22 / 26
繭の恋
兄と妹
しおりを挟む
繭の見合いが差し迫った頃合いに、【久世楼】では見合いの席を作る為、客間の大掃除をしていた。
年末前の大掃除をついでにやってしまえと、女将が言うものだから、従業員はてんやわんやで忙しく物を動かして走り回っていた。
暇をしているのは、乕松と繭ぐらいなものだ。
二人は、乕松の部屋で静かに向かい合っていた。
「私なんかの為に、申し訳ないですね」
「お蝶が生きていたら、同じようなもんだったさ」
お蝶は、とても小さな妹だったと、乕松は記憶している。
『あんちゃん』と舌ったらずな声が、今も乕松の耳には残って、それは繭の舌ったらずな声にもよく似ていた。
繭は乕松が幾ら「俺を兄と呼べ」と言っても、頑なに拒んだ。
『若様』と、繭は呼ぶのだ。それは乕松としては、寂しいやら距離を置かれているやらで、繭にとって、自分は【久世楼】の人間としか見られていないのかと、しょぼくれてしまうのだ。
「なぁ、繭よ」
「なんですか? 若様」
「繭の名前、元の名前はなんていうんだ? そろそろ教えてくれても良いんじゃねぇか」
乕松が繭にそう問いかけると、繭は目を伏せて「忘れました」と静かに答える。
繭が【久世楼】に連れてこられた時、名前を言わなかったものだから、乕松がつけてやったのだ。
妹のお蝶が戻ってきた気がして、いつかこの子供も『お蝶』になるだろうと、繭と……
九歳の乕松は、名前は替えられるものだと思っての命名でもあった。
そして繭は、生みの親に付けられた名など、捨ててしまいたかったものだから、言うつもりは最初からない。
「漢字で書けるようになったか?」
「ええ。それはとっくの昔に」
「そうかい。そりゃあ、良かった」
繭は乕松から手渡された、薄緑に蝶の柄が描かれた着物をそっと手で撫でる。
とても上質な着物は、乕松が見合いにと用意してくれたものだが、小柄な繭に合わせて作ってあることから、このニ、三日で出来合いの着物が手直しされて見繕われたとは思わない。
乕松が前々から用意していたのだろう。
なんの為に用意してあったものなのか、それを聞く勇気は繭には無かった。
「私が文字の読み書きが出来るまでは、このお店にいさせてくれる。そういう約束でしたものね」
親に売られた子供で、【久世楼】にも売られてきたのだと怯える繭に、乕松は小さな頭を使って色々と提案したのだ。
その一つが、「文字の読み書きが出来りゃあ、働く場所の幅が広がる。いいか、繭。繭って字は難しい字なんだ。それが書けるまでは、お前はここの家の子だ」そう言って、繭がもし自分から居なくなっても、誰かに売られても生きて行けるように、乕松は一生懸命に繭に文字書きを教えた。
「ああ、そうだったなぁ」
「若様のおかげで、小難しい読み書きも覚えました。だから、安心してくださいな」
「そうかい。俺の妹は二人共、どっかへ行っちまうんだな……」
喜ばしい事ではあるはずなのに、手放さなくてはいけないと分かった瞬間、惜しくもなるものだ。
乕松が無理に笑うと、繭も眉間にしわを寄せて泣くまいと笑う。
「兄上様、今までありがとうございました」
「……今更、俺を兄貴呼ばわりかい?」
頭を下げて、顔を上げない繭の肩が震え、乕松は泣いている繭に伸ばそうとした手を引っ込めた。
妹離れをしなければいけないのだと、無理やり自分に言い聞かせるしかなかった。
そう、乕松は、繭の兄なのだから。
年末前の大掃除をついでにやってしまえと、女将が言うものだから、従業員はてんやわんやで忙しく物を動かして走り回っていた。
暇をしているのは、乕松と繭ぐらいなものだ。
二人は、乕松の部屋で静かに向かい合っていた。
「私なんかの為に、申し訳ないですね」
「お蝶が生きていたら、同じようなもんだったさ」
お蝶は、とても小さな妹だったと、乕松は記憶している。
『あんちゃん』と舌ったらずな声が、今も乕松の耳には残って、それは繭の舌ったらずな声にもよく似ていた。
繭は乕松が幾ら「俺を兄と呼べ」と言っても、頑なに拒んだ。
『若様』と、繭は呼ぶのだ。それは乕松としては、寂しいやら距離を置かれているやらで、繭にとって、自分は【久世楼】の人間としか見られていないのかと、しょぼくれてしまうのだ。
「なぁ、繭よ」
「なんですか? 若様」
「繭の名前、元の名前はなんていうんだ? そろそろ教えてくれても良いんじゃねぇか」
乕松が繭にそう問いかけると、繭は目を伏せて「忘れました」と静かに答える。
繭が【久世楼】に連れてこられた時、名前を言わなかったものだから、乕松がつけてやったのだ。
妹のお蝶が戻ってきた気がして、いつかこの子供も『お蝶』になるだろうと、繭と……
九歳の乕松は、名前は替えられるものだと思っての命名でもあった。
そして繭は、生みの親に付けられた名など、捨ててしまいたかったものだから、言うつもりは最初からない。
「漢字で書けるようになったか?」
「ええ。それはとっくの昔に」
「そうかい。そりゃあ、良かった」
繭は乕松から手渡された、薄緑に蝶の柄が描かれた着物をそっと手で撫でる。
とても上質な着物は、乕松が見合いにと用意してくれたものだが、小柄な繭に合わせて作ってあることから、このニ、三日で出来合いの着物が手直しされて見繕われたとは思わない。
乕松が前々から用意していたのだろう。
なんの為に用意してあったものなのか、それを聞く勇気は繭には無かった。
「私が文字の読み書きが出来るまでは、このお店にいさせてくれる。そういう約束でしたものね」
親に売られた子供で、【久世楼】にも売られてきたのだと怯える繭に、乕松は小さな頭を使って色々と提案したのだ。
その一つが、「文字の読み書きが出来りゃあ、働く場所の幅が広がる。いいか、繭。繭って字は難しい字なんだ。それが書けるまでは、お前はここの家の子だ」そう言って、繭がもし自分から居なくなっても、誰かに売られても生きて行けるように、乕松は一生懸命に繭に文字書きを教えた。
「ああ、そうだったなぁ」
「若様のおかげで、小難しい読み書きも覚えました。だから、安心してくださいな」
「そうかい。俺の妹は二人共、どっかへ行っちまうんだな……」
喜ばしい事ではあるはずなのに、手放さなくてはいけないと分かった瞬間、惜しくもなるものだ。
乕松が無理に笑うと、繭も眉間にしわを寄せて泣くまいと笑う。
「兄上様、今までありがとうございました」
「……今更、俺を兄貴呼ばわりかい?」
頭を下げて、顔を上げない繭の肩が震え、乕松は泣いている繭に伸ばそうとした手を引っ込めた。
妹離れをしなければいけないのだと、無理やり自分に言い聞かせるしかなかった。
そう、乕松は、繭の兄なのだから。
0
お気に入りに追加
221
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
戦国九州三国志
谷鋭二
歴史・時代
戦国時代九州は、三つの勢力が覇権をかけて激しい争いを繰り返しました。南端の地薩摩(鹿児島)から興った鎌倉以来の名門島津氏、肥前(現在の長崎、佐賀)を基盤にした新興の龍造寺氏、そして島津同様鎌倉以来の名門で豊後(大分県)を中心とする大友家です。この物語ではこの三者の争いを主に大友家を中心に描いていきたいと思います。
【完結】月よりきれい
悠井すみれ
歴史・時代
職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。
清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。
純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。
嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。
第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。
表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。
戦国三法師伝
kya
歴史・時代
歴史物だけれども、誰にでも見てもらえるような作品にしていこうと思っています。
異世界転生物を見る気分で読んでみてください。
本能寺の変は戦国の覇王織田信長ばかりではなく織田家当主織田信忠をも戦国の世から葬り去り、織田家没落の危機を迎えるはずだったが。
信忠が子、三法師は平成日本の人間が転生した者だった…
陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――
黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。
一般には武田勝頼と記されることが多い。
……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。
信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。
つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。
一介の後見人の立場でしかない。
織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。
……これは、そんな悲運の名将のお話である。
【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵
【注意】……武田贔屓のお話です。
所説あります。
あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

織田信長に育てられた、斎藤道三の子~斎藤新五利治~
黒坂 わかな
歴史・時代
信長に臣従した佐藤家の姫・紅茂と、斎藤道三の血を引く新五。
新五は美濃斎藤家を継ぐことになるが、信長の勘気に触れ、二人は窮地に立たされる。やがて明らかになる本能寺の意外な黒幕、二人の行く末はいかに。
信長の美濃攻略から本能寺の変の後までを、紅茂と新五双方の語り口で描いた、戦国の物語。
白衣の下 拝啓、先生お元気ですか?その後いかがお過ごしでしょうか?
アーキテクト
恋愛
その後の先生 相変わらずの破茶滅茶ぶり、そんな先生を慕う人々、先生を愛してやまない人々とのホッコリしたエピソードの数々‥‥‥ 先生無茶振りやめてください‼️
仇討浪人と座頭梅一
克全
歴史・時代
「アルファポリス」「カクヨム」「ノベルバ」に同時投稿しています。
旗本の大道寺長十郎直賢は主君の仇を討つために、役目を辞して犯人につながる情報を集めていた。盗賊桜小僧こと梅一は、目が見えるのに盗みの技の為に盲人といして育てられたが、悪人が許せずに暗殺者との二足の草鞋を履いていた。そんな二人が出会う事で将軍家の陰謀が暴かれることになる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる