上げ、少年を畳の上に転がせた。少年は目をこすりながら立ち上がり、箪笥の中からボロボロの子供服を取り出して着替える。
その布団も畳も服も、それどころか家そのものが、老人になったときにはないものだった。老人は懐かしさでいっぱいになった。
「兄ちゃんは?」
「先に行ったよ。あんたも早く行きなさい」
「はい」
ラジオ体操のカードを手にして、欠伸混じりに行ってきますと言いながら玄関へ行く。サンダルをつっかけ、戸締りもせずに家を出た。
その途中、少年の視線は犬小屋へ向かった。空っぽの犬小屋に。小屋の中には餌入れが伏せて置かれている。数秒間それを眺めていた少年だったが、やがてそれから強引に目を逸らし、歩き始めた。少年が何を考えているのかは分からない。だが、老人は思い出した。
確かに老人は子どもの頃に犬を飼っていたことがあった。だが、成犬になる前に――夏休みが来る前に死んでしまったのだ。だが、どうして死んでしまったのかその理由を思い出すことはできなかった。
考え込む老人をよそに、少年は重い足取りで近所の公園へ向かっていた。既にラジオ体操のテーマ曲が流れている。もう始まっているのだ。公園の少し手前で立ち止まった少年は、突然、背後から蹴られ、地面に倒れた。
「てめえ、そんなとこにぼうっと突っ立ってんじゃねえよ」
振り返ると、一郎が立っていた。あいつにもこんなに小さかった頃があったのか――と懐かしむ前に、彼の台詞と苛立たしげな表情が気になった。
「あん? 何だよ、その目は。うぜえなあ!」
そう唸ると、一郎はさらに少年を蹴った。何度も何度も。
ああ、そうだ。どうして忘れていたのだろう。
老人は呆然としながら思い出した。
この頃の一郎は同年代の子どもの中では格段に身体が大きく、いつも苛々して、周囲に当たり散らしていたのだ。そして、そのストレス解消の相手として選ばれていたのは、幼少期の老人だった。もちろん、一郎がずっとこんな性格のままだったら、年をとったときにあんなに仲良くなっているはずがない。一郎とは、成人式で再会してから交流を深めたのだった。小学生の頃はお互いに相手を嫌な奴だとしか思っていなかった――いや、それどころか、少年は一郎に一方的にいじめられていたのだ。
「お前の顔なんか見飽きたなあ。もう死ねよ。自分で死ぬのが嫌なら殺してやろうか。お前があの薄汚ねえ犬っころを殺したみたいに」
思い出した。
あの子犬を殺したのは、自分だったのだ。雨の日の散歩中に、一郎とその手下たちに出くわしたのが災難だった。彼らに囃し立てられて、子犬を雨の日の川に流したのだ。そうしなければ、川に突き落とされていたのは自分の方だったかもしれない。
頭を庇いながら蹴られ続けていると、ラジオ体操をやっている公園の方から誰かが歩いてくるのが見えた。背格好を見る限りでは子どものようだった。まだラジオ体操は続いているのだが、早引けしてきたのだろうか。
一郎もそれに気付いたのか、蹴るのを中断した。
「あ……」
老人が60歳のときに亡くなった兄だった。母の死後、何かと気をかけてくれた優しい兄だ。兄貴ならきっと助けてくれる。そう信じることができたのは、一瞬だけだった。
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