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欲望の果 第四章・雄飛(6)
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林海偉の自宅では海徳が険しい表情で海偉を問い詰めていた。
「兄さん、どうしてあれほど可愛がっていた美玉を森岡に与えたのですか」
台湾でも親戚の年長者は兄とか姉と呼ぶ。
「不満か」
「不満というより、兄さんが彼女を手放すとは思ってもみませんでした」
「私も美玉は一生手元に置くつもりでいたのだが、実際に森岡と会ってみて気が変わったのだ」
「気に入ったのですか」
ああ、と頷くと、
「想像以上の器だな。私の挑発を見抜いていたとは……」
「本当でしょうか。彼一流のはったりかもしれません」
「たとえはったりでも、私に対してできる者がいるか」
「いいえ」
と、海徳は目を伏せた。
「しかも、逆にこの私を試そうとまでしたのだぞ」
「しかし、何も美玉を与えなくても……」
「森岡にやるぐらいなら、俺にくれとでも言いたいのか」
海偉が海徳を見据えた。
「……」
海徳は何も言えなかった。
「お前の気持ちはわかっていた。だが、状況も流動的になってきたことだし、諦めてもらうしかない」
「状況?」
「福建銘茶が森岡に近づく動きがある」
福建銘茶は世界シェアーが天礼銘茶に次ぐ第二位の会社で、近年天礼銘茶を猛追していた。
「福建? そう言えば、あのとき兄さんが口にされていましたね」
海徳は、鳳龍廳での森岡とのやり取りを思い出した。
「福建が森岡に近づくということは、寺院ネットワーク事業に関することでしょうか」
「そこまではわかっていないが、榊原さんに接触したのは事実だから、そんなところだろうな」
「まさか……」
海徳は唸ると、
「その情報は榊原さんからですね」
「いいや」
と、海徳は首を横に振った。
「え? では、いったいどこから……」
海徳の驚きの眼差しに、
「向こうに潜入させた者から、連絡があった」
海偉は平然と答えた。
「スパイを送り込んでいるのですか……さすがは兄さんですね」
「さすが、だと」
海偉の目が鋭く光った。
「呑気なことを言っては困るぞ。福建銘茶が榊原さんに接触した事実の重大さがわからないのか」
と、厳しい口調で言う。
海徳は暫し思考した。
「向こうにも、こちらの情報が洩れている、と」
「そのように見るべきだろうな。至急、隠密裏に社内調査をしろ」
はっ、と緊張の面持ちで承った海徳は、
「ですが、榊原さんはもちろんのこと、彩華堂の件でもわかるとおり、森岡は義理を欠く男ではありません」
二人が裏切ることはないと言った。
「私もそう思うが、念を押しておくに越したことはない」
「しかし、美玉でなくとも他に女は腐るほどいます」
海徳は、尚も食い下がった。
「そうだ。女は他にもいる。それこそ、新しい美玉を探せば良い。だが、森岡という男は滅多に出会えるものではない」
「それほどまでに、あの男を買っているのですか」
「企業経営能力はわからないが、頭脳と胆力、そして人を惹き付ける魅力は舌を巻かざるを得ないだろうな」
「たしかに、あの榊原さんがぞっこんになったほどですからね」
「あの食えない老人だけではないぞ。蜂矢にもずいぶんと見込まれている」
「蜂矢? 神王組の……」
海徳の顔色が変わった。
「まさか」
「まさかではない。お前は神戸という御膝元に居ながら、そのような重要な情報も掴んでいないのか」
と、海偉が睨み付ける。
「申し訳ありません。神王組の中では、京都の一神会との付き合いを優先していました」
海徳は肩を窄めて詫びたが、悪びれた様子はない。
一神会は、神王組の中では随一の経済ヤクザ組織である。海徳の判断は妥当であった。
「まあ、株式や商品相場だけを考えれば一神会との付き合いは大事だが、灯台下暗しだったな」
「蜂矢が森岡を見込んだというのはどういうことですか」
「ブックメーカー事業を森岡に託したようだ」
「ブックメーカーを……ほ、本当ですか」
思わず海徳の口調が乱れる。
「あの事業は四年近く前に一度失敗し、神王組は大きな痛手を蒙ったはずです」
海徳の言葉には、二度の失敗は絶対に許されないはず、との思いが込められていた。
「それを森岡が仕切るのだ。その意味がわかるな」
海偉が不敵な笑みを零す。
その瞳の奥の鈍い輝きに、海徳は海偉の深遠な狙いを理解した。
「ですが、そう簡単に森岡が受けるでしょうか」
「何としても受けてもらわねばならない。まずは正攻法で攻めるが、駄目なときは搦め手から、な」
「それで美玉を森岡に……」
海徳は、ようやく諦めの付いた顔つきになった。
「台湾の黒社会を牛耳るためには、森岡の力が必要になる。そのためであれば美玉を与えても惜しくはない」
「美玉はスパイの役目も担っているのですね」
「森岡に愛されれば、の話だがな」
「森岡は女に一途な男と聞いています。恋人がいるようですし、上手くいきますか」
「だから美玉にしたのだ」
「たしかに美玉ほどの女であれば、いかに堅物でも骨抜きになる」
「それだけではない」
「他に何か」
「彼女に手を出さずにいたことが幸いした。女に一途な男なら余計に心に深く入り込める」
「まさか兄さんが美玉を抱いていなかったとは……」
海徳は驚きを隠せなかった。
「美玉だけは、なぜかその気にならなかったのだが、こういうことなってみれば得心できる」
海偉は、美玉と森岡の出会いをどこかで予感していたのだろうと言った。
「しかし反対に、美玉が森岡に取り込まれてしまったらどうするのですか」
ふふふ……と、海偉は含み笑いをした。
「それでも良い」
「どういうことですか」
「榊原さんの後継者が決まったとの報告を受けたとき、私はその男に興味を抱き、密かに調べさせた」
「そのようなことを……」
「すると、森岡という男、頭脳明晰で人間的な魅力もあるが、ただ一つだけ弱点があることがわかった」
「それは……」
「情が深過ぎる」
海徳は、はたと思い出した。
「おしゃるとおり、鳳龍廳での兄さんとのやり取りの中でも、彼は彩華堂という会社に拘っていましたね」
うむ、と海偉は肯いた。
「しかも、事が女性に対してとなるとさらに弱く、頼み事をされたら断れない性格ときてる」
「身体の関係のない女性の頼み事が断れないのであれば、自分を愛してくれる女性の懇願なら、尚のこと断れるはずがない」
「そういうことだ」
と、海徳は大きく肯いた。
「美玉には堅く言い渡してある。彼女も本省人である以上、いかに森岡を愛しても我々の悲願を蔑ろにすることはない。だから二人が相思相愛になれば良し、たとえどちちらかの片想いであっても、二人が関係を持ってくれさえすれば、森岡は美玉の頼みを聞かざるを得なくなる」
「となると、今夜が第一のヤマということですね」
「美玉は自分の家に戻っていないようだから、幸先の良い滑り出しと言ったところだろう」
海偉は語調を強めて言った。
ところで、と海徳が話を転じた。
「森岡が蜂矢からブックメーカー事業を依頼された情報はどこから得たのですか」
「知りたいか」
「できれば」
海偉は一呼吸置いた。
「神州組の川瀬からだ」
「川瀬? 前にブックメーカー事業に出資を依頼してきた男ですね」
神王組五代目から阿波野光高の後見役を任せられた川瀬正巳もまた金策に奔走した。とはいえ、事業が事業だけに対象者は限られていた。その点、林海偉は信用に足る人物だった。
「あのときは、もう一つ事業計画そのものに信頼感が持てなかったから出資は断ったが、何某かの金を掴ませて、新しい動きを知らせるように頼んでいたのだ」
「なるほど、それはわかりましたが、私に黙っていたのはなぜですか」
海徳は不機嫌そうな顔をした。
「お前が一神会と付き合っていたからだ」
「良くわかりませんが……」
「川瀬の神州組はな、神栄会と同様、神王組発足以来の古参組で、後発組の一神会とはそりが合わないのだ。お前に伝えていれば、何かのときに川瀬と親しく言葉を交わすかもしれない。もし、神州組にスパイが入り込んでいれば、その後の一神会との付き合いに懸念が生じる」
「そこまで……」
海徳は、海偉の深謀遠慮に言葉を失った。
「おいおい、この程度のことで驚くようでは困る。俺に何かあれば、まだ若い海登を支えられるのはお前しかいないのだぞ」
海偉は、自身亡き後の息子の後見人として海徳を指名していた。
「期待に沿えるよう、一層精進します」
海徳は新たな決意を口にした。
「兄さん、どうしてあれほど可愛がっていた美玉を森岡に与えたのですか」
台湾でも親戚の年長者は兄とか姉と呼ぶ。
「不満か」
「不満というより、兄さんが彼女を手放すとは思ってもみませんでした」
「私も美玉は一生手元に置くつもりでいたのだが、実際に森岡と会ってみて気が変わったのだ」
「気に入ったのですか」
ああ、と頷くと、
「想像以上の器だな。私の挑発を見抜いていたとは……」
「本当でしょうか。彼一流のはったりかもしれません」
「たとえはったりでも、私に対してできる者がいるか」
「いいえ」
と、海徳は目を伏せた。
「しかも、逆にこの私を試そうとまでしたのだぞ」
「しかし、何も美玉を与えなくても……」
「森岡にやるぐらいなら、俺にくれとでも言いたいのか」
海偉が海徳を見据えた。
「……」
海徳は何も言えなかった。
「お前の気持ちはわかっていた。だが、状況も流動的になってきたことだし、諦めてもらうしかない」
「状況?」
「福建銘茶が森岡に近づく動きがある」
福建銘茶は世界シェアーが天礼銘茶に次ぐ第二位の会社で、近年天礼銘茶を猛追していた。
「福建? そう言えば、あのとき兄さんが口にされていましたね」
海徳は、鳳龍廳での森岡とのやり取りを思い出した。
「福建が森岡に近づくということは、寺院ネットワーク事業に関することでしょうか」
「そこまではわかっていないが、榊原さんに接触したのは事実だから、そんなところだろうな」
「まさか……」
海徳は唸ると、
「その情報は榊原さんからですね」
「いいや」
と、海徳は首を横に振った。
「え? では、いったいどこから……」
海徳の驚きの眼差しに、
「向こうに潜入させた者から、連絡があった」
海偉は平然と答えた。
「スパイを送り込んでいるのですか……さすがは兄さんですね」
「さすが、だと」
海偉の目が鋭く光った。
「呑気なことを言っては困るぞ。福建銘茶が榊原さんに接触した事実の重大さがわからないのか」
と、厳しい口調で言う。
海徳は暫し思考した。
「向こうにも、こちらの情報が洩れている、と」
「そのように見るべきだろうな。至急、隠密裏に社内調査をしろ」
はっ、と緊張の面持ちで承った海徳は、
「ですが、榊原さんはもちろんのこと、彩華堂の件でもわかるとおり、森岡は義理を欠く男ではありません」
二人が裏切ることはないと言った。
「私もそう思うが、念を押しておくに越したことはない」
「しかし、美玉でなくとも他に女は腐るほどいます」
海徳は、尚も食い下がった。
「そうだ。女は他にもいる。それこそ、新しい美玉を探せば良い。だが、森岡という男は滅多に出会えるものではない」
「それほどまでに、あの男を買っているのですか」
「企業経営能力はわからないが、頭脳と胆力、そして人を惹き付ける魅力は舌を巻かざるを得ないだろうな」
「たしかに、あの榊原さんがぞっこんになったほどですからね」
「あの食えない老人だけではないぞ。蜂矢にもずいぶんと見込まれている」
「蜂矢? 神王組の……」
海徳の顔色が変わった。
「まさか」
「まさかではない。お前は神戸という御膝元に居ながら、そのような重要な情報も掴んでいないのか」
と、海偉が睨み付ける。
「申し訳ありません。神王組の中では、京都の一神会との付き合いを優先していました」
海徳は肩を窄めて詫びたが、悪びれた様子はない。
一神会は、神王組の中では随一の経済ヤクザ組織である。海徳の判断は妥当であった。
「まあ、株式や商品相場だけを考えれば一神会との付き合いは大事だが、灯台下暗しだったな」
「蜂矢が森岡を見込んだというのはどういうことですか」
「ブックメーカー事業を森岡に託したようだ」
「ブックメーカーを……ほ、本当ですか」
思わず海徳の口調が乱れる。
「あの事業は四年近く前に一度失敗し、神王組は大きな痛手を蒙ったはずです」
海徳の言葉には、二度の失敗は絶対に許されないはず、との思いが込められていた。
「それを森岡が仕切るのだ。その意味がわかるな」
海偉が不敵な笑みを零す。
その瞳の奥の鈍い輝きに、海徳は海偉の深遠な狙いを理解した。
「ですが、そう簡単に森岡が受けるでしょうか」
「何としても受けてもらわねばならない。まずは正攻法で攻めるが、駄目なときは搦め手から、な」
「それで美玉を森岡に……」
海徳は、ようやく諦めの付いた顔つきになった。
「台湾の黒社会を牛耳るためには、森岡の力が必要になる。そのためであれば美玉を与えても惜しくはない」
「美玉はスパイの役目も担っているのですね」
「森岡に愛されれば、の話だがな」
「森岡は女に一途な男と聞いています。恋人がいるようですし、上手くいきますか」
「だから美玉にしたのだ」
「たしかに美玉ほどの女であれば、いかに堅物でも骨抜きになる」
「それだけではない」
「他に何か」
「彼女に手を出さずにいたことが幸いした。女に一途な男なら余計に心に深く入り込める」
「まさか兄さんが美玉を抱いていなかったとは……」
海徳は驚きを隠せなかった。
「美玉だけは、なぜかその気にならなかったのだが、こういうことなってみれば得心できる」
海偉は、美玉と森岡の出会いをどこかで予感していたのだろうと言った。
「しかし反対に、美玉が森岡に取り込まれてしまったらどうするのですか」
ふふふ……と、海偉は含み笑いをした。
「それでも良い」
「どういうことですか」
「榊原さんの後継者が決まったとの報告を受けたとき、私はその男に興味を抱き、密かに調べさせた」
「そのようなことを……」
「すると、森岡という男、頭脳明晰で人間的な魅力もあるが、ただ一つだけ弱点があることがわかった」
「それは……」
「情が深過ぎる」
海徳は、はたと思い出した。
「おしゃるとおり、鳳龍廳での兄さんとのやり取りの中でも、彼は彩華堂という会社に拘っていましたね」
うむ、と海偉は肯いた。
「しかも、事が女性に対してとなるとさらに弱く、頼み事をされたら断れない性格ときてる」
「身体の関係のない女性の頼み事が断れないのであれば、自分を愛してくれる女性の懇願なら、尚のこと断れるはずがない」
「そういうことだ」
と、海徳は大きく肯いた。
「美玉には堅く言い渡してある。彼女も本省人である以上、いかに森岡を愛しても我々の悲願を蔑ろにすることはない。だから二人が相思相愛になれば良し、たとえどちちらかの片想いであっても、二人が関係を持ってくれさえすれば、森岡は美玉の頼みを聞かざるを得なくなる」
「となると、今夜が第一のヤマということですね」
「美玉は自分の家に戻っていないようだから、幸先の良い滑り出しと言ったところだろう」
海偉は語調を強めて言った。
ところで、と海徳が話を転じた。
「森岡が蜂矢からブックメーカー事業を依頼された情報はどこから得たのですか」
「知りたいか」
「できれば」
海偉は一呼吸置いた。
「神州組の川瀬からだ」
「川瀬? 前にブックメーカー事業に出資を依頼してきた男ですね」
神王組五代目から阿波野光高の後見役を任せられた川瀬正巳もまた金策に奔走した。とはいえ、事業が事業だけに対象者は限られていた。その点、林海偉は信用に足る人物だった。
「あのときは、もう一つ事業計画そのものに信頼感が持てなかったから出資は断ったが、何某かの金を掴ませて、新しい動きを知らせるように頼んでいたのだ」
「なるほど、それはわかりましたが、私に黙っていたのはなぜですか」
海徳は不機嫌そうな顔をした。
「お前が一神会と付き合っていたからだ」
「良くわかりませんが……」
「川瀬の神州組はな、神栄会と同様、神王組発足以来の古参組で、後発組の一神会とはそりが合わないのだ。お前に伝えていれば、何かのときに川瀬と親しく言葉を交わすかもしれない。もし、神州組にスパイが入り込んでいれば、その後の一神会との付き合いに懸念が生じる」
「そこまで……」
海徳は、海偉の深謀遠慮に言葉を失った。
「おいおい、この程度のことで驚くようでは困る。俺に何かあれば、まだ若い海登を支えられるのはお前しかいないのだぞ」
海偉は、自身亡き後の息子の後見人として海徳を指名していた。
「期待に沿えるよう、一層精進します」
海徳は新たな決意を口にした。
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