甘い幻親痛

相間つくし

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4 水溶性

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 仕事が終わり、ひと段落してから携帯電話を確認すると、カレンダーの機能が高校のクラス同窓会はもう明後日まで迫っていることを知らせてくれていた。わたしは自分の方向音痴具合にかなりの自信を持っているので、今日は帰り道に場所の下見でもしようと決めた。
事前に場所を確認しておかなければ、迷ってしまって遅れる可能性が高い。堅苦しい会ではないのだから別に遅れても問題はないのだけれど、遅れると目立ってしまうのが嫌だ。人数次第では遅れたほうが喧騒に紛れて目立たないかもしれないけれど、社会人になってみんな働く場所もバラバラなわけだから、クラスの半分も出席しないだろう。そうなると、遅れて参加してしまうということは、少ない人数で飲んでいるところに遅れて来て注目を浴びることになるということだ。それは避けたい。いくらわたしにストレス耐性が付いて丸くなったとはいえ、注目を浴びることが苦でなくなったわけではなく、ましてやわたしは高校時代に振る舞ってきた可愛げのない言動の数々を自覚しているから、わたしが出席していることを変に目立たせて皆に知らせるようなことはしたくなかった。
 そういうわけで下見をするためにメールを開く。内山くんが送ってきてくれた店の名前をインターネットで検索し、マップを開く。便利な世の中になったものだ、と二十代の若者らしからぬ呟きを脳内でこぼしながら、予約されているらしい居酒屋へ向かった。四苦八苦しながら地図を読み、二十分ほどで店を見つけることができたが、二十分かけて見つけた居酒屋はわたしの家から徒歩十分ほどの距離だった。家の近くでさえこうだ。下見をしておいてよかったと自分を褒める。そもそも、前もって対策をするという行為をわたしが自主的に思いつくことが稀なので、わたしは上機嫌だった。わたし偉い、と小学生のような気分の盛り上げ方をしながら帰路につく。
 自宅に着いて部屋の電気をつけたわたしは、呆然と立ち尽くしていた。
 金魚鉢の中に、みつきがいない。
 まさかクラゲが水槽から飛び出すわけはない。そう分かってはいても、鉢の周りをくまなく調べてしまう。もちろんみつきどころか、水が跳ねた形跡すらない。透明だから自分が見逃しているだけかと思い、もう一度鉢の中を覗く。けれど、やはりみつきはどこにもいない。跡形もない。とりあえず、お店に助けを求めようと考えて携帯電話を取り出す。パニックになっているせいか床に落としてしまった。フローリングの上に鉄の塊が落ちたのに音が聞こえず、ふかふかの毛布の上に落としたように無音だった。ああ、自分の脳は思ったより相当ショックを受けてるな、と冷静になったつもりで自分を分析し、まず深呼吸をした。床に落ちた携帯電話を拾い、お店に電話をかける。コール中、心臓がずっと傷んでいた。
「お待たせ致しました、マリンのもり新宿店です」
「あの、えっと、三上さん、店長いらっしゃいますか」
「はい、おりますよ。お名前を伺ってもよろしいですか」
「秦です。先日クラゲを購入しました」
「ハタ様ですね、少々お待ちくださいませ」
 電子音でクラシック音楽が流れ、電話が保留になったことに気付く。この曲のタイトルってなんだっけ。確かドビュッシーだか誰だかの曲だった気がする。月の夢?いや、うろ覚えだけど、そんなタイトルではなかった気がする。音楽を聴きながら曲名をうんうんと思い出そうとし、電話が切り替わるまでの数十秒間が永遠に感じた。不思議と、その音楽を聴いている間は少し冷静な気持ちになれた。
「お電話変わりました、店長の三上です」
「あの、秦です。先日お世話になった」
「もちろん覚えてますよ。どうなさいました」
「あの、クラゲが、消えたんです、死んだとかじゃなくて、消えたんです」
「……そうですか」
 少し間をおいて答えた三上さんの声のトーンは、とても低かった。
「だいぶ混乱していらっしゃるようですし、落ち着いて聞いてくださいね。クラゲは体のほとんどが水で構成されているので、水中で死ぬと水に溶けて消えるんです」
「死ぬと水に……」
 一度では意味を理解できず、ゆっくり言われた言葉を繰り返して噛み砕く。二回呟いてから、わたしはやっとみつきが死んだことを理解した。もちろんいずれ来ると分かっていたことだけれど、まさかこんなに早く別れが来るとは思っていなかった。世話を面倒がらず病気などにも敏感になって飼育していたのに、こういう結果になってしまったことに対して理不尽と無力感を感じつつ、三上さんの返事を待つ。
「そうです。なので、消えているということはおそらく死んでしまったんだと思います。もともと家庭で飼育するクラゲの寿命は数か月から一年持てば長いほうなんですが、ちょっとそれにしても早いですね。こうなってしまった原因ははっきりとは分かりませんが、秦さんはいつ気づきましたか」
「今朝までは鉢の中にいたんです。仕事から帰ってきたら……」
「今朝の様子は元気でしたか、弱ってましたか」
「分かりません。でも弱ってはいなかったと思います。いつも通り泳いでたはずです」
「すると突然ですね。思い当たるのは、底に沈んだ状態から戻れなくなってそのまま憔悴、そして死んでしまったという状態ですね」
「そう、ですか」
「水流が強すぎて鉢の壁にぶつかって憔悴、というパターンもあるんですが、秦さんにお売りしたポンプは水圧が弱めのものですし、今回それはないと思います。鉢の中に水流は作ってましたか」
「一応、はい」
「そうですか……でも、こういうことも稀にあるんです。鉢や水槽の形にもよりますけど、水流がなかったり弱かったりするところにクラゲがはまってしまって、遊泳力が弱いので人の手で流さないとそこで死んでしまう、というケースです。本当に稀ですから、油断してお伝えしていませんでした。申し訳ありません」
「そう、ですか」
「それが原因で死んでしまったとは断定できませんが、今のところ考えられるのはそれくらいかと思います。残念ですが……本当に申し訳ありません」
「いえ」
 わたしは悪くない。もちろん三上さんも悪くない。強いて言えば、運が悪かったのだ。胸を内側から掻きむしりたくなるような鈍痛が走る。これは本当に痛いわけではなくて、心がダメージを受けているときのサインだということをわたしは理解している。どれだけ胸が痛もうと、涙は出てこなかった。
 確かに大事に世話はしていたが、接していた期間もそう長くないし、みつきがいないと生きていけないというほど入れ込んではいない、言い方を変えれば依存してはいなかったつもりだった。しかし、尋常ではない喪失感が、みつきに対するわたしの大きすぎる愛着を表していた。胸にぽっかりと穴が開いたような、という表現は陳腐でありきたりだが、その表現は的を射ているということを初めて身をもって実感した。
 電話口では無言が続く。三上さんはずっと黙っている。何か言わなければ。
「また、お願いします」
 なぜ「またお願いします」と言ったのか、自分でもよく分からなかった。もう二度と生き物は飼わないくらいの心境なのに。
「……はい。またいつでも相談に乗りますので」
 三上さんの言葉に返事はせず、力なく電話を切った。
 みつきは死んだ。消えるように死んでしまう、などという比喩ではなく、本当に消えてしまった。遺体がないから、埋葬もいらない。
 クラゲは死ぬと水に溶けて消えてしまう、ということは今知ったわけではなく、以前から知っていた知識だった。わたしがクラゲを綺麗だと感じ、憧れる理由の一つだった。ただ、混乱した脳からは完全にその情報が消えてしまっていた。
 クラゲという生き物はどこまで儚くて、どこまで綺麗なんだろう。みつきが死んで、もちろん悲しみは大きいし喪失感はとてつもないのだけれど、同時にその死に様を、とても美しく、羨ましいと思った。それに比べて、遺体や葬式や様々な迷惑、出費、後に残された者に考えなければいけないことを大量に残さないと死ねない人間は、なんて醜いのだろうという考えが頭の中を埋める。世界から音が消え、足から力が抜ける。人間はペット一匹失った程度でこんなふうになってしまうのか、と自分のことがひどく滑稽に思えて、わたしは吹き出した。
 ふと、会社で雇われる自分と自分に飼われるみつきを重ねて見ていたことを思い出した。みつきはこの鉢の中しか知らずに死んだ。わたしも、今の会社で飼われ、そのままあっけなく死んでいくのだろうか。誰にも迷惑をかけず、ひっそりとクラゲのように消えていくならまだいい。でも現実は、わたしが死ぬと会社でも欠員が出るし、親より先に死ぬと家族にも悲しみを与えるし、色々なものが残ったまま、わたしと関わった人の心を揺らしてしまう。それがどうしても我慢ならなくて、自分という存在への嫌悪感が身を震わせる。
 いつの間にか流れていた涙をぬぐわずに、わたしはずっと床に座り込んでいた。
 我に返り、時計を見ると午後九時前を指している。あれ、と思い携帯電話を見ると、ゆりくんから二件の着信と、「今日は無し?」というメッセージが届いていた。わたしは一時間以上無心で座り込んでいたらしい。しかもその間、二度の着信音に全く気が付いていなかったようだ。改めて、今まで自覚していなかったわたしの心の脆さを滑稽に感じ、今度は自虐的に笑う。それはもう笑いではなく、笑いという表情を借りた嘆きだった。ゆりくんに返信する気も起きず、わたしは万年床にしている布団に倒れこむ。スーツ着替えなきゃ、だとか、洗濯物やらなきゃ、だとか、するべきことを頭の中で考えることは出来るのに、体を動かすことができないままただ時間ばかりが過ぎていった。
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