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第45話 北の国

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 五階に上がるのはたいそう骨が折れた。少し後悔をしかけたベアトリクスだったが、何とか階段を上りきった。

「あ、ランドルフおじさま! おかえりなさいませ」

 一人の女の子が五階の廊下の端っこの椅子の上で本を読んでいた。
 ちょうど窓から光が差し込んでいた。
 本が読みやすいのだろう。

「ただいま、シェリー。姫様、この子は長兄の長女シェリーです。シェリー、こちら、ベアトリクス姫殿下だ」
「えっ」

 シェリーは本を取り落とすと、すぐさま椅子から飛び退き、背筋を伸ばしてから、礼をした。

「よ、ようこそ、おいでくださいました!」
「こんにちは、シェリー嬢。お邪魔しています」

 ベアトリクスは微笑んだ。

「シェリー嬢はおいくつ?」
「ご、五歳です」
「まあ、その年でもう本が読めるのね」
「え、絵本ですから。難しい言葉は使われていません」
「そう? でも素晴らしいことだわ」
「え、えへへ」

 ベアトリクスがそう言うとシェリーは身をよじって照れた。

「シェリー、おじさんたちはちょっと部屋にいるから」
「はあい」

 シェリーは取り落とした本を持ち上げると自分の部屋へ戻っていった。

 ランドルフとベアトリクスはそれを見送ると、ようやくランドルフの部屋に入った。



 ランドルフの部屋は殺風景だった。
 机にベッド。それだけの部屋。
 かろうじて壁に騎士の絵画が一枚掛けられている。
 それもそう大きくはない。両手の平を横に並べたくらいの大きさだ。

「絵を飾っているのね」
「騎士エンゲルベルトのおとぎ話をご存知ですか? その騎士です」
「……知らないわね」
「ここら辺の地域では有名なんですけどね……」

 ランドルフは苦笑すると、ベアトリクスに椅子を勧めた。

「硬いですが……ほこりっぽいベッドよりはマシかと」
「ありがとう」

 ベアトリクスは腰掛けた。この椅子にランドルフが座って勉強をしていたのだろうか?
 あまり真面目に勉強しているランドルフというのも思い浮かばない。

「姫様が何を考えているかわかりますよ。ええ、俺は真面目な生徒ではありませんでしたね。家庭教師はいましたが……一番手を焼かせていたかな。今でも彼はシェリー達の教師としてうちにいます」
「そうなの」

 ベアトリクスは思いを馳せる。シェリーくらいの年頃のランドルフ。
 本など率先して読みはしないだろう。
 椅子に退屈そうに腰掛けて、時折家庭教師に怒られる。そんな姿を思い描く。

「……姫様は、どういう子供だったのですか?」

 自分のことに触れられるのが嫌だというより、単純に興味が湧いたのだろう。
 ランドルフがそう尋ねてきた。

「……どうかしら、ううん、真面目……だったのではないかしらね? たぶん。幼い頃は聖女になるのが当たり前だったはず……だわ」

 ベアトリクスは思い出そうとする。なかなかアルフレッドが産まれる前の自分を思い出せない。

「だけどお父様が死んで、アルフレッドが生まれて、お母様が死んで……そうなると、アルフレッドを守ることが一番になって……。そうね、そうなる前は聖女のお勉強をしていたと思う。神殿に行ったとき、間違いのないように、神の教えについて学んでいたわ」
「なるほど……」
「その頃はまだローレンスお兄様のお父様が国王陛下で……その後、ローレンスお兄様が国王陛下になった。……でも、ね、不敬だけれど、私、あの二人のことを神だなどとは思えなかったの」

 国王は地上の神である。
 そう言い伝えられている。

「先王陛下は……お父様を恐れていたわ。いつか王位が簒奪されるのではないかって。神であるなら何故怯えるのかしらって、そう思った。ローレンスお兄様は……今まで普通に遊んでいたのが神様になったって言われても、別にほら急に光り輝きだすわけでもないから……」
「ははは」

 ローレンスが発光する姿を思い浮かべてしまい、ランドルフは笑ってしまった。

「……それと同じくらい……自分が聖女になることも想像つかなかった。だから、そうね、アルフレッドのことは……渡りに船だったのよ」

 ベアトリクスはどこか自嘲的な笑みを浮かべた。

「……この子を守るという名目で……聖女を拒絶した。お兄様は受け入れてくれたけれど、たまに怖くなる。聖女が果たす役目を思うと……でも、そうね、あんな悪習は絶たねばならないでしょう」

 決意を込めてベアトリクスはうなずいた。

「たとえ、誰に何を言われても……そういえば貴族方は誰も特に何も言わなかったわね……いえ、言えるわけもないでしょうけど……」
「……あんまりもう信じている貴族もいないんじゃないですかね? 俺も特に信じちゃいなかったし……あんまり興味もなかったと言いますか」
「そういう……ものかしらね」

 ベアトリクスはどこか重たいため息をついた。

「ああ、せっかくあなたの部屋に来たといのに、暗い話になってしまった。何か楽しい話をしましょうか!」
「はい、ぜひに」
「ええと、あ、そうだわ、さっきの騎士のお話、聞かせてよ」
「ああ、はい、エンゲルベルトですね」

 ランドルフは騎士の絵を見上げた。

「エンゲルベルトは北の騎士です。どうやら辺境伯……俺たちの先祖に仕えていたようです」

 ふむふむとベアトリクスはうなずく。

「あるとき、隣国と戦争になりました。その隣国はもう滅んでいるのですが……隣国は魔法を使い、巨大なドラゴンを使役しました」

 ドラゴン、それは伝説上の生き物だ。
 サラが使役する小鳥とはわけが違う。

「エンゲルベルトは……辺境伯の命令で当時の聖女様に会いに一度神殿まで南下しました」

 神殿、南方にある聖女の居住地。話に聞くばかりで、ベアトリクスは行ったことがない。

「そして聖女様はご自分の力を込めた一振りの剣をエンゲルベルトにお与えになりました。エンゲルベルトはその剣を携えて戻ってきましたが、凍てつく北の国境では、剣もまた鞘に凍り付いて抜けません……そんなエンゲルベルトに竜が炎を吹きかけます」

 ちょうど絵はその場面を描いている。
 剣の柄に手を掛けたエンゲルベルトに竜が炎を口から浴びせかける場面。

「すると剣を凍らせていた氷は一気に溶け出し、剣が鞘から抜け、エンゲルベルトはそのまま竜を一刀両断! というのがおおまかなあらすじですね」
「へえ……」

 なんだか不思議な話だった。

「まあ、なんか炎を使う国があって、それを恐れずに突っ込んでいった騎士がいたって話じゃないかと」
「夢がない」

 ランドルフの現実的な言葉にベアトリクスは口を尖らせた。

「あはは」

 ランドルフは頭をかいた。
 そうしているうちに窓の光がどんどんと夕焼色に染まっていた。

「……とても、オレンジ色ね」

 しみじみと夕焼の色をベアトリクスは眺めた。

「ああ、北に行けば行くほど、夕焼はオレンジ色になるそうです。俺も王宮の夕焼は赤いなーって思ってました」
「……良い景色……これが、あなたの育った景色なのね」

 窓の外をじっとベアトリクスは眺めた。
 夕日に照らされるその横顔を、ランドルフは言葉に詰まりながら眺めていた。
 それはとても麗しかった。
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