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第3話 食べる。

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 この狭い部屋で翼を出していれば、とっさに動くことができないだろう。
 少し抵抗があったが、静真が翼をしまい込むと娘は大げさなまでに驚いていた。

 そんな娘はものの15分ほどで調理を終えた。ずっと観察していたが、特に不審な点はなかったように思う。

「うわ、天狗さん。くつろいでくださってて良かったのに」

 他人がいる場所でくつろげる訳がないと反論するのも面倒で、静真しずまは正座のまま視線だけを投げたのだが、娘がちゃぶ台に置いたものに困惑した。

「……これはなんだ」
「え、なにってうどんですよ?」

 台所に戻り、箸とれんげ、赤いふたの小瓶を持ってきた娘はきょとんとしていたが、自慢げに語り始めた。

「無性にきつねうどんが食べたくてですね。昨日からおあげさんを煮て、だしを仕込んでたんですよ。今日は関西風に昆布からだしを引いて薄口醤油で味付けしたので、だしまで飲めちゃう仕様ですっ。あ、麺は冷凍麺なんですけどね。私的に一番おいしいメーカーのを買ってます。あとかまぼことおねぎは鉄板ですよね!」
「そんなもん知らん。食べられればどうでも良い」
「あっそうでした。さ、のびちゃわないうちにどうぞどうぞ。七味は好きに使ってくださいね」

 ちゃぶ台を挟むように娘は座ると、期待に満ちた眼差しで静真を促した。
 麺類はあまり口にしたことがなかったが、手早く食べて帰れると思えば悪くないと思い直し、静真は渡された箸を手に取った。
 天狗の仮面は顔の上半分を覆うものだ。外さずとも飲食は出来る。
 不思議そうにしていた娘だったが、気にしないことにしたらしい。

「いっただっきまーす!」

 娘が弾んだ声と共に麺をたぐってすすり始めるのを見た後、静真は手を付けた。
 このような行為に意味があるのかわからないが、食べれば良いのだ。
 静真は薄い黄金色の汁から白く太い麺を引き上げ、すすり上げたのだが思わず離した。

「どうしました?」
「熱い」

 静真が顔をしかめれば、娘はあっと気付いたような顔をした。

「天狗さんは猫舌でしたか? すみません。かけうどん系は熱々のほうがおいしいかなって思ってできたてにしちゃったんです」
「……これが普通なのか」
「普通? というか私がおいしいと思うってだけなので無理しないでくださいね。せめてお水持ってきますっ」
「かまわん」

 娘が立ち上がろうとするのを制した静真は、今度は慎重に麺をたぐった。
 眼前の娘は平然と食べていたのだ。ならばこれは静真への嫌がらせではない。
 湯気のたつそれを息を吹きかけた後にすすれば、今度はもっちりとした麺と共にだしと醤油の味が口に広がる。
 なんてことはない。なんどかかみしめた後に飲み込んでみせれば、娘はほっとしたように顔をほころばせると、ふたたび自分のどんぶりに手を付けた。
 ずず、と汁ごとうどんをすすって満足そうに笑う。

「んー! やっぱりうまくいきました。私一人暮らしそこそこ長いんですけどね。一人暮らしを始めたころは一人なら好きなもの何でも作れる! って思って張り切ってたんですけど、案外一人分ってつくるのめんどくさいんですよね。こう、分量的な問題で」

 娘は自分のうどんをすする傍ら、勝手に話すという器用なことをしていた。
 少々うるさかったが、静真は相づちらしい相づちを打たないにもかかわらず、まったく頓着していないようだ。
 ただ、静真が褐色の油揚げを切り分けて口に運べば、期待に満ちた目で見つめてきた。

「どうですか。私特製おあげさんは!」
「どうと言われても。甘辛いのではないか」

 うどんつゆの味とは違うな、としか言いようがない。だが静真がもう一度油揚げを切り分ければ、娘は顔をほころばせた。

「えへへ、やっぱり一緒に食べてくれる人がいるとおいしいですね」

 麺をすすりながら嬉しそうに言う娘に、静真は困惑した。

「人が一人や二人増えたところで、食事の味など変わらんだろう」
「結構変わりますよ? 同じおにぎりでも残業中に一人でもそもそたべるのと、お花見しながら友達と食べるのではまったく違いますし。あ、夏の暑い中で食べるアイスと、寒い日にこたつの中で食べるアイスも味が違うなあ」

 娘にしみじみと言われたが、静真にはよくわからなかった。
 肉の器に支配されている静真は食わねばすぐに飢える。ゆえに静真にとっての食事とは身体活動を効率的に維持するためのものでしかない。純粋な天狗であれば修行を積めば克服できるが、混ざりものである静真には到達できない。忌々しいが仕方がなかった。
 静真は再び箸を浸したが、澄んだスープに泳いでいたうどんがいつの間にかなくなっていた。ネギも端が淡い紅色に染まったかまぼこも、やわい油揚げもなかった。

「ごちそうさまでした。お片付け……あいたた」

 戸惑っていた静真は、手を合わせた娘が立ち上がろうとして包帯を巻いた足をかばうのを見た。

「昨日は、」

 静真は自分が何を言おうとしていたのか気づいて口を閉ざしたが、娘は柔らかく微笑んだ。

「昨日のことは気にしないでください。安易に手を出してすみませんでした」

 その言葉に、静真は頭の芯が冷えた気がした。

「俺を侮辱するか人間」

 手を出したことに対して謝罪するということは静真を下に見ていると同義だと捉えた。
 このたかが人間の娘に労られたのだ。それは静真の気にひどく障った。
 静真が低い声で脅せば、娘は一瞬おびえたように瞳を揺らしたが、静かに飲み込んでよくわからない表情をした。
 笑んでいるとは表しがたいが、さりとて真顔とも言えない。強いて言うならば柔らかな表情だ。それは静真の胸中に渦巻く怒りをわずかに緩ませた。

「いいえ、悪かったなと思ったから、謝りたかっただけなんです。お友達になれたら良いなーと思ってたので」
「……は?」

 静真は真抜けた声を上げるしかなかった。本当に、何から何までわからなかったからだ。
 静真からの威圧がなくなったせいか、肩の力を抜いた娘は朗らかに続けた。

「私、こっちには知り合いも少なかったので。話し相手とか、ご飯を食べる相手が欲しかったんです」
「お前は馬鹿か。それとも阿呆か。得体のしれん妖者を引き入れるなぞ頭がどうかしているのではないか」
「いえ、それは、あなたが……」

 言葉を吟味する余裕もなく静真が辛辣に言えば、娘は何かいいよどんだ。

「俺が、なんだ」
「なんでも。人もあなたみたいな方も、あんまり変わりませんよ」

 こてりと首をかしげる娘の妙に静かな言葉に、静真は返す言葉を見失った。
 面の向こうに隠された静真の戸惑に娘は気づかず、のんびりと微笑んだ。

「なので、暇だったらまたきてくださいね」
「……約定は果たした。いとまする」

 かろうじてそう返した静真は、乱暴に立ち上がると、昨日と同じように窓から外へと飛び立つ。
 いつもよりも乱暴に翼を使えば、この胸中に渦巻くいらだちにも似た感情を紛らわせる。
 これで終わりだ。人間などと関わる気は毛頭ないのだから。





 *






 最後の後始末を終えた静真は数日ぶりに天狗の里へ戻ってきていた。
 人界と隣り合うようにあるここは、人は容易に踏み込むことが出来ない領域だ。
 踏み込んだところで、生身の人間ではこの霊異に耐えきれずたちまち意識を失うだろう。

 暴力的なまでに静謐なそこに静真が踏み込めば、人界の無機質さとはくらべものにならないほど、優美な街並みが広がっている。山の斜面に並ぶ瓦葺屋根の雅やかな建物の間を、時折、翼を広げた天狗たちが行き交う。建物が豪奢なのは美しく光るものを好む天狗たちがこぞって自らの家を飾り立てるからだ。
 せわしなさなどみじんもない、妖魔の上位にたつにふさわしい余裕のある空気だ。だが朗らかに行きかう天狗たちも、静真に気が付いたとたん眉をひそめた。
 気まずげであったり、あるいは侮蔑の込められたりした視線は慣れたものであるため、静真はかまわず街中を進む。道端では天狗の子供達が追いかけっこをしていた。
 翼を使わないことから、走るだけという決まり事でもあるのだろう。
 ただ楽しげに歓声を上げながら走り回る子供の一人が、前を見ていなかったのか静真にぶつかった。
 地面に尻餅をついた子供は、きょとんとしたあと、静真を認めたとたんひっ、と息を呑む。
 口を開きかけた静真だったが、その前に割り込んできた女の天狗が子供を背にかばった。

「離れなさい混ざり物!」

 敵意もあらわに静真をにらみつけた天狗は、そのまま子供を抱きかかえると去っていた。
 息をついて、静真は山の頂点近くにある瓦葺きの一番大きな建物へと入った。
 それなりの時間を待たされた後、里の長に目通りし報告を終えると、そこには長の息子である佐徳さとくがいた。

「なんだ静真。まだ生きていたのか」

 静真とさほど見た目が変わらない青年は山伏装束ではなく、人界の装束に身を包んでいる。
 天狗らしい赤ら顔を笑顔にゆがめて、なぶるように静真の姿を上から下まで眺めた後、腰にある刀に目を留めた。

「それ、まだ使っていたんだなぁ。形見なんて代物を大事にするなんて人間交じりらしい執着だ。そんなに裏切り者の母親が恋しいか?」

 取り戻した刀をそう揶揄された静真は、わずかに指を動かしかけるのを寸前で止めた。だが佐徳が無遠慮に距離を詰めてきたあげく、静真の天狗面のひもを外した。
 から、と面が床を転がる中、佐徳は嗜虐の期待に満ちた表情をあからさまに落胆に変える。

「なんだ、表情変わらねえか。相変わらず気持ち悪ぃ能面だ」
「……佐徳。用はそれで終わりか」

 静真が問いかけれれば一瞬、佐徳は顔をゆがめたが。胸を叩くように押された。

「ああそうだよ、これから人界遠征だ。俺はお前と違って人の顔に変える必要があるからなぁ。大変だぜ」

 佐徳が自分の顔を撫でた瞬間、その顔は人のものに変わる。静真には必要のない変化の術だ。すれ違いざま、冷えた声音が響く。

「親父に重用されているからって混ざりもののお前が俺たちの情けで生きてること、忘れんなよ」

 そのようなこと、当の昔に知っている。普段静真の「仕事」に興味を示さぬ佐徳がああ言うのはただの息抜きだろう。これもまた日常だ。
 佐徳が立ち去った後、静真は面を拾って離れ屋に戻った。

 静真は天狗の里では異質だ。
 天狗である母が人の男に迷い生まれたのが静真だ。当時の長の娘であった母の不祥事は里に激震が走った。父であった男はすぐさま殺され、母と幼い静真は天狗の里に連れ戻されたが、母も静真が7つの時に死んだ。
 静真も殺されるはずだったが、神通力を使えたために天狗の末席に加えられた。
 以来、静真は天狗のなり損ないとして生かされている。
 だが、里の者は静真を天狗とは扱わない。なぜならば、静真が天狗だと証明するものは翼しかない。静真の顔は人そのもので、母が天狗の里を裏切ったあかしだからだ。
 しかし人間達も、外の妖も静真を天狗として扱う。ゆえにこの里でも人界でも一人だ。息苦しさも、重苦しさも、もう慣れた。



 静真にあてがわれている離れで、身支度を整えていれば、扉の外に気配を感じ去っていた。
 扉を開けば、膳が一つ置かれていた。
 いつものことだ。ここに帰れば食事は用意されている。
 一汁三菜を基本に整えられたそれは、母屋と同じ食事が運ばれてくるため、彩りも盛り付けも美しい。
 あの娘が得意げに差し出してきたどんぶりとは雲泥の差だ。
 そこまで考えたところで、静真はなぜ娘を思い出したのか不思議に思いながらもその膳を室内へと持ち込む。
 添えられていた箸を手に取り、汁物に口を付けたとたん、静真は硬直した。
 今日の主菜だった焼き魚をほぐして口に運ぶ。
 冷めているのはいつものことだ。温かい料理などここで口にしたことなどないし、これが静真の日常だった。
 煮物も、添えてある漬け物も、青菜の和え物も、白米も、離れ屋でいつも食べる味だ。
 しかし、静真の顔はだんだん険しくなっていく。
 客観的に考えて、異物が混入されているような味もしない。だが妙な食べにくさを感じていた。
 無性に、娘のところで口にしたうどんが思い起こされる。
 あちらのほうがおいしい、などと考えたところで、ようやく原因に思い至る。

「あの娘か……」

 なんとか膳を空にした静真は、乱暴に箸を置いた。
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