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第3章 望郷、邂逅、アセンブル

国越えですわ!

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 目が覚めたとき、柔らかく清潔な布に包まれていることに気がついた。いつもと違い大層よく眠ることができた。

「ロス……?」

 自分がどこにいるのか分からずに、側にいるはずの男の名を呼んだ。しかし、返ってくるのはざわざわとした正体不明な大勢の人間の気配だけで、期待した男からの返答はない。

 むき出しの木の天井に、窓から光が差している。知らない建物。昼間。

(ここはどこ!?)

 ヴェロニカは、ようやく森の中でないことに気がついた。慌てて飛び起き辺りを見回す。数台のベッドがあり、人が寝ている。起きている人も、眠っている人も、皆包帯を巻かれていた。そして自分の傷にも手当てが成されていることを知った。

「まさか、病院?」

 前の記憶があやふやだ。どうしてこんな場所にいるのか分からない。
 
(確か、ロスを問い詰めて、それから、それから……)

 思い出せない。気を失ったのか。それで、あの男はどこに?

「そうともお嬢さん」
 
 突然聞こえた知らない声に驚き慌てて目を向ける。
 隣のベッドの腕のない男がこちらを向き、笑いかけられる。

「ここはB国前線付近の病院さ。どうして君のようなかわいい少女がこんな場所にいるのか皆で噂してたんだよ」
 
「B国ですって!?」

 驚いて聞き返すと男も驚いたように目を見張った。その騒ぎを聞いた看護師の一人の中年女がヴェロニカの側にやってくる。

「目が覚めたかい、まったく、軽傷のくせに一晩もベッドを占領してさ。起きたなら、空けとくれよ」

「あの、ここは病院なの?」

「あんた、この建物の目の前に眠ってたのさ」

(建物の前に?)

 ヴェロニカの頭はまだ混乱している。まとまらない思考のまま尋ねた。

「ねえ、わたしの他に男がいなかった? 体の大きな男よ、異国人みたいな顔つきですごく人相の悪い……」

「さあ、あんた一人だけだったけどね」

 中年の看護師がぶっきらぼうに言うと、

「お嬢ちゃん、もしかして男に捨てられたのかい?」

 腕のない男が心底哀れんだ目を向けてきた。



 それから数日、ヴェロニカは何もせずに過ごした。初日こそ国境付近に横たわっていたヴェロニカを怪しく思った兵士たちに尋問まがいのことをされたが、「何も覚えていない」と言い張った。
 もちろん、名乗った名も嘘だ。「アルティ・スミス」と伝えたが、それはアルテミスから取った名だった。

 やがて兵士たちも、害意なく、見るからに貧弱そうな少女は何者でもなく、悪い男に騙され人身売買から逃れたのだろうということで結論づけたようだ。実際、悪い男に騙されたのは事実である。

 何もしないヴェロニカは看護師たちに疎まれ、病院に入院している兵士たちには好色の目を向けられ、行動力のある幾人かには軟派の声をかけられたが、すべて無視した。

 判明したことがある。

 まず、ここはB国領土内、A国との国境にほど近い場所に突貫的に建てたれている兵士宿舎をかねた病院であるということ。
 近くに宿舎があり、B国兵士がうろついている。

 それから激戦があった後らしく、多くの怪我人が収容されていること。B国は順調にA国に兵を進めているらしい。A国貴族のヴェロニカとしては複雑な気分でもある。

 最後に、どうやらロスは本当に姿を消したらしいことだ。彼の気配はどこにもなく、あれが最後のお別れだったらしい。

(わたしが邪魔になったのね)

 そう思ってみるが、心の中では気がついていた。……彼が心底悪人でないということを。
 A国で追われ生きていけなくなったヴェロニカに、B国でやり直せと言っているように感じた。

(……今更、別の生き方なんてできるのかしら)

 生粋の貴族であるヴェロニカにとって、ふつうの町娘のように身を粉にして働くことも、ましてやここの女たちのように看護をするなど考えられなかった。

 だから一日中、ほとんど窓辺に椅子を持ってきて、山や外を見て過ごした。紅葉は真っ盛りのようだ。こうしていると、山であの激烈な日々を過ごしたなど夢のように思える。あの震えるような激情も、抱いたことすら嘘のようだ。

 そんな何もしないヴェロニカにも、ただで衣服と料理、そして寝床が出てくるのはありがたかった。A国で暮らしていた時よりも格段に質は落ちるが、土の上で眠るよりも、寒さも獣も、ましてや敵に襲われる恐怖もなく、多数の人の気配のする中にいるのは安心して眠れるのであった。



 ある日、傷ついた兵士が運び込まれてきた。発見が遅くなったらしく、傷にはウジがわき、既に虫の息である。
 流石のヴェロニカも忙しく動く看護師たちに声をかけた。

「手伝うわ」

 初日にヴェロニカに声をかけたあの中年の看護師が驚いたような顔をした後で、首を横に振った。

「残念だけどね、お嬢さん。この人はもう助からないよ。あたしらは他の病人の手当てに向かうよ」

 他にも数人の怪我人が運ばれている。看護師たちはそこに向かった。目前の兵士は助からないと判断され手当ての対象から外れたようだ。
 ヴェロニカはいたたまれなくなってうじの沸いた男の側に寄る。建物の中にも入れてもらえずに、外の冷たい土の上に寝かされている。それがこの男の最期の地なのだ。

 人の気配に気がついたのか、男は手を伸ばしてきた。頭には目まで覆う包帯が巻かれ、腐りかけのような異臭がする。だが血が付くのも厭わずにその手を握った。

「あなたを助けたいわ」

 声が聞こえるのか不明だが、そう伝えると男は涙を流した。そして懐から、一枚の紙を取り出し、やっと絞り出したような声で言った。

「……エミリー」

 受け取ると、一組の男女が写っていた。仲睦まじそうに手を握り合う二人は、将来の幸せを微塵も疑ってはいない。

「奥様ね? これをエミリーさんに渡せばいいの?」

 写真には文字で“必ず帰る。愛を込めて”と書かれていた。男は何度も頷く。ヴェロニカはしっかりとその写真を握りしめた。

「分かったわ。安心して。必ず伝える。あなたが愛していることを。最期まで誇りを失わずに気高く生きたことを。ねえ、大丈夫よ、あなたが眠るまでわたしが側にいるもの。だから……」

 男は、まるでそこに神でも見えるかのように祈る仕草をした後、微笑んで目を閉じた。その目が二度と開くことがないと知っていても、ヴェロニカは男の体が冷たくなるまで、その手を握っていた。



「わたしも、ここの仕事をするわ」

 運び込まれた者たちの手当てが一通り終わったのを見計らって、中年の看護師に声をかけると、ひどく訝しがられた。

「あんたがかい? お嬢さん」

「ええ」

「糞尿の世話も、沸いたうじを取るのもかい?」

「ええ」

「死体を運ぶのもかい?」

「ええ。なんだって」

 看護師はヴェロニカを黙って見つめた後、ため息を吐いた。

「あんた、大方どっかの金持ちの娘だろ? しかも、かなりの訳ありだろ」

「分かるの?」

「分かるさ。多くの人を見てきたからね。それに……」

 そう言って、看護師はヴェロニカにブローチを差しだした。

「あんなにぼろぼろの服を着て、これを握ってたからね」

 ロスに初めて会った日に、彼に渡したものだ。これが手元に戻ったということは、彼が自分の元から永遠に去ろうとしているのだと改めて実感した。
 
 見事な宝石でできたブローチを握りしめて、ヴェロニカは再び看護師に向き直る。

「明日から、仕事を教えてくださるかしら」

「明日から教えるだって? とんでもない。今日からだよ、それに見て覚えな。丁寧に世話してやるほど、あたしらは暇じゃないんでね」

 結局、その日は看護師……名をスーザンというらしい……に付いて回ったものの、邪魔扱いされてしまった。しかしヴェロニカの心は充実していた。

 夜、窮屈な二段ベッドの下でブローチを見ながら、いない彼に尋ねる。

(それで、あなたはどうするつもりなの?)

 返事はない。当たり前だ。彼は去った。ヴェロニカは笑う。

(かっこつけても、あの男はわたしから逃げたんだわ)
 
 脳裏に浮かんだ彼の顔を振り払うように頭を横に振る。もう戦いは終わった。彼との間に起きたことも、現実感のないあの日々も、すべて森の中に閉じ込めて忘れてしまわなければ。何もかも変わってしまっても、日常は続いていくのだから。
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