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修羅の道 第六章・交渉(7)
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会議室には、神栄会の護衛の中から九頭目も参加した。
ウイリアム・ゴールド社の四人のうち、一名は女性だった。交渉は英語で行われた。当然のことながら石津は英語が堪能である。森岡も日常会話程度は話せるが、重要な交渉時に齟齬が生じないよう日本語で話し、石津が通訳することとした。
名刺交換した後、森岡がいきなり本題に入った。
「五億円は高過ぎる。せいぜい一億円が妥当でしょう」
森岡は端的に言った。彼は腹芸をしない性質なのである。
「それでは話にならないわ」
意外にも応じたのは女性だった。名前をリンダという二十代後半のように見える。眼鏡を掛けているが、目元が涼しく、長い金髪を靡かせた相当な美人である。
森岡はさりげなく彼女から受け取った名刺を確認した。
――リンダ・ウイリアム……彼女は会長の娘なのかもしれない。
森岡は、彼女がこの若さで交渉責任者である理由をそう推測した。
「そちらの開発費用は十億円程度のはず。その半額を要求するとはこちらこそ話にならない」
森岡は言葉とは裏腹に笑みを浮かべて言った。
「良く調べているわね。さすがはIT企業の経営者だけのことはあるわ」
「ほう。そちらも私のことは丸裸にしているようですね」
お互いに笑みを交換したが、転瞬、
「では、三億円まで下げるわ。これ以上は一円たりとも下げないから」
リンダは強い口調で言った。厳しい顔つきが彼女をいっそう美しく見せたが、外国人にそのような冗談を言えば、セクシャルハラスメントとになる。
「二億円なら用意しましょう」
「だから、三億円は譲れないと言っているでしょう」
彼女は言葉を荒げた。
「じゃあ、残念ながら交渉決裂ですね」
森岡は極めて冷静に言った。
彼女はふっ、と不敵な笑みを浮かべた。
「それで良いのかしら」
「どういう意味でしょうか」
「免許の更新ができなくなるわよ」
ウイリアム・ゴールド社のトム・ウイリアム会長は、英国ブックメーカー協会の会長でもある。彼の匙加減でどうにでもなるということである。
「それは、恫喝ですか」
「どのように受け取ってもらっても結構よ」
リンダの笑みは勝ち誇ったものに変わった。
「どうぞ、ご自由に」
森岡の意外な言葉に、リンダと男性のうちアルフレッドという男性が反応した。
石津がそのまま英訳して良いのか、と戸惑っていたのにも拘わらずである。
「どうやら、日本語が通じるようですね」
森岡がリンダとアルフレッドを交互に見た。
「わかりましたか」
リンダが日本語で答えた。さすがは、世界最大のブックメーカーである。ウイリアム・ゴールド社には日本語の堪能なスタッフを抱えているということなのだろう。
「貴方、免許の更新ができないと、英国ではもちろんのこと、賭博を禁止している日本では事業展開は不可能でしょう」
リンダは、難題を突き付けた。
だが、森岡には余裕があった。
「他の方法を考えます」
「他に? どのような」
「買収です」
「買収……」
リンダの美形が苦渋に歪んだ。
英国のブックメーカー協会は二百社で運営されているが、全ての会社が独立資本というわけではなかった。実に半数近く会社は、大手の資本傘下にある子会社なのである。現に最大手のウイリアム・ゴールド社は、七社を傘下に収めているが、その中には赤字の会社もあった。
森岡は経営に苦しむ会社を買収しようというのである。免許の移動はないので協会の承認は安易であった。
「さすがだわね」
リンダは眼鏡を外し、コーヒーを一口飲んだ。眼鏡を掛けたときの知的な印象も魅力的だが、外すと一層美貌が際立った。
「仕方がないわね、二億円で良いわ」
森岡はその言葉を待っていたかのように、
「どうでしょう。他に一億円出しますから、貴社のソフトの一部を使用させてもらえませんか」
と間髪入れずに要求した。
「どういうことかしら」
「オッズ計算のソフトをコピーさせて頂きたいのです」
ブックメーカー事業のコンピューターシステムの『肝』はオッズ計算である。このソフトウェアにバグ(虫のこと。転じてコンピュータプログラムの製造の誤りや欠陥を表す)があれば致命的となる。
とはいえウイリアム・ゴールド社にすれば、オッズ計算は門外不出にするような類いのソフトウェアーではなかった。およそ、ブックメーカーにおいて最重要なのは、最初のオッズを確定することである。日本でオッズといえば競馬、競輪、競艇であるが、これらの場合は賭け金から必要経費、俗にいうてら銭を差し引いた金額を応分に配分する計算で良い。
だが、たとえばブックメーカーが日本のプロ野球の優勝チームを賭けの対象にする場合、前もって基本の配当オッズを決めてから売り出すことがある。巨人=二倍、中日=四倍、阪神=六倍……という風にである。後は、通常のオッズ計算となるのだが、この前もってのオッズを決める担当者の役割と責任は大きい。賭けの対象となった事柄に詳しいものでなければ見当違いのオッズを決めてしまうことになるからである。
そういう意味からでも、日本担当だった石津は貴重な人材なのだ。
さて、他のソフトウェア、たとえば顧客管理は日本独自であり、ベッティングシステムは時代の流れにそぐわないという欠陥があった。つまり、六年前は電話投票が主だったが、三年前からインターネットが急速に広まりつつあったので、森岡はこれをメインに考えていたのである。
ハードウェアーにしても、以前のような大型汎用機、オフィスコンピューター、パーソナルコンピュータ―という概念から、サーバーシステムという概念に移行しつつあった。
リンダはアルフレッドと二言三言会話を交わすと、
「良いでしょう」
リンダは立ち上がって握手を求めてきた。森岡は彼女の細く美しい手を握ると、
「では、明日この場所で契約しましょう。現金はその直後に振り込みます」
「それで結構です」
アルフレッドも握手を求めながら言った。
「森岡さん、貴方も英国に来るの」
リンダが請うような眼差しを向けた。
「もちろんです」
「じゃあ、そのとき再会できるかしら」
森岡は優しい笑みを浮かべた。
「貴女さえ良ければ、私には断る理由がありませんよ」
リンダは森岡に歩み寄ると、ハグをしながら両頬にキスをした。
森岡の脳髄にまで彼女の色香が沁み渡る。
「楽しみにしているわ」
と囁いた彼女の白い頬もまた赤く染まっていた。
ウイリアム・ゴールド社の四人のうち、一名は女性だった。交渉は英語で行われた。当然のことながら石津は英語が堪能である。森岡も日常会話程度は話せるが、重要な交渉時に齟齬が生じないよう日本語で話し、石津が通訳することとした。
名刺交換した後、森岡がいきなり本題に入った。
「五億円は高過ぎる。せいぜい一億円が妥当でしょう」
森岡は端的に言った。彼は腹芸をしない性質なのである。
「それでは話にならないわ」
意外にも応じたのは女性だった。名前をリンダという二十代後半のように見える。眼鏡を掛けているが、目元が涼しく、長い金髪を靡かせた相当な美人である。
森岡はさりげなく彼女から受け取った名刺を確認した。
――リンダ・ウイリアム……彼女は会長の娘なのかもしれない。
森岡は、彼女がこの若さで交渉責任者である理由をそう推測した。
「そちらの開発費用は十億円程度のはず。その半額を要求するとはこちらこそ話にならない」
森岡は言葉とは裏腹に笑みを浮かべて言った。
「良く調べているわね。さすがはIT企業の経営者だけのことはあるわ」
「ほう。そちらも私のことは丸裸にしているようですね」
お互いに笑みを交換したが、転瞬、
「では、三億円まで下げるわ。これ以上は一円たりとも下げないから」
リンダは強い口調で言った。厳しい顔つきが彼女をいっそう美しく見せたが、外国人にそのような冗談を言えば、セクシャルハラスメントとになる。
「二億円なら用意しましょう」
「だから、三億円は譲れないと言っているでしょう」
彼女は言葉を荒げた。
「じゃあ、残念ながら交渉決裂ですね」
森岡は極めて冷静に言った。
彼女はふっ、と不敵な笑みを浮かべた。
「それで良いのかしら」
「どういう意味でしょうか」
「免許の更新ができなくなるわよ」
ウイリアム・ゴールド社のトム・ウイリアム会長は、英国ブックメーカー協会の会長でもある。彼の匙加減でどうにでもなるということである。
「それは、恫喝ですか」
「どのように受け取ってもらっても結構よ」
リンダの笑みは勝ち誇ったものに変わった。
「どうぞ、ご自由に」
森岡の意外な言葉に、リンダと男性のうちアルフレッドという男性が反応した。
石津がそのまま英訳して良いのか、と戸惑っていたのにも拘わらずである。
「どうやら、日本語が通じるようですね」
森岡がリンダとアルフレッドを交互に見た。
「わかりましたか」
リンダが日本語で答えた。さすがは、世界最大のブックメーカーである。ウイリアム・ゴールド社には日本語の堪能なスタッフを抱えているということなのだろう。
「貴方、免許の更新ができないと、英国ではもちろんのこと、賭博を禁止している日本では事業展開は不可能でしょう」
リンダは、難題を突き付けた。
だが、森岡には余裕があった。
「他の方法を考えます」
「他に? どのような」
「買収です」
「買収……」
リンダの美形が苦渋に歪んだ。
英国のブックメーカー協会は二百社で運営されているが、全ての会社が独立資本というわけではなかった。実に半数近く会社は、大手の資本傘下にある子会社なのである。現に最大手のウイリアム・ゴールド社は、七社を傘下に収めているが、その中には赤字の会社もあった。
森岡は経営に苦しむ会社を買収しようというのである。免許の移動はないので協会の承認は安易であった。
「さすがだわね」
リンダは眼鏡を外し、コーヒーを一口飲んだ。眼鏡を掛けたときの知的な印象も魅力的だが、外すと一層美貌が際立った。
「仕方がないわね、二億円で良いわ」
森岡はその言葉を待っていたかのように、
「どうでしょう。他に一億円出しますから、貴社のソフトの一部を使用させてもらえませんか」
と間髪入れずに要求した。
「どういうことかしら」
「オッズ計算のソフトをコピーさせて頂きたいのです」
ブックメーカー事業のコンピューターシステムの『肝』はオッズ計算である。このソフトウェアにバグ(虫のこと。転じてコンピュータプログラムの製造の誤りや欠陥を表す)があれば致命的となる。
とはいえウイリアム・ゴールド社にすれば、オッズ計算は門外不出にするような類いのソフトウェアーではなかった。およそ、ブックメーカーにおいて最重要なのは、最初のオッズを確定することである。日本でオッズといえば競馬、競輪、競艇であるが、これらの場合は賭け金から必要経費、俗にいうてら銭を差し引いた金額を応分に配分する計算で良い。
だが、たとえばブックメーカーが日本のプロ野球の優勝チームを賭けの対象にする場合、前もって基本の配当オッズを決めてから売り出すことがある。巨人=二倍、中日=四倍、阪神=六倍……という風にである。後は、通常のオッズ計算となるのだが、この前もってのオッズを決める担当者の役割と責任は大きい。賭けの対象となった事柄に詳しいものでなければ見当違いのオッズを決めてしまうことになるからである。
そういう意味からでも、日本担当だった石津は貴重な人材なのだ。
さて、他のソフトウェア、たとえば顧客管理は日本独自であり、ベッティングシステムは時代の流れにそぐわないという欠陥があった。つまり、六年前は電話投票が主だったが、三年前からインターネットが急速に広まりつつあったので、森岡はこれをメインに考えていたのである。
ハードウェアーにしても、以前のような大型汎用機、オフィスコンピューター、パーソナルコンピュータ―という概念から、サーバーシステムという概念に移行しつつあった。
リンダはアルフレッドと二言三言会話を交わすと、
「良いでしょう」
リンダは立ち上がって握手を求めてきた。森岡は彼女の細く美しい手を握ると、
「では、明日この場所で契約しましょう。現金はその直後に振り込みます」
「それで結構です」
アルフレッドも握手を求めながら言った。
「森岡さん、貴方も英国に来るの」
リンダが請うような眼差しを向けた。
「もちろんです」
「じゃあ、そのとき再会できるかしら」
森岡は優しい笑みを浮かべた。
「貴女さえ良ければ、私には断る理由がありませんよ」
リンダは森岡に歩み寄ると、ハグをしながら両頬にキスをした。
森岡の脳髄にまで彼女の色香が沁み渡る。
「楽しみにしているわ」
と囁いた彼女の白い頬もまた赤く染まっていた。
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