魔女の巣から

栢野すばる

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家出:1

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「お前には私の後継は務まらないだろう、だってさ! 親父の言うとおりだね、俺は一族のゴミ確定だわ」

 俺は、鏡を見ながらそうつぶやいた。
 本当に、親父に似すぎていて死にたくなる。チャームポイントだった俺の可愛いほっぺの肉はすべて削げ落ち、ますますあのサディスト親父にそっくりになって来たので二重の意味で死にたい。
 大吐血直後に親父に解雇されて1か月……固形物が食えるようになって半月。
 二十九歳の誕生日は、病院のベッドで輸血されながら迎える羽目になった。
 ダウンロードしたエロ漫画の課金額は10万を超え、電子書籍ショップからの特別セールのメールが受信履歴を埋め尽している。いい歳して俺は何をしているんだろう。
 自分なりの努力の結果は、何も残らなかった。父と共に働いて分かったのは、自分が無能である、というゆるがぬ事実だけだ。
 そのことから自暴自棄になり、俺の身を案じるおじいさまの止めるのも聞かず、病後の身体にムチ打って家を出て、こうして独り暮らしを始めたのだが。
 
「うん、いい家なんじゃないすかね! 結界もばっちり張れました。体調良くなったら自分でキープしてくださいね」
「ありがと、センセ」

 従兄の総一郎の腹心にして筆頭狩人の五堂センセーが、にっこり笑って愛想よく言った。

「でも四十平米かぁ。澤菱本家の御曹司の初めての一人暮らしが、1LDKなんて不便すぎて困るんじゃないですか」
「俺はどっかの総ちゃんとちがうから」

 そう答え、引っ越し楽々サービスで梱包を解いてもらった部屋の中を見回す。
 体力がなさ過ぎてまともに動けず、自分で荷解きすらできなかったのだ。必要な金は、全部、無尽蔵のお財布を持つお父様に出していただいた。不倫をする余裕があるのだから、息子の放蕩に出す金くらい余裕でお持ちのことだろう。
 
「俺にはこれでも過ぎた家だよ、無職が無料で家に住めるだけありがたいよね」
「またそんなこと仰って。こちらは、お母様の所有してた物件でしたっけ」
 
 五堂センセーがそういって、床に敷いたラグにコロコロした粘着テープを丁寧に掛けてくれる。
 引越しをしたと連絡したら『二枚あってつわかないから』と言って、このラグを持ってきてくれたのだ。
 まあ、実際の所、ラグは口実で俺を心配してくれたんだろう。けれど微妙にその気遣いがムカつくのだ、卑屈の底に沈んでいる精神状態だけに……。
 
「うん、俺の母親が、いろんな男引きずり込んで、やりまくっていらっしゃったお部屋」

 五堂センセーが、俺の暴言に対して何と答えたものか、と言わんばかりの表情で笑った。

「はは」
「ルームクリーニングの一番高いコースで掃除したから、陰毛の一本も落ちてないと思うよ!ちなみにそれも親父の金ね!」
「割と身もふたもないこと仰いますね、チカ様」
「は? だってここババアのヤリ部屋だよ? 陰毛落ちまくりじゃね?」
「うめぇぇうぅぅ……」

 床を這いまわっていたセンセーの娘……本当は俺の『妹』に当たる赤ん坊が、顔を上げて自分を睨み、ウニャウニャした声で叫んだ。最近子どもの相手などした記憶がないので、この赤ん坊が何を言わんとしているのかピンと来ない。
 
「はいはい友香ちゃん、お兄さんはお下品ですねぇ」

 センセーが相好を崩して赤ん坊――自分の娘として育てている『友香』の前に屈みこみ、話しかける。
 
「めぇぇぅ……パッパゥゥ」
「ね、言霊はだいじですよねー。友香ちゃんは、とってもお利口さんですねー」
「けぅぅ!まんまぅぅ」
 
 赤ん坊が立ち上がり、俺の『骨プラスアルファ』程度の太さしかない脚にしがみついた。甘えるように自分の拳を吸い、じっと俺を見上げ、何かを訴えているようすなのがわかる。

「なんだよ……」
「まんまぅぅ」
「うーん。五堂センセー、この子腹減ってんじゃねぇの。指吸ってるし」
「甘えてるんでしょ。ちょっと抱っこしてみます?」

 五堂先生が笑顔でいい、床でもぞもぞしている小さな体を抱き上げて、俺に押し付けてくる。あんまり触りたくはないが、一応愛想笑いを浮かべ、膝の上に乗せてみた。

「にゃぅぅ」
 
 友香の大きなガラス玉のような眼に、痩せこけた俺が映っている。彼女の丸い小さな顔は、母親の聡子に生き写しだ。自分の父親に似ている部分は外見上は見あたらず、心の底でホッとした。

「何で連れてきたの、おれの『義妹』なんか」
「いや、チカ様にお見せしたいって言うかね。休日は嫁も自由時間がほしいだろうし、俺も娘を構いたいですしね」

 澤菱家の当主である『澤菱寛明』の不義の娘を母親ごと引き取った『五堂センセー』は、穏やかな表情で俺の手から友香を抱き取った。
 友香も腕を伸ばしてニッコリ笑い、丸々した顔をセンセーの顔に押し付ける。

「パッパぅぅ!」
 
 まだ一歳ちょっとの友香は、何の疑問もなく五堂センセーを父だと思い、甘えているようだ


「そういや、聡子は何をしてるの」
「えっ?! あっ」

 五堂先生がぼりぼり、と頬のあたりをかいて、何故か気まずげにつぶやいた。

「あー、えー、なんていうか……芸術?」
「は? 芸術?」
「えっ……と……芸術……に……貢献……?」

 五堂センセーが見る見るうちに青くなりながら、それだけを呟いた。
 いったい何だというのだろう。聡子は今や医師であるセンセーの奥様だし、そもそもからして名家のご令嬢だ。芸術関連のボランティアにかかわっていても違和感はないように思えるのだが。
 
「ま、聡子が平和にやってるならいいや。俺らには顔合わせる資格もないから」
「そんな事はありませんよ。過去のあれこれは、チカ様のせいではありませんし」
「……センセーはさ、何で俺とか親父を嫌わないの」

 心の傷をえぐりつつ、無表情を保ってそう尋ねた。
 センセーの愛する妻、聡子を踏みにじったのは自分たち親子だ。言い訳のしようなどない。
 彼女に『魔王』の霊を憑依させた父。それから、若い娘の精神を持つ魔王を屈服させるため、日々『魔王の心と聡子の身体』を犯していた自分。
 彼は自分たち父子に復讐しようとは思わないのだろうか……。

「え? 何故ですか、チカ様」
「だってあんたの嫁さんを踏みにじったのは俺らだよ、今日もその絨毯にかこつけて、俺の首でも締めに来たのかと思ったんだけど」
「ああ、そのこと」

 何でもない事のようにセンセーが笑い、赤ちゃん用のせんべいの袋を開け、じゃれつく友香の手に握らせた。
 
「あのね、前にも言いましたけど、魔王様に人間が勝てなくても仕方ないですよ。ねー、友香ちゃーん」
「……ふん」

 その答えに動揺し、慌てて目をそらす。
 いつも痛いか気持ち悪いかのどちらかの胃が、キリキリと痛んだ。
 
 ――この体がわたしのものならよかったのに。そうしたらヒロ君だって私のものになるのに!
 泣き叫ぶ『魔王』の幻の声が耳を掠め、そして消えた。
 無意識に腕を上げ、耳を押さえて、そっと離す。『魔王』の声が俺に届くはずはない。彼女は浄化され、霧散して、永劫のかなたに消えたのに……。
 
「まんまぅぅ……! パッパうぅ、パッパ!」
「はいはい」

 センセーが目を細め、機嫌よく何かを叫ぶ友香にもう一枚せんべいを握らせる。
 俺が幼かったころの父もこんな風に優しかった気がする。そう思うと、わずかに胸の底が軋んだ。
 
「センセーってさぁ、変わってるよね」
「チカ様もですよ。チカ様、不適切な漫画をダウンロードしすぎじゃないですか。お父様に見つかったんでしょう。お怒りでしたよ」
「うん、見つかった! めっちゃ怒ってた!」
「めぅぅ……!」

 俺のダウンロードしたエロ漫画群を見てマジ泣きしていた父の顔を思い出し、ついついどす黒い笑いがこみ上げる。三十年もの間大事に育てた息子がただの屑に仕上がって、父は心の底から悔しかったのだろう。

「不倫親父に屑息子。因果は巡るってこの事だね」

 床に座り込み、ベタベタの手をした友香に抱き付かれながら部屋中を見回す。
 
「はぁ、なんか部屋の中が生臭い感じしない? 陰気くさいって言うかさ」
「そうですか?」
「元ヤリ部屋だからかな。ラブホみたいな湿っぽさを感じるんだけど」
「こらこら、チカ様、言霊ですよ、言霊」
「うめぇぅぅ」

 せんべいカスのついたちっちゃい手を、友香が俺のパーカーに思いきりなすりつけた。握りしめたせんべいが溶けて貼りつき、気持ちが悪いのだろう。

「こらこら、友香ちゃんダーメ」
「あんまぱっぱうぅ」
「ああ、ちょっと汚れちゃいましたね。ごめんなさいね、チカ様」
「いいよ」

 苦笑して、チリ紙で食べかすを拭きとった。

「俺、汚れとか気にしないし」

 ごろりと床に転がり、そう答えた。天井は真っ白だが、どこか煤けたように見える。
 母親の使っていた不倫部屋にわざわざ住んでみるなんて、俺はどれだけ露悪趣味なのだろう。
 何人の男が、この部屋で心飢えた魔女に貪り食われ、捨てられたのか……。
 ああ、ここは魔女にさえうち捨てられた巣。腐りきった俺、『澤菱寛親』の巣立ちに相応しい巣だ、そう思った。
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