黒い聖域

久遠

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修羅の道 第六章・交渉(3)

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 祇園の高級クラブ・菊乃は開店以来繁盛していた。
 何と言っても、京都でも格式の高い天真宗・別格大本山法国寺の新貫主が祝賀パーティーに使用したほどの店である。その名はたちまちに京都中に広がり、天真宗寺院の僧侶、信者、業者を中心に、他宗の関係者も足を運ぶ人気店となっていた。
 また、ママの片桐瞳は元芸者である。昔馴染みの置屋の女将や芸妓たちが菊乃を推薦したり、客と同伴したりと何かと贔屓にしてくれていた。
 その夜、その別格大本山法国寺貫主の久田帝玄がふらりと顔を出した。お付は若い修行僧ただ一人だった。
 ママの瞳が接客中の常連に断りを入れ、帝玄の席に付いた。
 「お久しぶりでございます。御前様」
 瞳は恭しく頭を下げた。
 「本当にのう」
 と言った帝玄の顔には憂いが宿っていた。
 「ずいぶんとお疲れの御様子ですが」
 「法国寺の貫主というのも存外でのう」
 帝玄は力のない笑を浮かべた。
 さすがに天真宗において別格の冠の付く寺院である。久田帝玄ほどの大人物でも、法国寺の宗務は気疲れするのか、と瞳は推察した。 
 「ところで、森岡君はやって来るかの」
「洋……」
 帝玄の口から出た意外な名に、瞳は口を滑らせそうになったが、
「森岡社長は久しくお顔を見せられません」
 と虚しく首を横に振った。
 「晋山式の祝賀会パーティーの打ち合わせに来られて以来、とんとご無沙汰です」
 「彼も案外冷たいの。これだけの別嬪さんに目もくれんとはな」
 「彼には、茜さんという決まった女性(ひと)がいらっしゃいますから」
 「茜? ああ、鳥取で森岡君に付き従っていた美形か」
「お会いになられましたか」
「会ったというほどではないが」
 帝玄は言葉を濁し、
「そうか、森岡君は来ないのか」
 と呟いた。
 帝玄は手にした数珠の球を一つ一つ弾きながら、暫し思案に耽っていた。
 天真宗において影の法主とも敬われる彼にしては、らしからぬ気弱な表情だった。
 瞳は気遣いながら声を掛けた。
「森岡社長に御用でしたら、私から連絡いたしましょうか」      
「いや、それには及ばない。用というほどの用ではないのだ」
 その弱々しい笑みの裏に苦悩の色が滲んでいた。

「しかし、偶然ってあるものなんだなあ」
 坂根好之はどこか嬉しそうに言った。
 坂根と池端敦子は、梅田のパリストンホテルのロビーで待ち合わせ、森岡の馴染みである北新地のショットバー祢玖樽(ねくたる)に繰り出していた。
「同じ千里沿線に住んでいるのですから、出会ってもおかしくないでしょう」
「といっても、電車通勤のときの僕は朝早く出社して、夜遅く帰宅していたから、学生の君とはすれ違いだったのも肯ける」
「現在はどこに勤めているのですか」
「おっと、そうだった」
 坂根はポケットから名刺入れを取り出し、一枚抜いて敦子に手渡した。坂根は森岡の指示に従い、たとえ休日であっても名刺を所持していた。
「ウイニットって、あの?」
「敦ちゃん、知っているの」
「そりゃあ、私だって知っています。IT企業として有名だし、そうでなくても、今就職活動の真っ最中ですから」
「そうか、敦ちゃんは四回生か。それで、どうなの」
 坂根は気遣いながら訊いた。大学生の就職状況は、氷河期と言われていた時代であった。
「それが……」
 やはり、敦子の表情に暗い影が宿った。  
「今は難しいからなあ」
 坂根は同情の言葉を掛けるしかなかった。四回生のこの時期に内定が取れないということは絶望的だった。
「職種に希望はあるのかい」
「第一希望はマスコミ関係でしたが、そうもいっていられなくなりました」
「勤務地は?」
「どこでも良いです」
「そうなら……」
 と言い掛けて坂根は言葉を切った。
「何ですか」
「敦っちゃんのお父さんは、確か大手都市銀行のエリートじゃなかったかい」
 坂根は塾講師時代の記憶を辿って訊いた。
「エリートかどうかわかりませんが、富国銀行の梅田支店長をしています」
「富国の梅田支店といえば関西の最重要拠点だから、そこの支店長ならうまくいけば役員になれるじゃないかな」
「さあ、どうでしょう」
 敦子は興味が無さそうに言った。
「役員はともかく、かなり顔が利くのは間違いないと思うけどなあ」
「何が言いたいのですか」
「富国の融資先に口を利いてもらったら……」
「何を言うのですか! 私、坂根さんを見損ないました」
 敦子は坂根の言葉を遮って怒声を上げると、ぷいと顔を横に向けた。
「いや、済まない。敦ちゃんがあまりに落胆していたものだから、ついくだらないことを言ってしまった」
 坂根は平身低頭で詫びた。中学生の頃、彼女は努力家であると同時に不正を嫌う正義感の強い少女だったことを忘れていた。
「父は父、私は私です」
 顔を戻して言うと、敦子は気を静めるように二、三度大きく息を吐き、坂根の名刺を手に取った。
「でも、その若さでウイニットの課長さんだなんて、凄いなあ」
 敦子の和らいだ語調に、坂根はほっと胸を撫で下ろしながら、
「ちっとも凄くなんかないよ。社長と僕の兄とが中学以来の大親友でね。その関係もあって、目を掛けて貰っているだけなんだ」
 と謙遜した。
「じゃあ、森岡社長さんって、坂根さんと同郷なのですか」
「同じ村ではないけど、隣村ってところかな」
「へえ、そうなんだ」
 敦子が得心したとき、後方の扉が開いた。
「いらっしゃいませ、森岡様」
 というマスターの声に、カウンター席に座っていた坂根が訝しげに振り向くと、そこに森岡と茜が立っていた。
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