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最後の綱 クリス、メイス視点

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伯爵家からの帰り道、言葉は出てこなかった。メイスと、息子のジョイも疲れていて、一言も発しない。

こんな筈ではなかった。自分がもう少しで手に入れられたものを思うだけで、どうして?と言う言葉が出てくる。

オリヴィアは僕を見なかった。アンソニーの手を取り見つめあったまま、こちらに一度も目を向けることはなく、僕を偽物だと言った。





貴族としてのクリス・ヒューズは死に、新しく平民のクリスとして生まれ変わる。最初は新しいことばかりで楽しかったけれど、一週間もすれば、面白くも何ともなくなった。

何不自由なく暮らしていた可愛かったメイスも、労働に時間を取られて家を空けることがある。ジョイだって、僕の子だと言うのに、メイスの言うことしか聞かない。

家は狭く、使用人がいないから全て自分でしなくてはならない。メイスは料理を作ってくれるが特に美味しいとは思えなくて、外で食べる毎日だ。お金は家を出る時に、アンソニーから手切金として幾らかまとまった額を貰った。なくなったら、メイスの財布から貰おうとしていたら、金庫ごと隠されてしまった。

メイスはしっかりしているけれど、しっかりしすぎなところが、昔の彼女の良さを消してしまったんだろう。

オリヴィアとの結婚式を考えると、楽しみに思う気持ちの他に、もう逃げられない、といった閉塞感を感じてしまう。オリヴィアに不満があるわけではない。ただ自分の良さが全てなくなってしまうような感覚に襲われることが嫌だった。


オリヴィアは僕が彼女を愛していない、と言った。そんなことない。あり得ないのに、自信満々にそう言った。僕はいつだって彼女に愛を囁いていたのに。

こうは思いたくないけれど、アンソニーが、何か言ったのだろうか。弟は昔からオリヴィアに憧れを抱いていた。

今日、クリスは貴族の身分と、弟と婚約者を失った。それならと、両親に頼ろうにも彼らは既に領地に戻った後。

アンソニーはそれほどまでに自分を嫌っているのか。メイスはいつまでも落ち込んでいるクリスに、優しくはしてくれない。

「暇なら、手伝って。」
一番簡単な掃除道具を渡されて、クリスは拒んだ。いつものことなのに、メイスは酷く怒り出す。その姿はこれまで付き合ってきた彼女達と同じ姿で、クリスはまたかとため息をつく。

可愛い女の子達は最後には必ず、クリスを責めて、怒り出す。唯一怒らなかったのはオリヴィアだけ。だから、クリスはどんな相手と束の間の恋をしようと、最後はオリヴィアの元へと帰っていた。

オリヴィアが怒らないのは、クリスを未来の夫として、深く愛しているからだ。

それなのに、アンソニーに奪われてしまった。奴が領地に戻った際にオリヴィアが追いかけないように、病気をでっち上げた努力も、無駄になってしまった。あんなにすくすくと父によく似た体格に育つとは、思わなかった。離れて暮らしていたことで、気がつくのが遅れたが、今は兄弟であるのが怪しまれるほど、似ていない。

そう思っていたら、クリスに似ている、と聞いたことのある公爵子息がわざわざ近くまできて、教えてくれた。

私は両親と思っていた二人の息子ではないらしい。本物の父親は、彼の父であるそうだ。ああ、だから、学園時代良く女の子達に公爵家と何か関係があるのか、何度も聞かれたのか。知ってしまえば納得だ。本物の息子、アンソニーとは違い、あの家にいる限り、私は何も手に入れることが出来ない。それはあの家のものは、私のものではなかったからだ。

実母については、公爵子息はそこまで詳しいわけではなかった。

「ヒューズ公爵夫人の妹君だと聞いている。君を産んで、そのあと姿を消した、金食い虫の出来の悪い方のご令嬢が君の実母なんだね。母だけでなく、父まで碌な者じゃないなんて、とても不幸だね。」






男子の運動神経は母親のものを受け継ぐ、と昔からの言葉があるが、確かに母はご令嬢の時から令嬢には珍しい身のこなしで、声をかけて来た怪しげな男を撃退したことがあるらしいし、アンソニーにその才は受け継がれていた。

対してクリスは運動が得意ではなく、興味も必要も感じず、腕力も全くない。

侯爵家の護衛に軽々と摘み出されたのもそう言った訳だ。


だから随分な言い方ではあったが、クリスは彼の言葉を信じたのだった。薄情な血の繋がりのない弟や仮初の婚約者に縋って、クリス・ヒューズとして生き返るより、リール公爵家に迎え入れてもらい、クリス・リールとして生きる方が遥かに良い暮らしが送れる。

クリスは機嫌の悪い妻子を置いて、実の父に会いに行ったのだが、彼が帰ってくることはなかった。


風の噂によると、リール公爵家は、一家離散し、公爵から、伯爵家に降格したという。


クリスが、姿を消した直後から、メイスにはアンソニーから約束事の一つは取り消され、一つ目のものだけを、守るように言われた。

メイスは一度は愛した男の安否を尋ねなかった。聞いたら最後、人生が終わるとわかっていたからだ。
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