ある冬の朝

結城りえる

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第三章 終わりよければ…?

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 慎太郎は笹本と共に最寄り駅の入り口で武岡を待っていた。待ち合わせ時間を10分ほど過ぎた頃、ようやく武岡が現れた。
「いや、待たせてすまなかったな」
「遅刻魔だからな、昔っから」
「智之…社外ではなかなか当たりがキツいじゃないか?」
「当然だろう?もう仕事は終わった。お前の“部長バリア”は効果ないからな」
 二人の掛け合いに慎太郎は目を丸くしていた。社内ではとてもよそよそしくしていた笹本が、会社を出た途端、部長の武岡を“お前”と呼んでいる。なるほど、幼馴染みなだけある。
「ほら、有望な人材をほったらかしにするんじゃない、智之。彼がドン引きしてるじゃないか」
 武岡は慎太郎の左肩をぎゅっと掴み、右側にいた自分に引き寄せた。慎太郎は思わず固まった。このようなスキンシップは何時以来だろうか?アメリカにいた頃以来だろう。あの頃は皆、クレイジーで変なやつもいたけれど、とても優しかった。そして何よりも、自分の居場所がちゃんとあった。
「シゲもいい加減オレが気を遣っていることに気付けよ。出世するたびに敵を作ることになるんだぞ?オレはお前にそういう苦労をして欲しくないからな。ちゃんと距離を作ってだな……って、おいっ!お前!浅野を連れて先に行くな!!」
 笹本が武岡に対して自分の考えを主張していると、それをスルーしてニヤリと笑い、彼は慎太郎を引っ張って歩き出していた。
「智之!早く来ないと置いていくぞ!!」
「こらっ!場所わかってンのか、シゲ?」
「判らなくなったら浅野君に案内してもらうよ」
「バカヤロウ!今日は思いっきりたかってやるから覚悟しろよ!!」
 本当に仲が良いのだろう。慎太郎は後ろを振り返りながら、武岡と笹本の距離をつなぐようにそう思った。
  笹本は店にしっかり予約を入れておいたらしく、すぐに奥の個室へと案内された。
「洒落た居酒屋だな。間接照明が暗すぎず、明るすぎず…」
 武岡は落ち着いた雰囲気が気に入ったようだ。
「お前、インテリアとか空間デザインも味のひとつだってうるさいだろう?」
「ああ、そうだ。面倒くさいヤツだからな」
 笑いながら同意を求めるかのように武岡は慎太郎に片目をつぶってみせる。社内で見ている落ち着いた雰囲気とうって変わり、彼の茶目っ気ある表情に慎太郎は親近感を覚えた。
「よくもまぁ、こういうお洒落な店を知ってるもんだ。智之はなかなか隅に置けない。どうせ彼女とのデートコースだろう」
「うるさいぞ、シゲ。お前に奢ってもらえるからこういう店にしたんだよ!自分で行くなら新宿の安酒場で充分だ」
「浅野君、笹本はなかなか秘密主義だから未だにオレに自分の彼女を紹介してくれないんだ」
 顔が隠れるほどの大きなメニュー表に夢中になっている笹本を横目に、武岡はひそひそと慎太郎に話しかける。
「……でも、武岡部長には………課長はなんでも……話してるんじゃないの?……ですか?」
 思わずタメ口になりかけた口調を自分で訂正しながら、慎太郎はおずおずと答えてみせる。
「……君にはオレたちがどう見えているんだい?」
 随分と妙な質問だった。答えるまでもなく、仲がよくみえる。
「……幼馴染みだとお聞きしたから……そう見える…見えます」
「そうか…。ならいい」
 武岡は静かに微笑を浮べた。その顔は嬉しそうな、淋しそうな、どちらにも解釈できるようだった。
 「すいません、オーダー良いですか?ハイボール2つに生1つ。刺身の三点盛りにサーモンのカルパッチョ、それと…」
 呼び出しボタンでやっと掴まえた店員を相手に、笹本は嬉々としながら注文をしている。その様子を頬杖をつきながら、楽しげに武岡が見ている。慎太郎は自分でふと気付いた。

(オレ……つい、武岡部長ばかり見てた……?)

 このひとの雰囲気は何処か懐かしさと安心感を覚えた。直接の上司である笹本が口うるさいが頼りになるのとはまた異なり、武岡は自然体の優しさがある。居心地よく感じてしまうのは、きっとそのせいだろう。
「シゲ、じゃんじゃん頼んでやったぞ!ご馳走様」
「はははは…マジか、お前は!頼んだからには全部残さず食えよ?」
「当たり前だ!人の金で食うメシは焼肉食うくらい美味いからな」
「聞いたか、浅野君?きみの上司はとんだ悪徳上司だ。諦めていうことを聞いていくしかないな」
 お互いに悪態をつきながらも、やはり笹本と武岡の信頼関係はとても強いことを思わせる。
「……課長は…さすがにちょっと面倒っす」
「ははは…ほらみろ!智之はしょっちゅう浅野君にパワハラでも働いているんだろう?部下に慕われんぞ」
「だーれがパワハラだって?ほらほら、アルコール来たぞ!そら!ジョッキを掲げろ。超中身のないお疲れ会と会話と浅野慎太郎に乾杯!!」
「「かんぱーい」」
 この不思議なテンションとノリはなんだというのだろうか。慎太郎はほぼ二人に圧倒されながら、肩の荷が下りた気がしていた。
慎太郎が意外に驚いたことといえば、笹本が実はあまり酒が強くなかったことだった。
 彼は次から次へとメニューをオーダーをした、何回目かに頼んだ焼き鳥の串を持ったまま、テーブルに突っ伏してしまった。乾杯から2時間経つか経たないかのタイミングだった。
「えっ?あ、あの、課長?大丈夫ッスか?」
 慎太郎は笹本の背中に手をかけることを躊躇しながらも、とりあえず彼が無事なのかを確認しなければならない。
「ピッチが早かったからな…。もともと酒に強いタイプかといえば、そうじゃないし、呑むというより、呑まれた感があるな」
 武岡は何故か落ち着いている。まるでこうなることが判っていたかのようだ。
「あの!武岡部長…。笹本課長はオレが送ります」
 さすがにこの状態では二次会どころではない。彼が完全に眠ってしまわないうちに手を打つことが無難なのだ。
「方向は同じかい?だったらオレも一緒に行こう。タクシーを呼んでもらおう」
 慎太郎は店員にタクシーの手配をお願いする。そして10分ほどして無線で呼ばれたタクシーが店の入り口にやってきた。武岡はスマートに会計を済ませていたため、慎太郎は改めて御礼を言って頭を下げた。
「つき合わせて、すまなかった。オレたちがいると自分たちがイイオジサンになっているのも忘れてはしゃいでしまうのさ。興醒めだったろう?」
 助手席に慎太郎が乗り、後部座席には笹本を先に押し込み、武岡が運転手に行き先を告げて乗り込んだ。
「お二人共、本当に奇跡の幼馴染みだと…思い……ました。オレ、そんなに長くつきあった友達は、いなかったから」
「……奇跡…か。なんていうか、智之は不思議な奴でね、結果的にいつもオレがピンチの時に番犬や守護神みたいに守ってくれるのさ。だからオレも、コイツには頭が上がらないし、コイツがピンチの時は絶対に守るつもりでいるよ」
 タクシーの中で慎太郎はなんとか武岡と話を合せようとした。いつもなら沈黙が続いても平気な自分ではあるが、今日はわざわざ自分を労うために酒席を設けてもらったこともあり、かなり頑張ったのだ。
 だが武岡は先にそんな慎太郎の心中を酌んで“社内じゃないんだから、気にしなくていい”と言った。
 タクシーの運転が殊の外上手かったのだろうか、ちょうどよい揺れのせいで慎太郎の瞼が下りて来る。とうとう眠気には勝てず、武岡からの許しもあり、しばらく眠ることにした。
 どれくらいの時間が経っただろうか。慎太郎はふと、目を開けた。そのとき、何気なくルームミラーが視界に入る。本来なら運転手のみが後部確認できるように付けられた純正の物だけだったりするが、その車にはドライブレコーダーの下に、助手席からも後部が確認出来る小さなミラーが付いていた。

…………………ッ!?

 慎太郎は一瞬、それを自分の見間違いだと思った。だが確かに、自分は現実としてそれを目撃してしまったのだ。すっかり酔いつぶれて眠ってしまっていた笹本は、武岡の胸に寄りかかっていた。そんな笹本に、武岡がそっとキスをしていたのだ。
 慎太郎は思わず自分の口を押さえ、驚きの声が出そうになったのを耐えた。

(………オレが今見たものは夢でも妄想でもない…よな?)

 ミラー越しに見た笹本に唇を寄せた武岡の苦しそうな横顔が、やけに胸に突き刺さるようだった。

(………武岡部長は……課長のことが好きなのだろうか?)

 慎太郎はなんとも言えない気持ちになっていた。正確にいえば、とても悲しく、やるせない感情だった。武岡のその姿を目撃したことで、彼は自分の中に宿ったものが“恋”だと気付いたのだ。そして、気付いた瞬間、その“恋”は小鳥のように自分の手の中から零れていったのだった。
 呆然としながらも、ミラー越しに見える武岡から視線を外せなかった慎太郎に、武岡が気付いた。気不味いという雰囲気よりも彼には何かそれを凌駕するものがあるように見えた。
「…………………」
 武岡は何か言おうと口を開きかけたが、そのまま黙っていた。それはまるで、慎太郎からの疑問の言葉を待っているようにも思える。
「………オレの家、もうすぐで着きます」
「……そうか。いろいろすまなかったね、お疲れ様。智之は、オレが送り届けるから、君は心配しなくていいよ」
「はい…」
 タクシーはしばらく行った角で曲がり、ハザードを点灯して停車した。助手席から降り、慎太郎は頭を下げて車から離れていく。その姿を窓から見送りながら、武岡は運転手にしばらくその場で待ってくれるように頼むと、慌てて後部座席のドアを開けてもらい、慎太郎を追ってきた。
「……………?」
 自分を追ってくる足音に気付くと、慎太郎は振り返った。
「………どうされたんですか」
 彼は自分が見た光景について何かを言い出すと解っていた。それでも、解らないふりをせねばならなかった。
「…………君が、見た通りさ。オレは………もう何年も……前からずっと、笹本智之のことが……好きなんだ」
「………なぜ、そんなことをオレに?オレは……あなたの大切なプライベートな事情を、受けとめることが出来ないかもしれないのに」
「そうだね……。でも、なんとなく、君ならオレのことを理解してくれるんじゃないかって、勝手にそう思えたんだ」
「………本日は、有難うございました。失礼、します」
 慎太郎は再び頭を下げ、武岡に応える言葉が見つからないことを悟った。だがそれでも、心のなかでは何故か彼の何かを受け止めたいと思ったのだ。今まで生きてきた年月のなかでそれは初めての感情だった。
「……誰にも……言いません。課長にも……」
 考えた挙句、精一杯の答えがそれだった。
「……有難う。恩に着るよ。オレが見込んだのが君でよかった」
 “じゃあ”と片手を挙げ、武岡はタクシーへと戻っていった。バタンと後部座席のドアが閉まると、エンジン音と共に武岡と笹本を乗せたタクシーは離れていった。ヘッドライトの灯りがすぐに小さくなり、見えなくなった。
 慎太郎はその場で立ち尽くした。なんと勝手な感情なのだろう?もちろん武岡の気持ちのこともあるが、何よりも今日の今日まで自分が数日間、武岡に対して抱いていた感情が“恋”だったことに気付かなかったことにも許せないものがあった。
「……すげぇズルいな、武岡部長。きっとみんなに優しいんだろうな。仕事出来るし、頼もしいし、なのにさ、唯一の欠点みたいに課長のことが好きなんだって、よりによってオレに言うか、フツー?」
 自宅マンションの入り口に向かうまで、慎太郎は独り、喋り続けた。気付いた瞬間に失った心の一部は、何故かヒリヒリするように思える。
「ずっと好きだった…ってことか?気持ちも伝えずにずっと一人でその思いを抱えて来たってことか?それって……」
 慎太郎は武岡の弱さと脆さがなんとなく解る気がした。あれだけ仲が良い二人の関係が、武岡の気持ち次第で壊れてしまうかもしれない恐怖。男だからこそ、かけがえのない間柄で迷うのだから。
 武岡の心中を思うと、慎太郎は泣きたくなった。自分ならどうするだろう?
怯えながら、友情を選ぶだろうか?その答えの先には望む明るい未来なんてありはしないのに。
「アァーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 慎太郎は唐突に大声で叫んだ。他人の心の痛みが自分の痛みのようにズキズキと痛むなんて本当に信じられないことだ。自分が大声で叫んだことで、通りすがりのカップルが “やべーな、アイツ” とひそひそと話して通りすぎていった。マンションの何階か上から “うるせーぞッ!!!” と怒鳴り声も聞こえてきた。
 まるで武岡は自分に恋の痛みを植えつけていったかのようだった。やはり彼のことをズルいと思わずにはいられなかった。
「人の気も知らないで、ホント、ずるい」
 明日からどんな顔で会社に行けばよいのだろう。一晩で記憶がなくなる薬がドラッグストアに置いてあればいいのに。そんなものがあったとしたら、きっと自分は給料の半分くらいの値段だとしても、迷わず買っていたに違いない。
「………オレだって、アンタのこと、ちょっといいな、って思ってたのに」
 ひとつの恋が終わった儀式のように、慎太郎は自宅の玄関ドアを開け、中へと入っていった…。


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