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兼平礼人の憂鬱 4
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僕らが急いで部屋を出ると、店内に大きな石が投げ込まれて、窓ガラスが割られていた。僕はその割れた窓ガラスの外に立つ人影に気付いた。
「嘘つき」
その人物は、僕の姿を認めると大きな声でそう言った。
「嘘なんて……」
「嘘つき!」
先ほどよりも大きく、彼女は叫んだ。
「お店はもう閉まってるのに、なんで他の女と一緒にいるの!? 礼人は私の『彼氏』でしょ!」
「違う、この人は……」
「うるさいうるさい! 言い訳なんか聞きたくない!」
耳を抑えた彼女はひとしきり髪を掻きむしり狂乱した後、血走った眼を『米田雫』に向けた。
「おいババア! テメー他人の彼氏取ってんじゃねーよ!」
いつもの猫を被ったのとは違う、彼女本来の声が響く。僕が恐れた真実の彼女だ。
「この方とは、何もありません。ただ、救いを求めている方に、手を差し伸べたにすぎません」
「うるせえ! ならどうして、どうして礼人は『あんたの淹れた珈琲』を飲もうとしたんだ!」
――え。
「あの珈琲を、雫さんが?」
彼女が水筒に入れていたあれ。目の前で零した、それを?
「やはり、貴方でしたか」
雫さんはこんな時でも落ち着いた口調で言葉を返す。
「今朝、貴方は珈琲をお持ち帰りしていきましたね? 珍しいことをなさるお客様がいると思っていたのですが」
「ああそうだよ! 試したんだよ! 礼人の様子がおかしいからつけてみればテメーの店でよ! 他人の彼氏たぶらかしやがって。この悪魔!」
「それは、貴方でしょう?」
「はあ!? 人様の彼氏を盗る奴が何言ってんだ! 浮気は罪! 原因作ったテメーが極悪人なんだよ!」
「礼人さん」
彼女の呼びかけに、僕の身体はようやく金縛りが解けた。
「はっ……はい」
「今しか、ありません」
「今――」
「真実を掴むのは、今しかないのです。真実と言うのは人の数だけ存在します。でも、貴方の真実を決めるのは彼女じゃない。選び取れるのは貴方だけなのです」
――要詩織の恋人という真実と。
――そうじゃない、僕の中の、真実。
「彼女は――」
「何ゴチャゴチャ言ってんだよ! 出て来いよ、この――」
「そうです。彼女は貴方の恋人なんかではありません。それを『演じている』だけ。貴方が、断れないから」
――そう、そうだ。僕はだから、ずっと苦しんで来たんだ。
「兼平礼人さんは貴方の『本当の』彼氏ではなく――」
次の彼女の言葉で、世界が一瞬止まった。
「仮初――『レンタル彼氏』なのでしょう?」
僕は、暫く二の句が継げなかった。
「どうして……それが?」
わかったのだろう? 僕は普通のカップルの話として話していた。いや、そのように「努めた」というのに。
「私も言葉や職業としては最近知ったばかりです。仮初の関係を演じることで相手を満足させ、対価を得る。兼平さんの地図を見た時に、これは『二人以上で行動する際に使うもの』だとすぐに分かりました。一人で行動する為に作られたものではなく、相手を満足させるもの。そして兼平さんは守秘義務だと断った。貴方は嘘を吐くような方ではありません。客商売を前提にした仕事で、個人の秘密があって、一緒に行動し、かつ『愛を持たない女性』と行動する可能性のある職業は、これしか考えられませんでした。勿論、最初に地図を頂いた時は、何かの案内人、ツアーコンダクターのようなものも考えましたが」
彼女は懺悔室で僕の告白を聞いて、最終的にその職業を絞り込んだ、というわけだ。
「貴方は、優しい方なのでしょう。こんな時にも、その彼女――詩織さんの嫌な顔に思いを馳せてしてしまっている。『お客様』として」
そうだ。僕を悩ませ、苦しませている張本人に対しても、僕は律儀にも心遣いしてしまっているのだ。それは仕事として、僕が決めたことを果たそうとしているからだ。
「彼女はレンタル彼氏として兼平さんを指名し、渋谷で出会った。そして貴方を毎回氏名するようになった。でも彼女は貴方を気に入った故か、どんどん行動をエスカレートさせていった。寮の部屋も、教えてなどいないのでしょう? 住んでいる場所を勝手に特定されただけ、それを抗議してみたけど通じていない。ストーカの様に迷惑行為に及び始めても貴方は抗議せず、彼女はそれを同意と取った」
そうだ。だから僕は苦しんでいたのだ。我儘に振る舞い、客としてのルールを守らない彼女の事で。誰に相談したくても、僕は他人をそういうことに巻き込むことが嫌だった。それは店にも、だ。
「……でも、僕の煮え切らない態度が彼女を誤解させてしまっているのかもしれません。だから、そのストーカーというのは言い過ぎかも……。僕が、もっと強く拒絶していれば」
「いいえ、それはありません」
きっぱりと、彼女は言い切ってしまった。それが余りにもストレートな物言いだったため、僕は思わず彼女の目をまともに見つめてしまった。彼女の瞳はじっと、物凄い形相でこちらを見つめている要詩織から動いていない。
「彼女は自覚しています。貴方の性格を。貴方の行動原理を。強く断れない、ということも。だからこそ、貴方は苦しんでいるのです」
「そう、何でしょうか?」
彼女が嘘つきだとは思わない。しかし、見てもいないことをここまではっきりと言い切れるのには、何か訳でもあるのだろうか?
「望む答えは、得られましたか?」
「うるっっっせえ!」
雫さんの問いかけに、要詩織は唸るような声を上げた。
「偉そうに御託を並べやがって! 礼人は私の彼氏で! 運命の相手なんだ! テメーみたいなババアがしゃしゃり出る隙間なんてありゃしないんだよ! ――礼人」
――礼人、という呼びかけに僕の身体は強張る。
「昼間は、私を選ばなかった。夜も、こんな変な女のところにいる。でも、許してあげる」
彼女は急に優しい声で僕に語り掛けてくる。
「その女がなんて言おうとも、貴方は私に付いてきた。耳を傾けた。貴方は私に臨むものをくれたじゃない」
「望む、もの?」
「そうよ! 素敵なデート! 素敵な気遣い! 私の欲しかった、完璧なイケメンの彼氏! お金があれば、貴方は私のものでしょう?」
彼女は狂気の笑みを僕へ向ける。
「私はストーカーじゃない。貴方の彼女。恋人。伴侶。貴方を独占出来るのは、私だけなの」
僕は――。
「そんな女の言うことを聞いちゃ駄目。私が貴方の神様、貴方の真実。さあ、こっちへ来て? 望むものは全て私が与えてあげるから!」
彼女は僕に向かって手を伸ばす。僕を――もう一度縛る鎖を投げかけるように。
「礼人さん」
そんな僕の呪縛を解くように、清涼な声が――雫さんの声が響いた。
「荒野の誘惑です」
再びの言葉が僕の頭上に雷光を閃かせた。
――ああ、そうか。
「気付かないことが悪なのです。見方を変えれば、それも真実になり得る、それだけのことです」
彼女の言葉に後押しされるように、僕はライスシャワーの玄関を開け放ち、外へ出た。
「礼人!」
嬉しそうに駆けだしてくる要詩織を、僕は右手を上げて制する。
「止めよう。もう」
「礼人! まだそんなこと言って……」
「違う。気が付いたから。いや、気が付いていたけど、見て見ぬふりをしていたから」
「何訳の分かんないこと言って……」
「僕は、君の彼氏の振りをしていた。だけどそれは、間違いだった。他人の嫌な顔を見るのが嫌で、そんなことをしていたけど。それはもっと、別の誰かに嫌な思いをさせるだけだって漸く気付いたから」
そうか。
「僕が、君にとって悪魔だったんだ」
「――え」
僕の言葉に要詩織は目を剥いた。
「君を誘惑した悪魔は、僕だ。だからもう、やめましょう。『お客様』」
僕の言葉に、彼女の瞳は深い絶望の色を浮かべた。
肉体的な欲求(デート)を満たし、栄華(他人に対する見栄)を与え、そして――。
「僕は、これ以上貴方を誘惑する悪魔にはなれません」
ハッキリした口調で、言い切る。
「前の彼とは、別れてないのでしょう? 戻ってあげて下さい」
おそらくは、別れていない彼氏と比べて。
悪魔(ぼく)からの最後の誘惑を待っていて――。
「嘘つき」
その人物は、僕の姿を認めると大きな声でそう言った。
「嘘なんて……」
「嘘つき!」
先ほどよりも大きく、彼女は叫んだ。
「お店はもう閉まってるのに、なんで他の女と一緒にいるの!? 礼人は私の『彼氏』でしょ!」
「違う、この人は……」
「うるさいうるさい! 言い訳なんか聞きたくない!」
耳を抑えた彼女はひとしきり髪を掻きむしり狂乱した後、血走った眼を『米田雫』に向けた。
「おいババア! テメー他人の彼氏取ってんじゃねーよ!」
いつもの猫を被ったのとは違う、彼女本来の声が響く。僕が恐れた真実の彼女だ。
「この方とは、何もありません。ただ、救いを求めている方に、手を差し伸べたにすぎません」
「うるせえ! ならどうして、どうして礼人は『あんたの淹れた珈琲』を飲もうとしたんだ!」
――え。
「あの珈琲を、雫さんが?」
彼女が水筒に入れていたあれ。目の前で零した、それを?
「やはり、貴方でしたか」
雫さんはこんな時でも落ち着いた口調で言葉を返す。
「今朝、貴方は珈琲をお持ち帰りしていきましたね? 珍しいことをなさるお客様がいると思っていたのですが」
「ああそうだよ! 試したんだよ! 礼人の様子がおかしいからつけてみればテメーの店でよ! 他人の彼氏たぶらかしやがって。この悪魔!」
「それは、貴方でしょう?」
「はあ!? 人様の彼氏を盗る奴が何言ってんだ! 浮気は罪! 原因作ったテメーが極悪人なんだよ!」
「礼人さん」
彼女の呼びかけに、僕の身体はようやく金縛りが解けた。
「はっ……はい」
「今しか、ありません」
「今――」
「真実を掴むのは、今しかないのです。真実と言うのは人の数だけ存在します。でも、貴方の真実を決めるのは彼女じゃない。選び取れるのは貴方だけなのです」
――要詩織の恋人という真実と。
――そうじゃない、僕の中の、真実。
「彼女は――」
「何ゴチャゴチャ言ってんだよ! 出て来いよ、この――」
「そうです。彼女は貴方の恋人なんかではありません。それを『演じている』だけ。貴方が、断れないから」
――そう、そうだ。僕はだから、ずっと苦しんで来たんだ。
「兼平礼人さんは貴方の『本当の』彼氏ではなく――」
次の彼女の言葉で、世界が一瞬止まった。
「仮初――『レンタル彼氏』なのでしょう?」
僕は、暫く二の句が継げなかった。
「どうして……それが?」
わかったのだろう? 僕は普通のカップルの話として話していた。いや、そのように「努めた」というのに。
「私も言葉や職業としては最近知ったばかりです。仮初の関係を演じることで相手を満足させ、対価を得る。兼平さんの地図を見た時に、これは『二人以上で行動する際に使うもの』だとすぐに分かりました。一人で行動する為に作られたものではなく、相手を満足させるもの。そして兼平さんは守秘義務だと断った。貴方は嘘を吐くような方ではありません。客商売を前提にした仕事で、個人の秘密があって、一緒に行動し、かつ『愛を持たない女性』と行動する可能性のある職業は、これしか考えられませんでした。勿論、最初に地図を頂いた時は、何かの案内人、ツアーコンダクターのようなものも考えましたが」
彼女は懺悔室で僕の告白を聞いて、最終的にその職業を絞り込んだ、というわけだ。
「貴方は、優しい方なのでしょう。こんな時にも、その彼女――詩織さんの嫌な顔に思いを馳せてしてしまっている。『お客様』として」
そうだ。僕を悩ませ、苦しませている張本人に対しても、僕は律儀にも心遣いしてしまっているのだ。それは仕事として、僕が決めたことを果たそうとしているからだ。
「彼女はレンタル彼氏として兼平さんを指名し、渋谷で出会った。そして貴方を毎回氏名するようになった。でも彼女は貴方を気に入った故か、どんどん行動をエスカレートさせていった。寮の部屋も、教えてなどいないのでしょう? 住んでいる場所を勝手に特定されただけ、それを抗議してみたけど通じていない。ストーカの様に迷惑行為に及び始めても貴方は抗議せず、彼女はそれを同意と取った」
そうだ。だから僕は苦しんでいたのだ。我儘に振る舞い、客としてのルールを守らない彼女の事で。誰に相談したくても、僕は他人をそういうことに巻き込むことが嫌だった。それは店にも、だ。
「……でも、僕の煮え切らない態度が彼女を誤解させてしまっているのかもしれません。だから、そのストーカーというのは言い過ぎかも……。僕が、もっと強く拒絶していれば」
「いいえ、それはありません」
きっぱりと、彼女は言い切ってしまった。それが余りにもストレートな物言いだったため、僕は思わず彼女の目をまともに見つめてしまった。彼女の瞳はじっと、物凄い形相でこちらを見つめている要詩織から動いていない。
「彼女は自覚しています。貴方の性格を。貴方の行動原理を。強く断れない、ということも。だからこそ、貴方は苦しんでいるのです」
「そう、何でしょうか?」
彼女が嘘つきだとは思わない。しかし、見てもいないことをここまではっきりと言い切れるのには、何か訳でもあるのだろうか?
「望む答えは、得られましたか?」
「うるっっっせえ!」
雫さんの問いかけに、要詩織は唸るような声を上げた。
「偉そうに御託を並べやがって! 礼人は私の彼氏で! 運命の相手なんだ! テメーみたいなババアがしゃしゃり出る隙間なんてありゃしないんだよ! ――礼人」
――礼人、という呼びかけに僕の身体は強張る。
「昼間は、私を選ばなかった。夜も、こんな変な女のところにいる。でも、許してあげる」
彼女は急に優しい声で僕に語り掛けてくる。
「その女がなんて言おうとも、貴方は私に付いてきた。耳を傾けた。貴方は私に臨むものをくれたじゃない」
「望む、もの?」
「そうよ! 素敵なデート! 素敵な気遣い! 私の欲しかった、完璧なイケメンの彼氏! お金があれば、貴方は私のものでしょう?」
彼女は狂気の笑みを僕へ向ける。
「私はストーカーじゃない。貴方の彼女。恋人。伴侶。貴方を独占出来るのは、私だけなの」
僕は――。
「そんな女の言うことを聞いちゃ駄目。私が貴方の神様、貴方の真実。さあ、こっちへ来て? 望むものは全て私が与えてあげるから!」
彼女は僕に向かって手を伸ばす。僕を――もう一度縛る鎖を投げかけるように。
「礼人さん」
そんな僕の呪縛を解くように、清涼な声が――雫さんの声が響いた。
「荒野の誘惑です」
再びの言葉が僕の頭上に雷光を閃かせた。
――ああ、そうか。
「気付かないことが悪なのです。見方を変えれば、それも真実になり得る、それだけのことです」
彼女の言葉に後押しされるように、僕はライスシャワーの玄関を開け放ち、外へ出た。
「礼人!」
嬉しそうに駆けだしてくる要詩織を、僕は右手を上げて制する。
「止めよう。もう」
「礼人! まだそんなこと言って……」
「違う。気が付いたから。いや、気が付いていたけど、見て見ぬふりをしていたから」
「何訳の分かんないこと言って……」
「僕は、君の彼氏の振りをしていた。だけどそれは、間違いだった。他人の嫌な顔を見るのが嫌で、そんなことをしていたけど。それはもっと、別の誰かに嫌な思いをさせるだけだって漸く気付いたから」
そうか。
「僕が、君にとって悪魔だったんだ」
「――え」
僕の言葉に要詩織は目を剥いた。
「君を誘惑した悪魔は、僕だ。だからもう、やめましょう。『お客様』」
僕の言葉に、彼女の瞳は深い絶望の色を浮かべた。
肉体的な欲求(デート)を満たし、栄華(他人に対する見栄)を与え、そして――。
「僕は、これ以上貴方を誘惑する悪魔にはなれません」
ハッキリした口調で、言い切る。
「前の彼とは、別れてないのでしょう? 戻ってあげて下さい」
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