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第一章 マンハッタン
しおりを挟む日本の大学病院からNYへ移ったばかりの頃、ルカはERにオンコールされ、病院に駆けつけて初めてタカシと出会った。
『He's a Japanese ,Lukas! There is a laceration from the eyelid of the left eye. (患者は日本人、左目を瞼の上から裂傷だ、ルカ)』
眼科医としてこちらに来ていた山口瑠歌は、新約聖書に出てくる医師のセイント、ルカ(Lukas)とニックネームで呼ばれていた。
『……お名前は言えますか?大丈夫ですよ、僕は日本人医師で、山口といいます…』
殴打された傷と鋭利なナイフで切り裂かれた左目。ダウンタウンで犠牲になったのだろうか。治安の悪い地域からアンビュランスで搬送されてきたという。
『………Please help him!………Please, save his life!』
彼が殴打されて血まみれになった口をわずかに動かし、助けてくれ…と訴えている。
『Dr. Arthur, Isn't there patient who has been transported besides him?(アーサー先生、彼のほかに搬送された患者はいたんですか?)』
『He's dead. He is already “sterben”(彼は既に亡くなってたよ)』
彼が助けを求める“友”はストレッチャーに載せられ、ブルーシートが被せられ、既に遺体になってERの処置室に安置されていた。
左目と顔面に傷を負った彼は上杉タカシと名乗った。日本からジャズピアノの武者修行に来ていたという。あと、ほんの少し処置が遅れていたら、彼は左目の視力を失うところだった。痛みと精神的に興奮がみられた為、ルカはその後内科医と交替し、ERからまっすぐ帰宅の途についた。
…………Please, save his life.
自分があんなに重傷な状態にあっても、仲間を助けてくれ…と訴えていたタカシ。
『……どのみちオレは眼科だし…助けられっこなかったんだよ…深く考えるのは……よせ………』
ルカは自分に言い聞かせるようにして、さっきまでのタカシの言葉を振り切ろうとした。同じ日本人だからなのだろうか?彼のことが頭から離れないでいた。
翌朝、登院してすぐにルカは彼の様子を見に行くことにした。タカシは一般病棟に移され、病棟医が担当になっていたが、構わず彼はタカシの病室をノックした。“I'm here…”と室内から力ない返事がする。
「…目の具合は如何ですか?覚えていらっしゃらないかもしれないですが、昨日、処置をさせて頂いた、山口です」
「……覚えていますよ。日本人のお医者さんに会えるなんてね。……有難うございました。」
「……お連れの方ですが…」
「……知ってます。さっきNY市警の方が来て、教えてくれました」
「……おそらく、助けることは不可能だったでしょう。あの傷では、ほぼ即死だと…。それでもあなたが自分よりも彼をアンビュランスで一刻も早く運びたかったのだと…すぐに解りました」
「…………」
「お辛いでしょうけれど…。余計なことですが、あなたが悲しんでいると、亡くなられた方も、とても辛いのではないかと…」
「…彼、いや、ユキトは……オレを庇ってナイフで刺されたんです。オレが…殺したようなものだ」
この人は……自分をこのままずっと責め続けてしまうのではないだろうか?ルカはこの病室に訪れてしまったことを、いまさらではあるが後悔していた。
中途半端に患者のプライベートに関わるなんて、いまどきの研修医でさえやらないことだ。
何やってんだろう、オレ………。
自分で自分のことを最悪だと思ってしまった。
「……上杉さん、ご友人は決して、あなたを恨んだりすることはないと思います。あなたの命を救ったことに、安心して逝かれたのだと…」
そんなことをタカシに言う自分をしらじらしく思う。だが、タカシはルカの言葉に安堵したような小さな笑みを浮かべてくれた。たとえそれが心の底からの笑いでないと解っていても。
その日を境にルカは自分の診療時間の空きをみては、タカシの病室を訪ねた。他愛もない話をし、彼の様子を常に気にかけていた。数日後、左目の包帯も取れ、タカシは退院することになった。眼科の診察室のドアがノックされ、ルカが振り返ると、そこにはタカシが立っていた。予想もしなかった突然の訪問だった。ルカは自分だけが、彼を気にかけすぎていたとすっかり思い込んでいたからだ。
「……今日、退院することになりました。なんか…いろいろ先生には世話になっちゃって」
「よかったですね。左目の視力もなんとか影響無さそうだし」
……話したいのは、そんなことではなかった。そんなことじゃないのに。
オレは……どうして、一患者にすぎないあなたが気になるんだろう?そんな淋しそうな顔で、オレの知らない世界をずっと見渡しているような…。あなたという人は…いったい…。
ケーシーの上からでも解りそうなくらいに、触れれば、心臓が飛び出しそうなほど高鳴って…。
「……先生、今度、ユキトの葬式、一緒に立ち会ってもらえませんか?」
ふいにタカシがルカに願い出た意外な一言に、彼は驚いた。
「…身内の葬式は先日、オレの入院中に終わってるんですが…アメージンググレイス、そういう場で聴きたくなくて…」
「………オレで、よければ…」
ルカは即答していた。何故だかわからない。ただ……彼、上杉タカシのためになるのであれば…と、そういう想いだけだった。
彼が亡くなった日と同じように、タカシがルカとユキトを弔う約束の日は、雨が降っていた。正装したタカシとルカが共同墓地の片隅にある、小さな墓石に祈りを捧げた。
「……コイツ、オレにどこか似ていて、孤独だったみたいです。身内もそんなにこの国にはいなくて。だからカタチだけでアメージンググレイスとバグパイプで送られるのって…ホントはイヤだったんじゃないか…って」
「…彼とは音楽の知り合いだったんですか?」
「…ええ、まぁ。酒場で知り合って、意気投合して、たまにセッションしたり。オレ、こっちにピアノの修行に来ていて。彼も、ウッドベースの音に魅せられて、こっちに居ついていたみたいで」
「……大切な音楽仲間だったんですね」
仲間………。そのとても簡単な言葉の奥深くに、自分とユキトの関係が濃縮されている。米国に来てから好きな音楽のためとはいえ、多少自信があった自分のピアノプレイヤーとしての腕も、本場のジャズピアニストたちに会えばあうほど、挫折感を味わった。
すっかり叩きのめされた気分で酒場にいたとき、声をかけてきてくれたのがユキトだった。
『凹むなよ、タカシ。Rain stops without fail』
あのときのユキトの慰めの言葉が…とても胸に染みてくる。
「……Will you also have had the dream? Do not die easily. (お前にも夢があっただろう?なぁ…?ユキト?あっさり死ぬなよ)」
厳しい表情で死者にそう語りかけるタカシは決して涙をみせなかった。それをみていたルカはごく短期間でこのタカシと関わったとは思えないほど、彼の心が解り過ぎて辛かった。その後雨のせいもあり、二人は早めに墓地を後にした。
「…先生に風邪をひかせては大変ですよね」
タカシはそういうと、ルカを自分のアパートメントに誘った。むさ苦しいところですが、温かいシャワーでも浴びて、コーヒーぐらい飲んでいって下さい…と。
それがどういうニュアンスなのか、ルカには当初解らなかった。が、しかし、それが情事の誘いだと気付いた瞬間、今まで、同性とそんな経験はなかったはずだったのに、不思議と困惑と逡巡も感じなかった。
何故か、タカシの言葉にすることの出来ない感情が解ってしまう。タカシが……自分を欲しているような気がしたからだ。
以前、患者として診たジプシーの老婆がこんなことを言っていた。人間には輪廻があって、過去のカルマがあるように、過去からの因縁のフレンドシップがあるのだと。その人間とは、言葉を交さなくとも、通じ合うことが出来、わかりあうことが出来ると。
(今なら……あの老婆の言ったことがわかるような気がするな…。)
ルカは思い出して苦笑していた。
タカシのアパートメントは表通りから一本入ったところにあった。コンクリートで打ちっぱなしの壁と、殺風景な部屋の中央に、ピアノだけが大切に置かれていた。それ以外には造り付けのベッドと、丸いテーブル。テーブルの周りには酒瓶が数本と音楽雑誌が落ちていた。
「…オレの部屋よりは…キレイかな?なんて…ね。冗談ですよ」
手持ち無沙汰で、少し緊張した自分をごまかすようにして、ルカは冗談を言ってみせた。タカシは無言で玄関のドアを閉め、鍵をかけると、ルカの手首をぐいっと掴んだ。
「……………。」
無言のまま、ルカはタカシの眼を見つめる。タカシはそんな彼に怯むことなく、ルカの体を強引に引き寄せると、噛み付くように彼の唇を奪った。そして、すぐに唇を離すと、彼の顔を間近にしたまま、囁く。
「……逃げないの、先生?…でなきゃ、オレ…自分の眼を治してくれたあなたに、今からかなり失礼なことをするつもりです」
「……ええ。言われなくても…解っています…何故だかわかりませんが…」
予想していた答えとは違ったルカの言葉に、タカシは驚きを隠せなかった。
「…何故?」
「……さぁ?あなたはオレを騙して連れ込んだつもりだったんですか?でも………」
「…………」
「オレがイヤだと言ったら、あっさり笑って帰してくれたんでしょう?そして、永遠にサヨナラだ…。違いますか?」
「………まいったな。何故そこまで…?」
「オレにも…実のところ、解らないんです。ただ、運命ってこういうことを言うんじゃないかと。オレも医者って仕事をしていると、非科学的なことを馬鹿にしつつも、どこかで存在していて欲しいって想いがあるんですよ…」
「…………先生、オレ、先生を騙すつもりで部屋になんて…誘ってないですよ」
「………よかった。騙されていたら、少し、悲しいですから」
「…なんでかな?オレ、親友を亡くしてヘンになっているんじゃないかと…。でも、オレは先生にとても惹かれているんです。冗談みたいでしょ?笑ってやってください」
打ちひしがれ、傷ついたタカシをいったいどうして笑えようか?
「タカシさん……オレのこと、好きですか?」
ルカはタカシの手をとった。
「………なら、オレのこと、抱いてくれてかまわないから」
「…ですが、先生…オレは…先生に…」
「……オレを好きなら、遠慮はしないでください。オレも……あなたが好きだから」
窓の外は雨………。タカシの腕のなかにルカは身を任せた。こんな愛は初めてだった。強烈にその魂に惹かれていた。
タカシというめぐり合ったばかりの存在に、全てを投げ出してしまいたくなる衝動。自分の目を見つめながら、やさしくタカシは口付けてくる。何度も…何度も…愛しげに。彼の心を癒すつもりでいたのに、癒されているのは自分だと気付いてしまう。
「……先生、先生ってカワイイ人ですね」
ふいにからかうようにタカシが笑うと、ルカは頬を染める。
「……その、“先生”っていうの、やめてください。“ルカ”って…みんなのようにあだ名でもいいですし…」
「承知しました、ルカ。あなたの仰せのとおりに」
タカシはふっ…と一瞬、とても幸せそうに笑った。そんな彼の顔見てルカも思う。そう…、せめてオレと肌を重ねている間だけでいい。ユキトの死を忘れてくれたなら…。
「ルカ……」
「……男に抱かれるのって、初めて?」
耳朶にタカシの唇が触れそうなほど近づいて、そんなふうに訊ねられた。恐怖を感じないといえば、嘘になる。カラダがわずかに震えた。そんな問いに敢えて答えられるわけがなくて。こんな気持ちに今までなったことがなかった。
あなたが初めてです、タカシ…。あなたがオレの心を両手で握りつぶしてしまうほど、強く抱きしめてくるから。だから、あなたが望むのであれば、よろこんで、オレはあなたのものになってもいい、そう思えたから。
見つめあって、何度もキスをして、タカシはルカの柔らかな首筋にもキスを落とした。小さく震えるルカに、
「大丈夫だから」
と華奢な指先を自分の手と絡ませて。そのひとつ、ひとつが、優しかった。
「ルカ、オレ………あなたに会えて、本当によかった………」
泣きそうな顔で笑うタカシ。墓標の前では絶対にそんな顔をしなかったのに。上から見つめてくるタカシの胸に、ルカはそっと指先を添えてつぶやく。
「………オレも、あなたの心《ここ》に、住まわせてもらえますか、永遠に…」
「あなたの心が痛むなら、オレ、常にこのなかに居て、痛み止め代わりになれるかも…」
…もっとも、眼科医ですが。ルカがそう付け足すと、タカシは返事をする代わりに荒々しく口付けた。タカシの少し乱れた髪から、コロンの香りがする。その全てが愛しくて、髪に指を入れて梳いてみる。
静かに時間が流れていく。誰にも邪魔されない二人だけの時間。白いシーツのなかで、ゆったりと快楽に身を任せて、ルカは想う。自分が自分でなくなっている……と。タカシに愛され、彼を受け止めている自分。彼と繋がって、理性では抑えきれない声をつむいで、彼と見つめあって…。
汗ばんだ肩に手をまわす。広いタカシの背中。筋肉のついた腰。コロンの甘い香り…。
「…………ルカ……………好きだ。あなたに会えてうれしい」
その言葉に偽りはありませんか、タカシ?あなたはオレに、まだ何か隠しているようだ。
まだ………。
初めて結ばれたあと、強烈な眠気に襲われながらも、ルカは正気を保っていた。眠ったふりをすれば…彼はおのずと何を隠しているのか、教えてくれるだろう。
しばらくの間、目を閉じていた……。そして自分が思った通り、彼は動いた。ベッドからそっと長い足で彼は抜け出し、ベッドサイドに立ち、屈んでルカの頬にキスを落としてきた。
「……ルカ、ごめん。オレ……やんなきゃならないことがあるんです。無事で帰れないかもしれなかったから、だからオレ……あなたを最後にどうしても抱きたくて……」
小さな声でタカシが自分に語りかけている。そのあと背を向け、タカシは服のポケットに入っていたナイフを取り出した。異常なまでに光る刃先。タカシはそれをじっとみつめている。
「………危ないじゃないですか」
ルカはベッドからそっと起き出してくると、黙ってナイフを取り上げた。
「返してくれ!!」
「……断ります。あなたのその長くて節の太い芸術的な指は、鍵盤を叩くためのものでしょう?こんな物騒なものを握るためのものではないですからね!」
「返せっ!オレはどうしても…」
「…どうしてもユキトの仇を討ちに盛り場へいくとでも?ふざけるものいい加減にしろっ!」
「……あなたには解ってはもらえないですよ。世の中、キレイゴトばかりじゃすまないんだ」
「だったら……そうやって、彼の死も、醜い血で染めてしまうんですかっ!?あなたが今やりに行こうとしていることは、そういうことなんですよ、タカシさん!」
ユキトの死を醜い血で染めてしまう…。ルカのその言葉に、タカシは膝を折った。肩を落として、悔しそうに叫び声をあげ…。
「………泣いて、下さい。あなたは、それをずっと我慢してきたから」
ルカはタカシのそばに屈みこみ、彼の背中をそっと撫でた。
強い人だ…………。だからこそ、泣いてください………。あなたは滅多に泣いたりしない人なんでしょうね、タカシ………。
タカシをそのまま抱きとめて、ルカは彼の震える背中を、何度も何度も撫で続けた。
*******************************
ルカは今日もいつものように病院で診察をしている。あの日以来、タカシとは会っていない。だが、不思議と離れていても、以前よりも彼を身近に感じることが出来る気がした。彼はもう、ユキトの仇を討つことはない…。そう信じることが出来る。
帰宅しようといつものようにスタッフ用のエントランスを出たところで、ルカは柱の影に見覚えのある姿を見つけた。タカシだった。
「………タカシさん」
やぁ?と少しはにかんだような、こどもっぽい笑いで、タカシは手をあげた。
「ねぇルカ……今夜、暇?オレ、あなたのために貸切ライブするから…」
そのセリフを言うために、恥ずかしがり屋の彼がどれほど頑張ったのかが、ルカには痛いほどわかる。いまだにそっぽを向きながら、ルカと目を合わせないようにしているタカシ…。
「……行かないわけないでしょう?ほかならぬあなたからの招待なのに」
バツの悪そうなタカシの首に手をまわし、ルカは彼を抱き寄せた。
「愛しています…………タカシさん」
二人の頭上には夏の夜空が広がっていた。止まない雨がないと、まるで教えてくれているかのように。
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