黒い聖域

久遠

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聖域の闇 第三章・遺言(5)

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 森岡はまず両手を合わせて神前に拝礼すると、四方を拝み始めた。これは『四方拝(しほうはい)』といって、元旦の早朝、今上天皇が四方の諸神を拝されるのに倣ったもので、神村から教わっていた。
 森岡は、神村を神とも仏とも敬う一方で、神仏自体への信心は薄いように見えるが、実際は祖母ウメの影響で、神仏に対する畏敬の念は深かった。事実、彼は物心が付くと、誰に言われたのでもなく、朝夕には仏壇と屋敷内に祭ってある地蔵菩薩に線香を手向けるようになった。
 森岡は神棚に置いていた書箱を手に取ると、風呂敷の紐を解き、ゆるりと蓋を開けた。中には封筒が入っており、その下に袱紗包みが見えた。袱紗に包まれていたのは家紋入りの小刀だった。
 森岡は、封筒の中の手紙を取り出して開いた。

 洋介、お前は今何歳なのだろうか。
 父は熟慮の末、この書箱を園方寺の道恵方丈様に託し、二十歳になったら渡して貰えるよう依頼したが、お前は成人したのだろうか。
 洋介、父はまずもってお前に詫びなければならない。母のことは申し訳なかった。お前から母を奪ったのはこの父で、母には何の罪科はない。父は心が弱かった。私の父、お前にとっての祖父の名が重荷だった。あまりに偉大過ぎる祖父の業績が重石となって父の心を悩ませた。
 父はその鬱積の捌け口として酒を頼り、諌める母に暴力を振るった。全ては父が悪いのだ。もしお前が母に対し屈託があるのなら、それは全て父のせいである。お前も大人になっているだろうから、母を許してやって欲しい。
 また十一歳のお前を残し、先立ってしまうことも許して欲しい。母が去り、祖父が亡くなり、そしてまた父が消え行く悲しみを背負わせてしまった。お前の悲しみはいかばかりかと、想像するだけで心が痛む。
 灘屋にしても祖父、父と相次いで亡くなったからには、これまでの威光は嘘のように凋落したことだろう。本来であれば、父が護りお前に引き渡すべき灘屋の財産も大きく目減りしたことだろう。むろん、金銭や土地のことを言っているのではない。お前に引き継ぐべき人脈はその多くが途絶えているに違いない。これもまた許して欲しい。
 さて、このような不甲斐ない父とは関わりなく、灘屋には一つだけお前に渡すべく宝が残っている。それが袱紗に包んである小刀だ。この小刀はお前から八代前の当主が、松江藩の国家老・奈良岡真広様から拝領したものだ。拝領の理由は、灘屋の七代前の当主が奈良岡様の実子であることを証明するためだ。
 当時、釣り好きの奈良岡様は、度々浜浦を訪れ、灘屋の当主と連れ立って磯釣りや船釣りを楽しまれたということだ。その際の宿泊先も灘屋だったのだが、あるとき奈良岡様は当主の娘に手を付けられた。やがて、男子が生まれたのだが、ある事情からその男子が七代前の当主になった。つまり、灘屋と奈良岡家は縁戚筋ということなのだ。
 お前にすると、そんなことかと思うかもしれないが、実はこの奈良岡家は偉大な人物を輩出しているのだ。その方々を含め灘屋の人脈を別紙に記しておく。ただ、昭和四十八年現在のものであるから、お前がこれを読んだときには、亡くなられたり隠居されたりしているかもしれない。それでも、お前がここぞというとき、頼りになる人物が残って居られると思う。頼ればきっと力になって下さるに違いない。
 最後に、この事実は灘屋の後継にのみ引き継がれる秘事である。後年、お前が嫡子に譲るとき、その旨をもって引き渡して欲しい。言うまでもないが、その真意は他者に頼り過ぎることがないようにするためだ。出来ることならばお前もそのように生きて欲しい。
 洋介、人生は長いようで短い。精一杯、お前の思うように生きろ。   
                                    父より     

    
 父の手紙を読み終えた森岡は、同封してあった別紙を開いた。
 そこには十三名の名が記載してあった。

 奈良岡真篤   (奈良岡本家・陽明学者)
 奈良岡正種   (奈良岡分家・帝都大学大学長)
 奈良岡正憲   (奈良岡分家・松江市長) 
 堀部 真快   (真言宗・大阿闍梨)
 服部 忠之   (三友銀行・頭取)
 宮永 秀人   (菱芝商事・社長)
 西条慶治朗   (山村証券・社長)
 安宅  一   (住川不動産・会長)
 篠崎 哲弥   (大日本製鉄・社長)
 長倉  壮   (東亜電気・社長)
 竹山  中   (国会議員)
 唐橋 大紀   (島根県会議員)
 設楽幸右衛門基法(山陰興行グループ総帥)

 奈良岡真篤氏は稀代の大学者である。このお方に関して詳細に記すことは避ける。自分調べてみなさい。この奈良岡真篤氏と堀部真快大阿闍梨は実の兄弟である。真快大阿闍梨は、いずれ座主に上られるほどの高僧であり、まさに昭和日本の精神的支柱であられた御兄弟であろう。
 服部、宮永、桐生、安宅、篠崎、長倉各氏は、それぞれ日本を代表する企業のトップであるが、皆様は奈良岡真篤氏を師と仰がれている方々だ。直接お会いすることは出来ないかもしれないが、奈良岡氏にお願いすれば、助力願えるだろうと思う。
 竹山、唐橋、設楽の三氏は灘屋と直接の交誼があった方々である。遠慮なく相談すると良い。
 
 ああー、と森岡は大きな溜息を吐いた。
 十三名の中で唯一面識のあった奈良岡真篤は、すでにこの世になかった。奈良岡の生前、神村に同道して何度も飲食を共にし、何かあれば相談に来いとの言葉を貰っていたが、今となっては空手形に終わった。
 財界のお歴々も、四名が逝去しており、存命と思われる西条と長倉も高齢により現役から身を引いていた。
 堀部真快大阿闍梨が存命なのかどうかはわからないが、いずれにせよ宗門に助力を仰ぐ気はなく、残る灘屋人脈のうち、竹山中と設楽幸右衛門基法は死去していた。
 わずかに可能性があるのは唐橋大紀であった。
 唐橋大蔵の実子である大紀は、県会議員から衆議院議員に転身し、今は政権与党の大幹部になっていた。大紀は、祖父洋吾郎の葬儀に出席していた記憶があったが、同時に竹山中との因縁も父洋一から聞かされていた。
 もし、父大蔵に対する洋吾郎の仕打ちにわだかまりを持っていれば、会ってさえくれないと想像できた。
 何にせよ、洋一が遺言したのは洋介が十一歳、四半世紀も昔のことである。あまりに長き歳月が経っていた。

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