黒い聖域

久遠

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修羅の道 第二章・火種(7)

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 美佐子に一目惚れをした辰巳はしつこく交際を迫ったが、彼女は適当にあしらっていた。そのうち、辰巳が鴻上を連れてやって来たのだが、鴻上もまた美佐子にぞっこんとなった。当時、独身の辰巳に対して鴻上は妻帯者であったが、以来美佐子を目当てにバンカトルに足繁く通うようになった。
 しかし、いかに大銀行の幹部候補生とはいえ、所詮はサラリーマンである。収入の限られている彼が、借金塗れとなるのに時間は掛からなかった。それも、消費者金融からの借り入れに留まれば問題は起こらなかったが、彼は一線を超えてしまった。街金にまで手を出してしまったのである。
 街金が取立てに手段を選ぶことはない。ついに、会社まで押し掛けるようになり、事が露見してしまった。銀行に居辛くなった鴻上は退職し、IT会社を起業したというあらましだった。
「なぜそういうことを?」
「鴻上さんが私に言い寄っていることを知った辰巳さんが、適当に繋ぎ止めて欲しいとお金をくれたの」
 共に帝都大学出身である辰巳と鴻上は、入社以来出世レースのライバルであった。だが法学部卒の鴻上に対して、経済学部卒の辰巳は後塵を拝していた。辰巳は起死回生の策として、鴻上の美佐子への恋慕の情を利用したというのである。
「今になって思えば、売上のためとはいえ馬鹿なことをしたと思っているわ」
 美佐子は沈んだ顔で言った。有馬でもそうだが、バンカトルでも彼女は口座持ちだった。売上アップは死活問題ではある。
「夜の世界は狐と狸の化かし合いだ。当然のような顔は感心しないが、必要以上に気に病むこともない」
「客が皆貴方のような人だったら、どんなに楽なことか」
 遊び慣れていない男が、いきなり東京の銀座や大阪の北新地などの高級クラブに足を踏み入れてしまうと、そのあまりの華やかさに我を忘れての減り込んでしまうことが往々にしてある。とくに子供の頃から勉強一筋で、恋愛や酒、たばこ、麻雀や競馬も知らない真面目な男は罠に陥り易い。
 高校時代までの森岡もまた、別の意味で世間知らずだったが、大学に入って神村というその道の粋人に仕えたことで道に迷わずに済んだ。
 また、クラブやキャバクラのホステスを性の対象でしか見ない男も多いが、その点でも真摯な態度で接する森岡は稀有な存在だったのかもしれない。
「しかし、なぜそのような話を俺にしたのかな」
 鴻上を罠に嵌めたなど、自身にとっては都合の悪い話のはずである。というより、もし森岡が悪人であれば脅迫のネタに使うことだって考えられるのだ。
「久しぶりに辰巳さんと出会い、鴻上さんの名まで聞いたとき、罪悪感が充満したの。その再燃した心の鬱積を貴方に吐き出してしまいたくなったのね」
「初対面なのに?」
「そうだけど、なぜだか貴方なら優しく受け止めてくれそうな気がしたの」
 美佐子は憂いの宿った顔をした。
「それでわだかまりは消えたかい」
「少しだけ心が軽くなったみたい」
「それは良かった」
 森岡は優しい笑み浮かべると、
「何しても良い話を聞かせてもらった。約束どおり、この一千万を受け取ってくれ」
 札束を美佐子の方へ押しやった。
「お金は冗談よ、悩みを聞いてもらったのにお金は受け取れないわ」
 と、美佐子は押し返した。
「しかし、ただというのでは俺の気持ちが済まない」
「じゃあ、明日同伴して貰えないかしら」
「そうしたのはやまやまだけど、明日は大阪で大切な仕事があるんだ」
「残念ね」
「近いうちにまた上京するから、そのとき同伴すると約束しよう」
 そう言うと、森岡は分厚い茶封筒を差し出した。
「これは受け取ってもらうよ」
「タクシー代にしては多いわね。どういう魂胆かしら」
 美佐子は疑いの視線を送った。
「有馬は政財界の溜まり場だから、高度な情報が飛び交うと思う。それを教えて欲しい」
「情報屋をしろと」
 美佐子の目が鋭くなった。森岡は、とても素人の目ではないと感じた。
「いや、意識して情報を集めなくても、客との会話を漏らしてくれればそれで良い」
「どういった類の?」
「とくにない。君が面白いと思ったことで良いんだ」
「私の感覚で良いのね」
「うん」
「うふ」
 一転、美佐子は謎の笑顔を零し、
「面白そうね。このお金は前渡しの報酬っていうことかしら」
「そういうこと」
 にやり、と口元を緩めた森岡は、少し前屈みになった。
「ところで、鴻上について、もう少し訊きたいことがある」
「何かしら」
「鴻上の借金はいくらだったの」
「一千万近くだったと思うわ」
「うーん」
 森岡が考え込んだ。 
「それが何か?」
「一千万の借金に困っていた男が、半年も経たないうちに会社を起業したということは、誰かスポンサーが付いたということになる。心当たりはないかい」
「銀行を辞めた後は、一度も会っていないから確信はないけど、バンカトルには何人かと一緒に来ていたわね」
 「名前は憶えている?」
 ううん、と美佐子は首を横に振った。
「でも、名刺を調べればわかるかも」
「じゃあ、今度会うまでに調べておいてくれるかな」
「お安い御用だわ」
 美佐子は快く請け負った。
「有難う。今晩は実に有意義だった。これはボーナスだ」
 森岡は一千万円の束から二百万円を手にして、茶封筒の上に重ねた。
「まあ、ずいぶんと太っ腹ね」
「そうじゃない。情報というのは金では買えないものでね。この話、今後の展開次第では、本当に一千万以上の価値が出るかもしれない」
「へえ。よくわからないけど、遠慮なく頂いておくわ」
 美佐子は封筒と札束を手にしながら、
「この先もこれだけの報酬をくれるの」
 と、森岡を覗き込むように訊いた。
「そうだな。情報次第だが、毎月最低百万は出しても良いよ」
「愛人契約でもないのに、月に百万も出す人がいるなんで信じられない」
 言葉とは裏腹に、美佐子に驚いた様子はもうなかった。
「じゃあ、下まで送って行くよ」
「それは遠慮するわ」
 美佐子は強い口調で断った。
「ホテル内とはいえ、用心した方が良い」
 森岡は重ねて忠告したが、
「そういう意味じゃなくて、もうそろそろ迎えが来るはずなの」
 美佐子は腕時計を確認しながら答えた。
「迎え? やはりそうか」
「やはり?」
「有馬で会ったときから気になっていたのだが、君はいったい何者なんだ」
 内緒よ、と言って美佐子はウインクした。
「安心して、貴方の敵じゃないことは確かよ」
「それは信用したいが」
 うふふ、と笑った彼女は半信半疑の森岡に向かって、
「そのうちわかるときが来ると思うわ」
 と謎めいた言葉を残して部屋を出て行った。
 ドアまで見送った森岡は、明らかに堅気ではない風体の男が立っているのを確認した。
――まさか、彼女は暴力団関係者なのか。
 森岡の胸に不安が奔った。よくよく考えてみれば、初対面にしては口が軽過ぎる。心情を吐露したときの彼女に嘘は無かったと思うが、反面何かの目的のために近づいてきた可能性もある。
――彼女の真の目的はいったい何だったのだ?
 森岡の心には新たな戸惑いが沸き起こっていた。
 加えてもう一つ。
――もしや、筧か? 筧が鴻上のスポンサーとなって、形を変えた寺院ネットワークシステムの事業化を画策しているのではないか。
 美佐子を送り出した森岡は、須之内高邦に続いて鴻上智之という男の背後に筧克至の臭いを本能的に嗅ぎ取っていた。
 森岡は、榊原の存在を筧に教えてはいなかったが、裏切りを前提としていた彼であれば、目敏く嗅ぎ付けていたとしてもおかしくはない。
 森岡の憂いは、仮にあれだけ恫喝しておいた筧が、それを承知のうえで榊原に触手を伸ばしてきたとすれば、いかにして身の安全を担保する勢力を持ち得たか、ということであった。
『R』というのは、資金力、政治力の他に神栄会にも刃向かえるだけの暴力をも有しているというのだろうか。
 そして、探偵の伊能剛史が総本山で筧の姿を看とめたことと、Rはどのように繋がるのか。森岡は、ますます頭を悩ますことになりそうな予感を本能的に働かせていたのである。

「筧がまた悪さをしてんのか」
 南目が憤りを露わにした。
「まだ確証はないが、嫌な予感がする」
「普通であれば、あれだけ脅されたのですから、二度と敵対しようとは思えわないでしょうが、Rというのが気になりますね」 
 坂根は警戒の滲んだ口調で言った。
 森岡は無言で肯き、
「ほんま、女というのは恐ろしいな生き物やな」
 と嘆息した。
「なんや、急に」
「輝よ、実はな、茜は筧の裏切りを予見しとったんや」
「ほんまでっか」
「えっ」
 南目と坂根が同時に振り返った。
「こら、輝、前を見んか」
 森岡は南目に注意すると、
「筧がロンドで飲んでいる様子を見て忠告してくれたんだが、俺が無視してしまったんや」
「裏切りの予見だなんて大袈裟ですよ。私はただ胡散臭いと思っただけです」
「それでも大したもんやで、なあ、輝」
 はい、と南目は同調すると、
「ところで、茜さんから見て俺はどうですか」
「どうですかって?」
「胡散臭くないですか」
 ほほほ……と茜は笑った。
「胡散臭くはないですが、直情傾向は直した方が良いですね。そうでないと、いつまで経っても雷を落とされることになりますよ」
「綺麗な顔をして、言うことはきついな」
 決まりが悪そうに頭を掻いので、車中に笑いの渦が巻いた。
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