1 / 1
忌諱(きき)に触れる
しおりを挟む
カウンター席にいたら、たまたま隣で同じくお一人様呑みをしていた女性に話しかけられた。
常連が顔見せにやってきては長居せずに入れ替わる、酔っ払うにはまだ少し早い時間。こぢんまりした居酒屋の店内はカウンター席に六人ほど、テーブル席は五つ。内装はややくたびれているが、日本酒の品揃えがいいのと、肴が旨くて安いので気に入っている。
このところ残業続きでご無沙汰だったが、めずらしく早く仕事が終わったので、夕飯がてら寄っていこうかと思い立ったのだった。
「家に犬がいるんです」
彼女は目尻に上品な笑いじわを寄せて、柔らかな声音で話す。
明るい色に染めた髪が緩い波を作り、肩にかかっている。派手すぎない色の化粧が似合っている。
若い頃にはさぞ異性を惹きつけただろうな、とぼんやり考える。
この歳で一人暮らしの身としては浮ついた話、それから猫ならまだしも、犬とくればどちらも縁の無い話だ。
「はぁ、犬ですか」
「ええ、クリーム色のポメラニアンです。今は家で留守番してますが」
気の抜けた返しをしてしまったが、相手は意に介したようすはなかった。
「今日は家族全員が遅くなるって言うから、わたしも仕事終わりにゆっくりさせてもらおうと思ってここへ来たんですけど」
彼女はわずかに表情を曇らせる。
「ちょっと家に帰りづらくて」
箸を持つ手をカウンターに降ろし、小皿に置く。冷酒のグラスに手を伸ばしたまま静止する。
「じつは、犬の散歩で自宅から少し離れた場所まで歩き回るうちに、近くの河川敷に鬼クルミの木が生えているのを知ったんです」
こう、と両腕で円を作り、「大人が手を回しても届かないくらいの幹の太さがあって、大きいんですよ。誰が植えたわけでもなく、子どもたちが野球の練習をする広場の脇に二本、ちょっと進んだ遊歩道の脇にもすこし間を空けて五本くらい、並んで生えてるんです」
突如はじまった話の内容に少々面食らいながらも、聞いていますよ、という反応を見せるための反応を返す。
「へぇ、そうなんですか」
「で、秋になると実がなるんです。たくさんね。見たことあります?」
「え、鬼胡桃? の木ですか?」
「いえ、実です。こんなふうに――、実がなるんですよ」
言いながらカウンターの上に伏せてあったスマートフォンを取り上げると画面をいじり、こちらに見せてくる。いくつかの画像が並んでいるのが目に入った。
緑の葉っぱを背景に、わずかに尖った先がある青梅みたいな実が十個ていどひしめきあっている。縦に密集していて、まだ色づかない枇杷の実を一本の棒にくっつけたようにも見える。
「これ、食用ですか」
「らしいですよ。食べたことはないのでよくわかりませんが、風味が強いらしくて和菓子に使われたりするようです。時期になると、早朝に取りに来る人がいるみたいで、手の届く範囲はなくなってたりするから美味しいんじゃないかしら」
だから気になってはいるんですよ、と言い、細身の冷酒グラスを取り上げて、すっと口をつけた。思わず見とれるような所作だった。
しかし、話題の見通しがつかない。彼女の口振りだと、実の味に興味はあるが人の目は気になるし、朝早くに出かけてまで採りにいくほどではない、と言ったところだろうか。
カウンターの置かれたコースターの上にゆっくりとグラスを戻し、目線を落とす。天井からの照明が水面の波紋に映り、ゆらゆらと揺れて流れる。そのようすをながめているようだった。
「でも、けっこうな高さの木だから、……そう、マンションの三階くらいはあると思うんですよ。だから、上のほうはいくら長めの棒でひっぱたいても人の手では届かないはずなんです。あのあたりにリスが棲んでると聞いたことはないし、冬で葉が落ちて枯れ木状態になると、いつの間にか全部無くなってて……不思議じゃありませんか?」
「ふつうに全部、地面に転がってるのでは?」
「それが――、気になって探してみたんですけど、だれかが採った後なのか、殻が割れて中身が無くなってるのは落ちてても、丸のままなのはないんです」
「へぇ……」
「で、ですね、このあいだ犬の散歩のときに見たんですけど」
言いながら、店の奥へと視線を向ける。一点をながめるような目。記憶を見ている。
「カラスが……、電線にカラスがとまってて、黒いクチバシに丸いものを咥えてたんです」
空間を見つめていた目を伏せる。彼女の長いまつげが、年齢に応じてわずかに緩んだ肌の上に影を作る。疲れているのだろうか。
口を開いて――、
わたし、ふと視線を感じたんです。
そっちに目を向けたら電線の上から一羽のカラスが見下ろしてたんです、と独り言のように静かな口調で続ける。
カラスは真っ黒いものを咥えてて、そうね……三センチくらいの大きさで、丸いんです。うまいこと、大きなクチバシを広げて――、と言いながら両の手を合わせ、上下に重ねると手首のところからぱか、と開いて見せ、――こういう感じで、ボールみたいな丸いものを上手に挟んでいるんですよ。
店内の雑多な音を背景にし、まるで今見ている光景のように語る。
彼女は真顔で続けた。
よくあんな丸いものを、器用に咥えられるものだと本当に感心して見てました。
そしたら、それを電線から落としたんです。
大きなマンションが近くにあって、壁に音が反響して聞こえるのか、妙に響いていました、カツーンって。
まるで、固いもの……ちょっと軽くて、固い、……そうですね、内部が空洞のプラスチック製のボールってあるじゃないですか、小さい子どもが野球のまねごとをするときに使うような軽いボールです。それをアスファルトに落っことしたような感じの音がしました。
カラスは電線から道路に舞い降りて、落とした黒いものを取りに戻るんですよ。で、また電線に舞い戻って再度落っことすんです。
一息に言い切って、彼女は大きく呼吸を整えた。
「ほう、面白いですね」と合いの手を入れると、彼女はこちらも見ずに、「あれ、鬼クルミの実だったんですよ」と言った。
わたし、カラスが遊んでるのかな、と思って見てたんですけど、急に昔読んだ本の内容を思い出したんです。
カラスって固い殻のクルミを自分で割ることができないから、車の通る通りに運んでいって、道路上に置いて、車に轢かせて殻を割って食べるって話があるんですけど。
あれをまさにやろうとしてるのかと気づきました。
なかなか珍しい光景に出くわしたんだと知って……で、しばらく立ち止まって観察してました。
通りにはわたし以外、だれもいなくって。どこからも見てる人もいなくて。ふだんなら人通りがあるのに、だれもいないなんて珍しい、誰かに教えてあげたいのに、などと考えてました。
その通りは、そんなに車が通らないんです。
だからどうするつもりなのかなって思ってたら、何回か落としているうちに、ふたつに割れたんです。
カラスは喜んだかのように、これまでと違う反応で素早く舞い降りて……――
「夢中になって、中身をつつき回して食べてました」
ふと、遠い目を細め、彼女は口もとに笑みを浮かべた。
「ああ、なるほど、あんなふうにカラスが食べるから木の上の胡桃も無くなるのか、と腑に落ちました。でも」
急に口ごもる。妙な間が落ちる。
「でも?」と訊き返していた。
「数日後、また同じ場所で同じ光景に出会いました」
「同じカラスですか?」
「ええ、たぶん。……いえ、わかりません。みな同じに見えますから」
でも、と彼女は繰り返した。
「また河川敷から運んできたクルミの実を落っことしてる、と思ったんです――」
出かかる言葉を抑えようとしているかのように、彼女は右手で口もとを覆った。
見たんです、と感情のこもらない声で話す。
真っ黒い丸いものが、地面に当たったとたん、跳ね返り、弾けてふたつに割れて、そして――
「中から、なにかが出てきたんです」
ひとつ。
黒い影。
固い殻がアスファルトに当たり、乾いた音が響き渡る。地面に衝突するなり、ぱん、とふたつに弾けた中から転がり出る。
ころり、と表に現れたそれは、じわじわと蠢いて、道路の中央へと駆けた。
「あれは……、なにかの虫かと思いました。そう、あれ……動きはアシダカグモみたいな」
「あしだか?」
「ええ、ご存じありませんか? 長い脚に毛が生えた、大きな蜘蛛。そしたら、カラスが嬉々として飛びかかったんです。虫みたいなものに」
彼女の顔を見つめる。そんな馬鹿な話があるだろうか。
蜘蛛? 胡桃の……固い殻のなかに? まさか。どうやって入るんだろう。
もともと穴が開いていて、中に潜んでいたとか?
それをカラスがたまたま運んできた……?
「蜘蛛は重力に関係なく、天井でも平気で駆け回ります。器用なものです。すごく動きも機敏で。危険を察知すると、跳ねるんです。脚をすぼめて瞬時に空中に跳ね上がるんです」
かすかに声が震えている。
「カラスはそれを口に咥えて、飛び去ろうとしました。そしたら――」
彼女は「脚が」とだけ言って、口ごもる。
言葉が続かない。
「脚?」
思わずこちらから口を開く。先を促すために。
彼女の居住まいに迷いが見えた。ようやく意を決して口を開く。
「ええ、細い脚が……全部、空中でぱっと広がりました、四方に。黒い輪ゴムみたいに伸びてカラスの口にまとわりついたんです」
「……」
予測もしていなかった展開に、返す言葉は消えた。このひと、なにを言い出すんだ——?
「わたしには、そのように見えました。カラスはしばらく暴れていましたが、そのまま飛び去りました」
「……はあ」
「残された殻も変だったんです」
いえ、あれは……殻じゃ無かったのかも、とこぼすように呟く。
気になって訊ねた。
「どうしてですか?」
「だって、なくなってたんです……なんか……融けていて……、たしかに半球のかたちをしていたはずなのに、カラスがいなくなったら、黒い油みたいになっててアスファルトにべったり」
貼りついてました、と呼吸を吐きながら、彼女は力なく言葉を発した。
「あれから、犬の散歩に出ると必ずカラスに出くわすんです。なにか観察されてるみたいで……目を上げるといつもそこにいるんです。このあいだなんか……」
急に口を閉ざす。
ふと、彼女の目線が逸れ、店の奥へと顔を向けた。ゆらゆらと左右に彼女の身体が振れて、視点が定まらないのがうかがえた。
その間、何秒もかかってなかったかもしれない。
だがずいぶんと長く感じた。身体ごとこちらに向いた彼女の顔色が、照明のせいか妙に白く見えた。
すみません、と平坦な調子で声を発した。
「わたし、おかしなこと言いましたね」
「いえ、……そんな」
いいんです、と彼女が頭を横に振る。
「自分でもわかってます、気にしすぎだって。でも」
ふう、と息を吐いた。呼気にアルコールが混じっている。彼女がこちらに向けた目をまともにとらえた。
途方にくれている。そう感じた。なかばあきらめたような――、共感してくれる相手はいないのだと悟って、失望に似た色が浮かんでいる。
「カラスの目って、あんなに赤く光るものなんですね」
「なんですって?」
「電線にいたカラスの目なんですが。夕焼けの空だったせいか、反射した色が真っ赤で」
いえ、と首を傾げる。
変なことが続いてるので、気の迷いなのかもしれません、と続ける。
「このあいだ、仕事先から帰宅したら、先に帰ってた娘が言うんです。マルがいないって。マルはうちの犬の名前なんですけど……室内犬で勝手に外に出られるわけがないし、驚いてしまって、それでふたりで家中探したんですけど、でも、いない。娘とどうしようと慌ててたら、犬の足音がして、どこにいたのかふっと物陰から出てきて足元にやってきて……、いつの間にか平然とした顔をして、尻尾を振りながらこっちを見上げてたんですけど、あのこ、たしかに本当に家の中にいなかったんです」
なんだか急に薄ら寒くなった。彼女の目に、ただならぬ感情が渦巻いているのが見えた気がしたからだった。
「犬の目――って、赤く光るんですね」
「猫の目だって光りますよ」
彼女の発言に対し、とっさに言葉を返していた。
「あれは動物の目に反射板がついているからなんだそうですよ。網膜の後ろにあるタペタムという層に光を反射させて、暗がりでも見えるように視神経に伝えてるそうです。人間にはないらしいですけど」
「よくご存じなんですね」
「ああ、実家に黒猫がいますから。視線を感じて、ふと部屋の隅に目をやると眼を光らせてこっちを見てて、びっくりするなんてことはしょっちゅうです」
「そうですか、でも猫の目って赤くは光りませんよね」
真顔でそう返される。
わずかに目線を下げて、しばし静止していた。「どうしたら――」と言葉をこぼす。
うつむいた彼女の唇だけが動く。表情は見えず、音声がうまく聞き取れない。
ふたたびこちらへ顔を向けたときには、彼女は笑顔になっていた。
スマートフォンに手を伸ばし、画面の時刻を確認する。
「わたし、そろそろ失礼しますね」
なにごともなかったかのようにそう言われて、内心ほっとした気持ちになった。
グラスに残った冷酒を一気に煽り、彼女はカウンターの向こうの店主に「お愛想、お願いします」と伝えた。
勘定を済ませると、最初に見たときと同じく背筋を伸ばし、酔ったふうも見せずに流れるような所作で立ち上がる。
「話を聞いていただいてありがとうございます」
「え、いえ」
「じゃあこれで」
軽く頭を下げ、やけにヒールの音を響かせながら彼女は店の出入り口へと歩いて出て行った。
小さく溜息をもらし、泡が消えかけたビールのグラスを取り上げる。
変なひとだったな。ふつうのひとに見えたけど。
っていうか――、本当に変な話だった。
気が抜けて、味が半減したかのような麦芽色の液体を飲み下すと、ふいに視線を向けられている感じで身がすくんだ。
目の端に見える。
点。ふたつの光点。赤い色。
はっとして、振り向く。
だが、そこには対面の同伴者と楽しげに語らっている酔っ払いの男がいるだけだった。こちらを向いていた素振りもない。
気のせいかと思い直すが、さきほどまでの話の内容も相まってどうにも気になる。
与太話だ、と自分に言い聞かせる。
知っている。人間だって、カメラのフラッシュで目が赤く光って映るのはよくあることだ。
犬だってそう。猫の目はわずかな光で黄色や緑に光るけど、犬は目の反射板であるタペタムの色で緑、網膜血管が反射すると赤に光る。
目のどの場所で光を反射するかで、見える色が違うだけの話だ。
わかっていれば、どうということもないのだから。
無意識に溜息が転がり出た。
今日はもう帰ろう、とカウンターの上の料理を片づけはじめた。
❇︎ ❇︎ ❇︎
店から出ると、すっかり夜の帳が下りていた。通りに居並ぶ店舗と繁華街のビル群に挟まれて、上空の朧夜にやけに大きく見える丸い月がある。
周囲の照明が明るいせいか、闇が薄く白んで見え、星は見えない。
幾人もの仕事帰りの人影が帰宅の途につく。
視線を感じる。話を聞いてしまったから。
突然なにか、世界の基準が変わってしまったかのような違和感があった。
あの時、彼女が言い残した言葉。唇の動き。
どうしたら――、と聞こえた。
店内の雑音が幻聴で再生された。かき消されるような細い声。
記憶の中での映像。口もとの動きで、なんと言ったのかを今となって思い知る。
忌々しげに吐き捨てる。先ほどの女の声が呪詛のように頭の中に響いた。
「――あいつら、どうしたらいいでしょうね」
こんな夜分なのに、間近でカラスの声が聞こえた。
どこにいたのかと思うほど、あちこちから力強く、警戒を告げるかのように繁華街の通りに幾度も烏鳴きがあふれる。
囲まれていると気づき、背筋にすうっと冷気が落ちる。思わず身震いしている自分がいた。
数えきれぬ数の、飛び立つ羽音を聞く。
眼を上げたとき、たくさんの赤い光点が見えた気がした。
常連が顔見せにやってきては長居せずに入れ替わる、酔っ払うにはまだ少し早い時間。こぢんまりした居酒屋の店内はカウンター席に六人ほど、テーブル席は五つ。内装はややくたびれているが、日本酒の品揃えがいいのと、肴が旨くて安いので気に入っている。
このところ残業続きでご無沙汰だったが、めずらしく早く仕事が終わったので、夕飯がてら寄っていこうかと思い立ったのだった。
「家に犬がいるんです」
彼女は目尻に上品な笑いじわを寄せて、柔らかな声音で話す。
明るい色に染めた髪が緩い波を作り、肩にかかっている。派手すぎない色の化粧が似合っている。
若い頃にはさぞ異性を惹きつけただろうな、とぼんやり考える。
この歳で一人暮らしの身としては浮ついた話、それから猫ならまだしも、犬とくればどちらも縁の無い話だ。
「はぁ、犬ですか」
「ええ、クリーム色のポメラニアンです。今は家で留守番してますが」
気の抜けた返しをしてしまったが、相手は意に介したようすはなかった。
「今日は家族全員が遅くなるって言うから、わたしも仕事終わりにゆっくりさせてもらおうと思ってここへ来たんですけど」
彼女はわずかに表情を曇らせる。
「ちょっと家に帰りづらくて」
箸を持つ手をカウンターに降ろし、小皿に置く。冷酒のグラスに手を伸ばしたまま静止する。
「じつは、犬の散歩で自宅から少し離れた場所まで歩き回るうちに、近くの河川敷に鬼クルミの木が生えているのを知ったんです」
こう、と両腕で円を作り、「大人が手を回しても届かないくらいの幹の太さがあって、大きいんですよ。誰が植えたわけでもなく、子どもたちが野球の練習をする広場の脇に二本、ちょっと進んだ遊歩道の脇にもすこし間を空けて五本くらい、並んで生えてるんです」
突如はじまった話の内容に少々面食らいながらも、聞いていますよ、という反応を見せるための反応を返す。
「へぇ、そうなんですか」
「で、秋になると実がなるんです。たくさんね。見たことあります?」
「え、鬼胡桃? の木ですか?」
「いえ、実です。こんなふうに――、実がなるんですよ」
言いながらカウンターの上に伏せてあったスマートフォンを取り上げると画面をいじり、こちらに見せてくる。いくつかの画像が並んでいるのが目に入った。
緑の葉っぱを背景に、わずかに尖った先がある青梅みたいな実が十個ていどひしめきあっている。縦に密集していて、まだ色づかない枇杷の実を一本の棒にくっつけたようにも見える。
「これ、食用ですか」
「らしいですよ。食べたことはないのでよくわかりませんが、風味が強いらしくて和菓子に使われたりするようです。時期になると、早朝に取りに来る人がいるみたいで、手の届く範囲はなくなってたりするから美味しいんじゃないかしら」
だから気になってはいるんですよ、と言い、細身の冷酒グラスを取り上げて、すっと口をつけた。思わず見とれるような所作だった。
しかし、話題の見通しがつかない。彼女の口振りだと、実の味に興味はあるが人の目は気になるし、朝早くに出かけてまで採りにいくほどではない、と言ったところだろうか。
カウンターの置かれたコースターの上にゆっくりとグラスを戻し、目線を落とす。天井からの照明が水面の波紋に映り、ゆらゆらと揺れて流れる。そのようすをながめているようだった。
「でも、けっこうな高さの木だから、……そう、マンションの三階くらいはあると思うんですよ。だから、上のほうはいくら長めの棒でひっぱたいても人の手では届かないはずなんです。あのあたりにリスが棲んでると聞いたことはないし、冬で葉が落ちて枯れ木状態になると、いつの間にか全部無くなってて……不思議じゃありませんか?」
「ふつうに全部、地面に転がってるのでは?」
「それが――、気になって探してみたんですけど、だれかが採った後なのか、殻が割れて中身が無くなってるのは落ちてても、丸のままなのはないんです」
「へぇ……」
「で、ですね、このあいだ犬の散歩のときに見たんですけど」
言いながら、店の奥へと視線を向ける。一点をながめるような目。記憶を見ている。
「カラスが……、電線にカラスがとまってて、黒いクチバシに丸いものを咥えてたんです」
空間を見つめていた目を伏せる。彼女の長いまつげが、年齢に応じてわずかに緩んだ肌の上に影を作る。疲れているのだろうか。
口を開いて――、
わたし、ふと視線を感じたんです。
そっちに目を向けたら電線の上から一羽のカラスが見下ろしてたんです、と独り言のように静かな口調で続ける。
カラスは真っ黒いものを咥えてて、そうね……三センチくらいの大きさで、丸いんです。うまいこと、大きなクチバシを広げて――、と言いながら両の手を合わせ、上下に重ねると手首のところからぱか、と開いて見せ、――こういう感じで、ボールみたいな丸いものを上手に挟んでいるんですよ。
店内の雑多な音を背景にし、まるで今見ている光景のように語る。
彼女は真顔で続けた。
よくあんな丸いものを、器用に咥えられるものだと本当に感心して見てました。
そしたら、それを電線から落としたんです。
大きなマンションが近くにあって、壁に音が反響して聞こえるのか、妙に響いていました、カツーンって。
まるで、固いもの……ちょっと軽くて、固い、……そうですね、内部が空洞のプラスチック製のボールってあるじゃないですか、小さい子どもが野球のまねごとをするときに使うような軽いボールです。それをアスファルトに落っことしたような感じの音がしました。
カラスは電線から道路に舞い降りて、落とした黒いものを取りに戻るんですよ。で、また電線に舞い戻って再度落っことすんです。
一息に言い切って、彼女は大きく呼吸を整えた。
「ほう、面白いですね」と合いの手を入れると、彼女はこちらも見ずに、「あれ、鬼クルミの実だったんですよ」と言った。
わたし、カラスが遊んでるのかな、と思って見てたんですけど、急に昔読んだ本の内容を思い出したんです。
カラスって固い殻のクルミを自分で割ることができないから、車の通る通りに運んでいって、道路上に置いて、車に轢かせて殻を割って食べるって話があるんですけど。
あれをまさにやろうとしてるのかと気づきました。
なかなか珍しい光景に出くわしたんだと知って……で、しばらく立ち止まって観察してました。
通りにはわたし以外、だれもいなくって。どこからも見てる人もいなくて。ふだんなら人通りがあるのに、だれもいないなんて珍しい、誰かに教えてあげたいのに、などと考えてました。
その通りは、そんなに車が通らないんです。
だからどうするつもりなのかなって思ってたら、何回か落としているうちに、ふたつに割れたんです。
カラスは喜んだかのように、これまでと違う反応で素早く舞い降りて……――
「夢中になって、中身をつつき回して食べてました」
ふと、遠い目を細め、彼女は口もとに笑みを浮かべた。
「ああ、なるほど、あんなふうにカラスが食べるから木の上の胡桃も無くなるのか、と腑に落ちました。でも」
急に口ごもる。妙な間が落ちる。
「でも?」と訊き返していた。
「数日後、また同じ場所で同じ光景に出会いました」
「同じカラスですか?」
「ええ、たぶん。……いえ、わかりません。みな同じに見えますから」
でも、と彼女は繰り返した。
「また河川敷から運んできたクルミの実を落っことしてる、と思ったんです――」
出かかる言葉を抑えようとしているかのように、彼女は右手で口もとを覆った。
見たんです、と感情のこもらない声で話す。
真っ黒い丸いものが、地面に当たったとたん、跳ね返り、弾けてふたつに割れて、そして――
「中から、なにかが出てきたんです」
ひとつ。
黒い影。
固い殻がアスファルトに当たり、乾いた音が響き渡る。地面に衝突するなり、ぱん、とふたつに弾けた中から転がり出る。
ころり、と表に現れたそれは、じわじわと蠢いて、道路の中央へと駆けた。
「あれは……、なにかの虫かと思いました。そう、あれ……動きはアシダカグモみたいな」
「あしだか?」
「ええ、ご存じありませんか? 長い脚に毛が生えた、大きな蜘蛛。そしたら、カラスが嬉々として飛びかかったんです。虫みたいなものに」
彼女の顔を見つめる。そんな馬鹿な話があるだろうか。
蜘蛛? 胡桃の……固い殻のなかに? まさか。どうやって入るんだろう。
もともと穴が開いていて、中に潜んでいたとか?
それをカラスがたまたま運んできた……?
「蜘蛛は重力に関係なく、天井でも平気で駆け回ります。器用なものです。すごく動きも機敏で。危険を察知すると、跳ねるんです。脚をすぼめて瞬時に空中に跳ね上がるんです」
かすかに声が震えている。
「カラスはそれを口に咥えて、飛び去ろうとしました。そしたら――」
彼女は「脚が」とだけ言って、口ごもる。
言葉が続かない。
「脚?」
思わずこちらから口を開く。先を促すために。
彼女の居住まいに迷いが見えた。ようやく意を決して口を開く。
「ええ、細い脚が……全部、空中でぱっと広がりました、四方に。黒い輪ゴムみたいに伸びてカラスの口にまとわりついたんです」
「……」
予測もしていなかった展開に、返す言葉は消えた。このひと、なにを言い出すんだ——?
「わたしには、そのように見えました。カラスはしばらく暴れていましたが、そのまま飛び去りました」
「……はあ」
「残された殻も変だったんです」
いえ、あれは……殻じゃ無かったのかも、とこぼすように呟く。
気になって訊ねた。
「どうしてですか?」
「だって、なくなってたんです……なんか……融けていて……、たしかに半球のかたちをしていたはずなのに、カラスがいなくなったら、黒い油みたいになっててアスファルトにべったり」
貼りついてました、と呼吸を吐きながら、彼女は力なく言葉を発した。
「あれから、犬の散歩に出ると必ずカラスに出くわすんです。なにか観察されてるみたいで……目を上げるといつもそこにいるんです。このあいだなんか……」
急に口を閉ざす。
ふと、彼女の目線が逸れ、店の奥へと顔を向けた。ゆらゆらと左右に彼女の身体が振れて、視点が定まらないのがうかがえた。
その間、何秒もかかってなかったかもしれない。
だがずいぶんと長く感じた。身体ごとこちらに向いた彼女の顔色が、照明のせいか妙に白く見えた。
すみません、と平坦な調子で声を発した。
「わたし、おかしなこと言いましたね」
「いえ、……そんな」
いいんです、と彼女が頭を横に振る。
「自分でもわかってます、気にしすぎだって。でも」
ふう、と息を吐いた。呼気にアルコールが混じっている。彼女がこちらに向けた目をまともにとらえた。
途方にくれている。そう感じた。なかばあきらめたような――、共感してくれる相手はいないのだと悟って、失望に似た色が浮かんでいる。
「カラスの目って、あんなに赤く光るものなんですね」
「なんですって?」
「電線にいたカラスの目なんですが。夕焼けの空だったせいか、反射した色が真っ赤で」
いえ、と首を傾げる。
変なことが続いてるので、気の迷いなのかもしれません、と続ける。
「このあいだ、仕事先から帰宅したら、先に帰ってた娘が言うんです。マルがいないって。マルはうちの犬の名前なんですけど……室内犬で勝手に外に出られるわけがないし、驚いてしまって、それでふたりで家中探したんですけど、でも、いない。娘とどうしようと慌ててたら、犬の足音がして、どこにいたのかふっと物陰から出てきて足元にやってきて……、いつの間にか平然とした顔をして、尻尾を振りながらこっちを見上げてたんですけど、あのこ、たしかに本当に家の中にいなかったんです」
なんだか急に薄ら寒くなった。彼女の目に、ただならぬ感情が渦巻いているのが見えた気がしたからだった。
「犬の目――って、赤く光るんですね」
「猫の目だって光りますよ」
彼女の発言に対し、とっさに言葉を返していた。
「あれは動物の目に反射板がついているからなんだそうですよ。網膜の後ろにあるタペタムという層に光を反射させて、暗がりでも見えるように視神経に伝えてるそうです。人間にはないらしいですけど」
「よくご存じなんですね」
「ああ、実家に黒猫がいますから。視線を感じて、ふと部屋の隅に目をやると眼を光らせてこっちを見てて、びっくりするなんてことはしょっちゅうです」
「そうですか、でも猫の目って赤くは光りませんよね」
真顔でそう返される。
わずかに目線を下げて、しばし静止していた。「どうしたら――」と言葉をこぼす。
うつむいた彼女の唇だけが動く。表情は見えず、音声がうまく聞き取れない。
ふたたびこちらへ顔を向けたときには、彼女は笑顔になっていた。
スマートフォンに手を伸ばし、画面の時刻を確認する。
「わたし、そろそろ失礼しますね」
なにごともなかったかのようにそう言われて、内心ほっとした気持ちになった。
グラスに残った冷酒を一気に煽り、彼女はカウンターの向こうの店主に「お愛想、お願いします」と伝えた。
勘定を済ませると、最初に見たときと同じく背筋を伸ばし、酔ったふうも見せずに流れるような所作で立ち上がる。
「話を聞いていただいてありがとうございます」
「え、いえ」
「じゃあこれで」
軽く頭を下げ、やけにヒールの音を響かせながら彼女は店の出入り口へと歩いて出て行った。
小さく溜息をもらし、泡が消えかけたビールのグラスを取り上げる。
変なひとだったな。ふつうのひとに見えたけど。
っていうか――、本当に変な話だった。
気が抜けて、味が半減したかのような麦芽色の液体を飲み下すと、ふいに視線を向けられている感じで身がすくんだ。
目の端に見える。
点。ふたつの光点。赤い色。
はっとして、振り向く。
だが、そこには対面の同伴者と楽しげに語らっている酔っ払いの男がいるだけだった。こちらを向いていた素振りもない。
気のせいかと思い直すが、さきほどまでの話の内容も相まってどうにも気になる。
与太話だ、と自分に言い聞かせる。
知っている。人間だって、カメラのフラッシュで目が赤く光って映るのはよくあることだ。
犬だってそう。猫の目はわずかな光で黄色や緑に光るけど、犬は目の反射板であるタペタムの色で緑、網膜血管が反射すると赤に光る。
目のどの場所で光を反射するかで、見える色が違うだけの話だ。
わかっていれば、どうということもないのだから。
無意識に溜息が転がり出た。
今日はもう帰ろう、とカウンターの上の料理を片づけはじめた。
❇︎ ❇︎ ❇︎
店から出ると、すっかり夜の帳が下りていた。通りに居並ぶ店舗と繁華街のビル群に挟まれて、上空の朧夜にやけに大きく見える丸い月がある。
周囲の照明が明るいせいか、闇が薄く白んで見え、星は見えない。
幾人もの仕事帰りの人影が帰宅の途につく。
視線を感じる。話を聞いてしまったから。
突然なにか、世界の基準が変わってしまったかのような違和感があった。
あの時、彼女が言い残した言葉。唇の動き。
どうしたら――、と聞こえた。
店内の雑音が幻聴で再生された。かき消されるような細い声。
記憶の中での映像。口もとの動きで、なんと言ったのかを今となって思い知る。
忌々しげに吐き捨てる。先ほどの女の声が呪詛のように頭の中に響いた。
「――あいつら、どうしたらいいでしょうね」
こんな夜分なのに、間近でカラスの声が聞こえた。
どこにいたのかと思うほど、あちこちから力強く、警戒を告げるかのように繁華街の通りに幾度も烏鳴きがあふれる。
囲まれていると気づき、背筋にすうっと冷気が落ちる。思わず身震いしている自分がいた。
数えきれぬ数の、飛び立つ羽音を聞く。
眼を上げたとき、たくさんの赤い光点が見えた気がした。
0
お気に入りに追加
3
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
峠の幽霊
内田ユライ
ホラー
峠の語源は「手向け」が転じたものである。
急坂の頂上にある草ぼうぼうの領域へと目が向く。
子どもは急坂を登りはじめる。足は自然と廃屋へと向かった。
「手向け」の場所は、ひとでないものが潜む。
少年と少女が選んだ未来は——
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
怪談居酒屋~幽へようこそ~
弾
ホラー
コインロッカーベイビーにベッドの下男、はたまたターボババアまで。あんな怪異やこんな怪談に遭遇した人が助けを求めて駆け込む場所があった。それが怪談居酒屋『幽』
優しい美人女将といつも飲んだくれている坊主が貴方の不思議の相談にのります。
今宵も店には奇怪な体験をした人が現れて……
怪談や都市伝説を題材にしたちょっと怖くてちょっといい話。ホラーあり都市伝説講座ありの小説です。
おかえり、さっちゃん。
柚木崎 史乃
ホラー
中学二年生の春。僕は、小日向幸という女子生徒と仲良くなった。
彼女はいじめられっ子で、毎日のようにクラスメイトたちから虐げられていた。
そんなある日、どういうわけか幸をいじめていた生徒たちの私物が度々盗まれるようになる。
やがて、生徒たち自身にも次々と災難が降りかかるようになり、「あのクラスは呪われている」と噂が立つようになるが──。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる