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平穏。普通に生活して、生きている人間であれば、当然のように享受しているソレ。しかし、それはいつでも目の前にあるのが当たり前ではない。ふとした瞬間に突然壊されるものだ。何者かの手によって、強制的に。
クロエはそれを今、痛いほどに実感していた――。

「クロエさん。貴女、好意を寄せている人がいるでしょう」
「な、んでそれを……?」

クロエが正に今現在片思い中の相手であるこのシュヴァルツェフィールド王国黒騎士団団長・リオン=イッシュベルクの執務室に呼び出され、きちんと手入れされているのであろう、座り心地が良い黒い革張りのソファに座る。そして出された良い香りの紅茶に手を付け、気分を落ち着けようとした直後に言われたのがこの言葉だった。

急に予想外――しかしながら否定のできない図星な感情、それを好意を寄せている相手本人に言われて、指で軽くつまんでいたティーカップを落とさなかっただけ褒められても良いとすら思う。誰だって、好きな人に対する秘めたる思いを、紛れもない好きな人自身に指摘されたら、驚かないはずがない。
リオンはどこか苛立ったように、その一見厳つい印象のつり目がちの目を更につり上げ、言葉を紡ぎ続ける。

「僕の情報収集能力を侮らないで頂きたいですね。そんな些末な情報、この僕が知らないはずないでしょう」
「些末な、情報」

些末な情報。その言葉に軽く傷ついた自分がいた。私の感情は、些末なんて言葉で表されるものだったのか、と。

「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」

クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。

この国の中枢、しかも全ての情報が集まる場所と言われるイッシュベルク公爵家の出の彼の情報収集能力は確かだ。そんなことは今まで何度も体験して知っている。だからこれは確実に自分にクロエの事を言っているのだろう。いつ?どのタイミングでバレてしまったのだろう。墓の中にまで持って行こうと思っていたこの感情、永遠に伝えるつもりなどなかった。だって、自分と彼がつり合わない事など、指摘される前から知っている。

何を隠そうクロエには血筋や家柄はおろか、というものがない。幼い頃、リオンの前に黒騎士団の団長を務めていた男によって、拾われたのだ。何故そこにいたかの記憶すらもない戦禍の跡が色濃く残る家の焼け跡で、慈悲を与えられ、助けられた。そして、今に至る。
彼を尊敬し、憧れて、騎士になって、努力に努力を重ねることで今の聖騎士団団長という立場を手に入れた。しかしどんなに血の滲むような努力をしても手に入れられないものがある。それが地位や身分といったものである。
きっと好きになった相手が自分と同じ階級であったならば、迷うことなく、恋に溺れることが出来ただろう。だが、相手はリオンだ。イッシュベルク公爵家嫡男にして、シュヴァルツェフィールド王国の黒騎士団団長。まさに地位も権力も実力も全てを持っている人間である。自分とはまさに真逆。何もかもが釣り合わない。だから自分は彼には相応しくないのだ。


そう、その事実は深く自分に刻み込まれていたはずなのに、追い打ちのように掛けられた彼の『想い人がいる』という言葉に物凄く傷ついている自分がいた。上手く息が出来ない。心臓を鷲掴みにされた様に血の流れが塞がれたようだった。心拍数が嫌な意味で高くなっていく。
肺に血液が行き渡らない。口から炎でも吸っているのではないか、と思う程に呼吸が痛くて仕方がなかった。

想い人が羨ましい。きっとその人はクロエにはないものを全て持っている人なのだろう。彼に見合う何もかもをを。
それに比べて、片思いすら認めてもらえない自分の感情はなんなのだろう。頭の中で後悔と悲しみが一瞬のうちに駆け巡った。比較すればするほどに、ただひたすら惨めだった。

ここから誤魔化して『貴方に対してそんな気持ち抱いていないけど?』なんて言う勇気はクロエにはない。
だって彼がこんな堂々とした態度で自分を呼び出して、ここでそれを話すという事はもうそれは否定のしようがない事実として彼が確信している証拠――感情など既に見透かされているのだ。逃げられない……そんな絶望的な気分に陥る。だから彼女は一呼吸おいて、自棄を起こした。

「クロエさん、聞いているのですか?」
「っええ、聞いているわ。確かに、その感情について私は否定できないし、今となっては否定するつもりはない。でも私は感情の見返りなんて求めるつもりはないの、ただ近くにいられるだけで、それだけで私は――」
「……くだらないですね。見返りがないと分かっているのであれば、尚更持っているだけ意味がないでしょう。そんな気持ちモノ

貴方の近くにいられるだけで私は幸せだった。受け入れなくていい。相思相愛になりたいだなんて夢は既に捨てている。感情を表に出して、これ以上の迷惑もかけない。だから――せめて、この気持ちを、貴方と共に過ごしたことで芽生えた私の気持ちを、私を変えてくれたこの感情を、貴方だけは否定しないで。泣きそうになりながらも、半分叫びながらそう、言葉にしようとしたのにそれはいとも簡単に遮られる。
そうして刺されたのが、意味がないという鋭い刃。グサリ、とトドメのように何かが心臓に食い込んだような感覚に襲われた。

だって、意味がないなんてそんな言葉……いくらなんでも酷すぎる。ひた隠しにしてきたはずの片思いの気持ちすらも、彼は許してくれないというのか。

「貴女、顔色が土のようだ。もしかして体調が――」
「触らないで!」

リオンがクロエの体調を見るために、顔を上げさせようと伸ばしてきた手を振り払う。クロエの気持ちをバッサリと切り捨てて、諦めろなんていうくせに、彼は平然と触れようとしてくる。それが嫌で嫌で仕方がなかった。まだ心配する素振りを見せる彼の優しさを好きだと思う自分が嫌だ。彼にまだ触れられたいと思っている自分が気持ち悪くて嫌だ。でも一番嫌なのは、こんな言葉を掛けられても、これ以上は何も言い返すことが出来ない弱い自分だった。

その後もリオンは何かを言っていたような気がするが、クロエの脳が言葉を理解することを拒否してしまっていた。もう心がボロボロだったのだ。

最終的に拾えたのは『まあ、いいです。とにかくこれで分かったでしょう?貴女の恋は絶対に叶わない。だからさっさと諦めなさい』と子供に言い聞かせるように優しく、さも良い忠告をしましたという様な清々しい笑顔の彼から発されたその言葉だった。

こんな酷いことを満面の笑みで言うなんて嫌な男だと思う。なんでこんな男を好きになったのだと自分でも分からなくなる。けれど、好きなのだ……好きだったのだ。

「だから――」

『迷惑な気持ち』を持っている自分がリオンの目の前にいるという事実が悲しく、なによりも恥ずかしい。今にも泣き出しそうな自分が情けなくて仕方がなかった。
彼が更に何かを言おうとしていた言葉すら聞きたくない。一瞬でも早く彼のいる所から逃げ出したくて、消えたくて――いなくなってしまいたかった。

だからクロエはその場から逃げた。
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