両片思い

相間つくし

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2 彼

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 俺の彼女は、変だ。
 思えば出会ったときから違和感の塊のような女であった。けして怒らず、驕らず、人の悪口も言わず、いつも綺麗にしていて、そつがない。品がありつつもお高くとまらず、それなりに周りに合わせて冗談を飛ばすこともある。さらに、それでいてたまに抜けている一面もあるので、完璧な人間というとっつきにくさは皆無で、嫌みがなく、親しみやすい。ある意味、本当の「完璧」な人間だ。こんな人間がこの世の中に存在したのか、と言いたくなるほどのすばらしい女性である。
 だが、俺の直感は「この女はおかしい」と告げていた。彼女が行う全ての振る舞いに、具体的に何とも言えない違和感がある。彼女には、まるで精巧に作られた人形が人工知能を搭載され、プログラムに沿って動いているようなイメージを持った。彼女の一挙手一投足に、得も言われぬ恐怖を感じた。そんなことを思う理由など一つもないのにどうしてもその違和感が拭えず、共通の知人何人かに彼女の印象を聞いたことがある。だが、やはり「彼女はとてもいい子」という評価しか得られなかった。自分しか違和感を覚えていないという事実がさらに恐怖を煽る。
 もちろん、そんなことはおくびにも出さず彼女と接していたのだが、彼女のほうはどうやら俺のことを気に入ってくれたらしく、食事に誘ったり、意外と積極的に遊びに誘われたりしつつ、ついには交際を始めることとなった。
 普通ならそんな恐怖を感じるような女と交際する理由はないどころか回避すべきだとは思うが、俺は一緒にいるうちにだんだんと彼女のことを放っておけなくなっていった。
 この女は、俺がいないと死ぬ。そういった確信があった。
 彼女の精神的な依存はなんとなく感じてはいたが、ありふれた依存体質の女とは一線を画している。この女は依存などというレベルではなく、もはや「寄生」である。寄生と言えば聞こえは悪くなってしまうけれど、きっと彼女は依存することが生きるための最良の手段で、そのために血の滲むような努力をしているのではないかと考えるのが自然だった。俺から見ると、あまりにも全ての所作が作為的すぎる。彼女の目には感情がない。いや感情は目にも口にも眉にも豊かに現れているのだが、その表情は、彼女が持っている感情と直接結びついて顔に現れているようにはとても思えない。
 どういうわけか、会う回数が増える度、段々と「この女は俺がいないとだめだ」という思考から、「この女を俺が守りたい」という思考に変化していった。そして不思議なもので、そう思うと途端にこの女が儚く弱弱しい存在に見え、愛おしく思えてきた。交際を決めた理由はそれだった。もしかしたら、これも彼女の戦略だったのかもしれない。
 ただ、何をどう感じようと、これはあくまで自分の想像に過ぎない。どこかで機会を見て、真実を確かめてみたいと思っていた折、彼女が料理をしているときに突然手を止めて一点を見つめているところに遭遇した。何か考えごとをしているようだが、この際だから色々吹っ掛けてみるか、と思いたった。動機に好奇心がないと言えば嘘になる。
「えつー?どうかした?」
 恵津子という名前を嫌う彼女に俺がつけたあだ名で呼びかけ、優しく声をかけてみる。
「え?なに?」
 えつはちょっと面食らったようだった。俺はテレビに見入っていると思っていたのだろう。
「んーん、なんでもない」
 この先の、おそらく彼女にとって触れられたくないタブーである領域に踏み込もうか一瞬迷ったが、膨らんだ好奇心には勝てず、しばらくの沈黙の後、俺はもう一度話しかけた。
「えつ、そろそろやめにしない?」
「うえっ、何が?」
 先ほどとは比べものにならない、今まで聞いたことの無いような素っ頓狂な声を上げた彼女は、これも今まで見たことのない自然な驚きの表情を浮かべている。さすがに、こう切り出して来るとは考えていなかったらしい。とりあえず彼女の感情が丸ごと抜け落ちているというひとつの疑惑を払拭でき、内心安堵しながら続ける。
「嫌なことがあっても隠したり、意見を俺に全部合わせたりしてしまうところ。自分の意見を殺してるえつを見るのはつらいし、ああ、俺は頼りないのかな、まだ信用されてないのかなって気分になるんだ」
 彼女は寄生に命を賭けるその生き方のせいか、それとも設定してある「えつ」の性格のせいか、およそ自分の意見というものを言うことがほとんどなかった。おそらく、俺に捨てられることを恐れてそういった振る舞いをしているのだろうが、生憎、俺はえつを捨てるつもりは毛頭ない。いま俺がえつに放った言葉は、彼女が普通の感性を持った人間であるかどうか探りを入れる意味もあったが、半分は本音でもあった。俺はえつを絶対に見限らないから、安心して寄りかかってきて欲しい。戸惑っているえつにけして恐怖や威圧感を与えないよう、ゆっくりとした足取りで、穏やかに彼女の隣まで歩いて行く。えつはとてつもない速度で考え事をしていたようで、目を白黒させていた。
「いや……本当に何も」
「なくないだろ」
 彼女の言葉を遮って続ける。煮え切らないえつの態度に、感情が先行して声音が荒立ってしまった。意図せず責め立てるような問い詰め方をしてしまい、こちらのほうが狼狽する。だが、彼女は俺が焦る様子には気づかず、俯いて下唇を触っていた。俺の追求から逃れる方法を必死に探しているように見える、というのはさすがに穿った見方をしすぎているだろうか。
「ごめん」
 少しして、ようやく彼女がぼそぼそとつぶやく。えつはすぐに謝る癖がある。彼女が謝る必要は一切ない。ただ俺は、えつの中身がどういったものなのか知りたいだけだった。その食い違いに苛立ちを覚えつつも、不機嫌な態度にならないよう努めながら優しく声をかける。
「何がごめんなの。なんで謝るの?そういうところをやめてくれないかって俺は言ってるんだけど、分かってくれるかな。えつ、いつも自分が謝るとき、別に自分が悪いとは思ってないでしょ?」
 彼女が心からの自省の気持ちで謝っているわけではないということは一目でわかった。普通はこれに気持ちがこもっていないなどと思いもしないかもしれないが、俺は伊達にえつを長い間観察していない。それに、えつに謝罪の気持ちが一切無いことを咎めるつもりは全くない。一度でいいから、彼女の本音を聞いてみたいのだ。暴れだした好奇心はもう止まらず、えつの中身を暴いてやる、と本末転倒な目的さえ据えてしまっていた。
「だって……怒らせちゃったみたいだし……謝らなきゃって」
 しゅん、とふた回りほど小さくなったように見える程しおらしくなった彼女を見て我に返り、内心ため息をつく。やってしまった。えつの中身に触れようとするときは、殻を閉じられないように慎重に内側に歩み寄るべきだった。彼女は今、完全に殻を閉ざしている。なんとか誤解を解かなければ。俺はできるだけ声を柔らかくして、微笑みながら答える。
「違う、俺は怒ってるんじゃなくて……こう、切ないというか悲しいというか……見てられないというか。えつに、我慢せずに思ってることを言って欲しくて。俺は自分の意見に反対されたくらいじゃ怒らないことくらい、えつは知ってるでしょ」
「そうだね……ごめん」
「ほら、また。謝ることじゃないんだよ。えつは何も悪いことはやってないんだから。あのさ、何か思ってることを言ってみて。今までずっと言えなかった過去のことなんかでもいい」
 えつは微妙に瞳孔が開き、合点がいったように瞬きを一つぱちりとした。普通は気にも止めないような仕草だが、俺は今の仕草の意味するところに気づくことができた。彼女は今、何かを理解した。まるで、電子機器がアップデートされるように。
 えつはこちらの目をまっすぐに見据え、息を一つ吸って吐いて、さっきとは別人のような、透き通る声で話し始める。
「あの、さっき謝ったのは、本当に申し訳ないと思ってるからなの。そんな風に不安にさせちゃったんだね、それはごめんね。でも、不安かもしれないけど、私は本当に不満は何もないの。何一つない。そりゃ、もうちょっとかまってくれたら嬉しいなあ、とか、もっと家で一緒に過ごせたら嬉しいなあ、とか、そういう小さな願望みたいなものはあるけど……それだってあなたのせいではないし、どうにもできないことじゃない?それをわかっててもまだ駄々をこねるほど、私は子供じゃないつもりだよ。私、ちゃんと幸せ」
 肌が粟立つ。狙ったように満点の答え、視線の送り方、声の出し方、言葉選び。こいつは、本当に依存することに必死で、言い換えれば、生にしがみつくことに対して必死なんだ。
 なんて、なんて儚くて、弱くて、切なくて、綺麗で、愛おしい。
 様々な感情が鮮やかに胸の内を駆け巡り、弾けた。俺は両手で彼女の手を取り、優しく語りかける。
「そう……えつは本当に優しいね。俺はえつのそういうところが好きなんだ。本当にありがとう。幸せって言葉が聞けて、俺は嬉しい。ありがとう。」
 ありがとね、ともう一度繰り返し、俺は彼女に唇を重ねた。軽く触れたえつの唇は、震えてはいなかった。
「ご飯そろそろできるし食べようか」
 唇を離すと、彼女はそう切り出した。俺は微笑んで頷き、テーブルについた。
 今日は少し踏み入ったことを聞いてよかった。えつは、やっぱり救いようがない女で、人に縋ることでしか生を享受できなくて、その縋る相手は俺しかいない。その確信が清々しい優越感に変わる。彼女のことだから、今回のことを学習して、これからは少しの不満なら俺に言うようになるかもしれない。少し人間らしくなっていいことだ。微笑ましい未来を思い、胸が暖かくなる。
 俺はもちろんえつを愛している。ではえつはどうなんだ?
 最終的に自分が生きるためであろうと、えつが俺のために思考の限りを尽くし、最大限努力してくれていることには変わりがない。これはもう、愛されていると言っても差し支えないのではないだろうか。
「いただきます」
 えつが得意な、ソースから手作りのデミグラスハンバーグを一口食べると味覚が喜び、唾液が分泌されるのを感じた。
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