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【2】
財布の中にいつも入れっ放しにしていた写真があった。
その写真は色褪せ、すり切れ、もうすっかり元の輝きを失ってしまっていた。しかし、それでも僕はその写真をなかなか手放すことができなかった。なぜなら、その写真には朝日奈明日奈さんが写っていたからだ。いつも財布の中に入れていたその写真を除くと、僕が持っている朝日奈さんの写真は卒業アルバムに載っている写真だけになってしまう。だから僕は、かつては朝日奈さんの笑顔が写っており、今となっては人を写したものなのか風景を写したものなのかも分からなくなってしまったその写真を、未練がましく捨てることができなかった。
こんなことなら、複写するなり、ちゃんとしたアルバムの中に大事に保存するなりすればよかったとも思う。しかし、それは写真がボロボロになってしまった今だから言えることだ。僕は財布の中に朝日奈さんの写真を入れ、それを持ち歩くことで、いつも彼女と一緒にいるような気分に浸ることができていたのだ。だから、写真を財布の中に入れていたこと自体はあまり後悔していなかった。
原型を留めていなくても、財布の中にその写真が入っているだけで僕は満足だった。
しかし、ある日、僕はあっさりとその写真を失うことになってしまった。
何のことはない。財布を落としてしまったのだ。
財布を落としたのは、おそらく電車の中だった。
電車を降りて、近くにあった自動販売機でお茶を買おうとしたところでそのことに気が付いた。振り返ると、ちょうど先ほどまで僕が乗っていた電車が発車するところだった。
僕は財布を取り戻すために、駅員を探して周囲を見回した。しかし、小さな駅だったので駅員は見当たらなかった。
仕方なく、僕は改札へ向かうために階段を上がった。
その日は、霙が降っていた。だから階段は乗客の傘についていた水滴や溶けかけの霙で濡れており、僕は何度も滑って転びそうになった。
ようやく改札に辿り着き、そこにいた30歳代半ばくらいに見える女性の駅員に、僕は財布を落としてしまったことを告げた。色は黒で、2つ折りの、どこにでも売っているような外観の財布だと教える。氏名を聞かれたので、僕は素直に山上正道という名前を答えた。免許証や健康保険証も入っているのですぐに分かることも伝える。
その駅員は、本部に問い合わせてくれた。しばらくして、折り返しの電話があり、何個か先の駅で、僕が乗っていた車両の中を、その駅の駅員に調べてもらったと教えられた。しかし、財布は見つからなかったのだという。
駅員は、財布が見つかったら連絡すると言い、1枚の紙とボールペンを僕に差し出した。
僕はその遺失物届に自分の氏名と住所と電話番号を記入した。財布の特徴を記入する段階になって、僕は迷った。写真のことを書くべきか、書かざるべきか。迷ったのは一瞬だった。僕は堂々と、女性の写った写真が入っていると書いた。
財布を開いた人は、そのボロボロの紙切れの正体が写真だと気付かないかもしれないが、それでもいいと思った。
僕は、2万円ばかしの現金や、免許証や健康保険証や、銀行のキャッシュカードや、行きつけのお店の会員カードなどは戻って来なくても構わないから、あの写真だけは戻ってきて欲しいと思っていた。この遺失物届の遺失物の特徴の欄に写真のことを書かなければ、財布は見つかっても写真が戻ってこないような、そんな気分になっていたのだ。
しかし、結局、いつまで経っても財布が見つかったという知らせは来なかった。心無い人が財布を持ち逃げしてしまったのだろう。
僕は2度と、あの写真を取り戻すことができなかった。
財布の中にいつも入れっ放しにしていた写真があった。
その写真は色褪せ、すり切れ、もうすっかり元の輝きを失ってしまっていた。しかし、それでも僕はその写真をなかなか手放すことができなかった。なぜなら、その写真には朝日奈明日奈さんが写っていたからだ。いつも財布の中に入れていたその写真を除くと、僕が持っている朝日奈さんの写真は卒業アルバムに載っている写真だけになってしまう。だから僕は、かつては朝日奈さんの笑顔が写っており、今となっては人を写したものなのか風景を写したものなのかも分からなくなってしまったその写真を、未練がましく捨てることができなかった。
こんなことなら、複写するなり、ちゃんとしたアルバムの中に大事に保存するなりすればよかったとも思う。しかし、それは写真がボロボロになってしまった今だから言えることだ。僕は財布の中に朝日奈さんの写真を入れ、それを持ち歩くことで、いつも彼女と一緒にいるような気分に浸ることができていたのだ。だから、写真を財布の中に入れていたこと自体はあまり後悔していなかった。
原型を留めていなくても、財布の中にその写真が入っているだけで僕は満足だった。
しかし、ある日、僕はあっさりとその写真を失うことになってしまった。
何のことはない。財布を落としてしまったのだ。
財布を落としたのは、おそらく電車の中だった。
電車を降りて、近くにあった自動販売機でお茶を買おうとしたところでそのことに気が付いた。振り返ると、ちょうど先ほどまで僕が乗っていた電車が発車するところだった。
僕は財布を取り戻すために、駅員を探して周囲を見回した。しかし、小さな駅だったので駅員は見当たらなかった。
仕方なく、僕は改札へ向かうために階段を上がった。
その日は、霙が降っていた。だから階段は乗客の傘についていた水滴や溶けかけの霙で濡れており、僕は何度も滑って転びそうになった。
ようやく改札に辿り着き、そこにいた30歳代半ばくらいに見える女性の駅員に、僕は財布を落としてしまったことを告げた。色は黒で、2つ折りの、どこにでも売っているような外観の財布だと教える。氏名を聞かれたので、僕は素直に山上正道という名前を答えた。免許証や健康保険証も入っているのですぐに分かることも伝える。
その駅員は、本部に問い合わせてくれた。しばらくして、折り返しの電話があり、何個か先の駅で、僕が乗っていた車両の中を、その駅の駅員に調べてもらったと教えられた。しかし、財布は見つからなかったのだという。
駅員は、財布が見つかったら連絡すると言い、1枚の紙とボールペンを僕に差し出した。
僕はその遺失物届に自分の氏名と住所と電話番号を記入した。財布の特徴を記入する段階になって、僕は迷った。写真のことを書くべきか、書かざるべきか。迷ったのは一瞬だった。僕は堂々と、女性の写った写真が入っていると書いた。
財布を開いた人は、そのボロボロの紙切れの正体が写真だと気付かないかもしれないが、それでもいいと思った。
僕は、2万円ばかしの現金や、免許証や健康保険証や、銀行のキャッシュカードや、行きつけのお店の会員カードなどは戻って来なくても構わないから、あの写真だけは戻ってきて欲しいと思っていた。この遺失物届の遺失物の特徴の欄に写真のことを書かなければ、財布は見つかっても写真が戻ってこないような、そんな気分になっていたのだ。
しかし、結局、いつまで経っても財布が見つかったという知らせは来なかった。心無い人が財布を持ち逃げしてしまったのだろう。
僕は2度と、あの写真を取り戻すことができなかった。
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