黒い聖域

久遠

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聖域の闇 第四章・手打(4)

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 三人は茶室を出て、二十畳もある広い和室に移った。既に酒宴の用意が整っていた。
 森岡の正面に座った鬼庭は、徐に懐から拳銃を取り出すと、銃口を森岡に向けてテーブルの上に置いた。
 初めて本物の拳銃を目の当たりにし、心臓が凍り付くような驚きを覚えた森岡だったが、その一方で、まさか宗光賢治が同席している場で、凶行に及ぶはずがないとの冷静な判断もしていた。
 これは威嚇というより、
『お前を信用した訳ではない』
 という鬼庭の意志表示だと理解した。
 鬼庭が宗光、宗光が森岡、森岡が鬼庭の杯にそれぞれ酒を注ぎ、杯を持った手を軽く上げた。
「兄貴、先刻の言葉はどういう意味だ」 
 鬼庭が満を持したように口を開いた。
 宗光はテーブルの拳銃を指さしながら、
「お前、場合によっては、この男を殺(や)るつもりだったのだろう」
 と訊き返す。
「正直に言えば、考えなくもなかった」
 躊躇いがちに告白した鬼庭を、
「もし、そうしたらお前の命も無かったということだ」
 と、宗光が咎めた。
「まさか、それこそ冗談だろう」
「いや、冗談ではない」
「いくら神栄会の峰松と昵懇といっても、この男の命(たま)ぐらいで、虎鉄組(うち)と戦争をおっぱじめるとは思えない」
 鬼庭は鼻を鳴らした。
「徹朗、この男が昵懇なのは峰松だけではないぞ」
「寺島とて同じだ。蜂矢が首を立てに振るはずがない」
「本当にそう思うか」
 顔の前で手を振り、 いっこうに取り合わない鬼庭に、宗光は不気味な笑みを返した。その瞬間、鬼庭の背に悪寒が奔った。
「まさか、六代目も?」
 二の句が継げない鬼庭が口を半開きにしたまま目を向けたが、森岡は素知らぬ顔を通した。
「俺の耳に入った情報では、蜂矢はこの森岡君にぞっこんのようだ。その証拠にな、ブック何とかという事業の仕切りをこの男に任せたということだ」
「ブック? ブックメーカーか」
 目を見張った鬼庭に対し、森岡は怪しい雲行きになった、と困惑しながら黙って肯いた。
「一度失敗して大量の逮捕者を出した神王組としては、同じ轍を踏むことは許されない。それがどういう意味かわかるな、徹朗」
「それほど、この男が信頼されているということか」
「蜂矢にとってこの森岡君は最後の切り札。そのような男を万が一でも殺ってやってみろ。如何なる事になるか」
「それほどの男なのか」
 唸るように言った鬼庭に、宗光がとんでもないことを言い出した。
「お前も一枚噛ませてもらったらどうだ」
「そ、それは……」
 森岡の口から思わず洩れた。無理もないことである。抗争はしていないが、神王組と虎鉄組は対立している暴力団組織なのだ。
「徹朗、十億は返して彼の力を借りたらどうだ」
 鬼庭は暫し沈思した後、
「そうしたら、考えてくれるか」
 と真顔で訊いた。
「申し訳ありませんが、十億を収めて頂きたいと思います」
「ははは……冗談だ、冗談」
 蒼白面の森岡を見て、宗光は笑い飛ばした。だが、森岡は冗談ではないだろうと思った。隙を見て無理やり捻じ込んで来ると推測した。
「ブックメーカーの話は別としても、今度のことはどう見てもお前の無茶だ。俺の顔に免じて金は返せ」
「しかし、兄貴。それでは俺の面子が立たない」
 鬼庭はいかにも不服げな顔をした。境港と浜浦での失態で、鬼庭は神栄会に五千万円の詫び金を渡し、手打ちをしていた。
「詫び金はいくらだった」
「五千万だ」
「では、その五千万を取って残りを返したらどうだ。それなら文句はないだろう」
「いや、それでも……」
 鬼庭はまだ何か言いたげだったが、宗光の有無を言わせぬ眼つきを見て、
「兄貴がそこまで言うのであれば仕方がない」
 と不承不承応じた。
「いえ。十億は受け取って下さい」
 森岡は声を強めて言った。
 拉致をしておいて身代金を要求するのは、卑劣な犯罪行為であり、理不尽な話である。また、減額の提案を断るというのも首を捻る話ではあるが、宗光の冗談話が気に掛かった森岡は、ここで借りを作った形だけにはしたくなかったのである。
「君も面白い男だな」
 宗光は苦笑すると、
「君の立場は承知しているから、先刻の話は気にしないで良い」
 と諭すように言った。
「では、半分の五億ということでどうでしょうか」
 それでも森岡は増額を申し出た。坂根の拉致は、鬼庭と勅使河原の共同謀議であり、十億を折半する予定ではなかったか、と推測したからである。鬼庭にさらなる金の持ち出しをさせ、後腐れ残すことを嫌ったのだった。
「徹朗、そういうことだそうだ。どうするな」
「兄貴がそれで良いのであれば」
 鬼庭はそう言って頷くと、銃口を自身に向け直した。森岡を信用するという意思表示なのだろう。
 宗光がにやりと笑い、
「よし、これで話は決まった。では手打ちの盃を交わすか」
 と張り切ったように言ったが、
「手打ち? ですか」
 大胆にも森岡が疑義を挟む声を上げた。
「不満か? まあ、何の落ち度もないのに五億も毟り取られたのだからな」
「いえ。金のことではありません」
 森岡はきっぱりと否定した。
「金のことではないだと」
 宗光が不審の顔を向ける。
「今回の拉致、私への襲撃、さらには探偵の伊能さんを襲撃したのも、僭越ながら勅使河原への義理立てではないですか」
 森岡は今回の件に勅使河原公彦が関与していると睨んでいた。南目が憤った通り、神栄会の峰松に分捕られた五千万円の報復にしては十億円は多額過ぎた。通常、この手の談合金は三倍の一億五千万円から、どんなに多くても十倍の五億円までである。森岡は、勅使河原が絡んでいる分だけ高額になったと読んでいたのである。
「何が言いたい」
 鬼庭が問い質した。
「一連の件には、勅使河原が一枚噛んでいるのでしょう」
「だとしたら、どうだというのだ」
 図星を刺された鬼庭は、開き直ったように言った。
 その動揺ぶりに、やはりと確信した森岡は、
「勅使河原の意向を無視して、私と手打ちをして良いのですか」
 と当然の疑問を口にした。
 うっ、と返答に詰まった鬼庭に代わり、宗光が助け舟を出した。
「森岡君、虎鉄組は勅使河原の手下ではない」
 と暗に金を介在した関係なのだと示唆したのだ。
「しかしお言葉を返すようですが、そうであれば、再度依頼されれば同じ事を繰り返すということになります」
「なんだと!」
 と怒りを面に滾らせた鬼庭を宗光が目顔で抑えた。
「理屈ではそうなるが、ここで手打ちをするという意味は、今後君が敵対しない限り、こちらも牙を向けないという意味を持つのだ、森岡君」
 因果を含めるような物言いだった。
 これ以上の問答は宗光を不快にさせると思った森岡は、
「身の程知らずなことを申し上げました。お詫びします」
 頭を深く下げてから、杯を口にした。
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