黒い聖域

久遠

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黒幕の影 第七章・決着(2)

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 法要の後、神村、森岡、谷川、弓削の四人は、総務藤井清堂に謁見する。森岡は、初めて正式に面会した清堂に、久田帝玄とは全く正反対の印象を受けたが、それは決して悪いものではなかった。清堂の柔和で上品な話ぶりは、法衣を纏っていなければ、まさしく貴人という表現が当てはまっていた。
 久田帝玄に野武士的な逞しさがあるとすれば、藤井清堂には公家的な気品があった。森岡は、法主はそれで良いのかもしれないと思ったものである。
 その場で、弓削から一億円の寄付の目録が清堂に手渡された。清堂自身もそれが神村によるものだということは承知していた。そして、法国寺の貫主の件から手を引いたことが、賢明な判断だったことをしみじみと実感していた。
 先ほどの神村に対する栄薩法主のもてなしといい、この一億円の寄付といい、さらに宗務総長の永井大幹や四十歳以下の青年僧侶で構成される妙智会会長の弓削広大までも味方に引き入れている現実を突付けられた。
 総務清堂は、もしそのまま神村を敵に回して戦いを続けていれば、如何なる次第になったであろうか、と想像しただけで背筋が凍りつく思いになっていたのである。
 さて、その面談中。
 総務清堂の背後から森岡に鋭い視線を送り続ける男がいた。清堂の命で清慶の許に送り込まれていた景山律堂である。
 彼は、我が師と我が身を窮地に追い込み、やむなく戦場から撤退せざるを得ないように仕向けた森岡とは、いったいどのような人物かと、一挙手一投足を注視し続けていたのである。

 景山律堂は大変に優秀な学生だった。
 その気であれば、在学中に司法試験や国家公務員Ⅰ種の資格試験にも合格することは容易だったと思われ、事実彼も二回生まではそれらを目指し、勉学に勤しんでいた。
 ところが三回生の春、彼の人生観を根底から覆す大事件が起こった。
 当時、景山には六歳年上の恋人がいた。高校受験を控えた中学二年生の春、母親の友人の親戚という触込みで、家庭教師を受け持った女性である。
 彼女の名は中川美那子。都内有名私立大学の現役女子大生であった。
 彼女は、家庭教師としては優秀だった。都内有数の進学校に通っていた景山の成績は悪くはなかったが、トップクラスということでもなかった。それが、見る見るうちに学力が向上し、三年生の春になると、常に上位三番以内をキープするようになった。全国でも五本の指に入ると評されている難関高校への進学も確実な成績であった。
 美那子は教え方も上手かったが、景山がことさら勉学に努力した裏には、彼女なりの仕掛けがあった。彼女は、景山に目標を与え、それが達成されると褒美を与えた。最初は、欲しい物や遊びに行きたい場所など、中学生らしい褒美だったが、美那子は、しだいに思春期の少年の欲望を満たすものに変質させて行った。
 頬への軽いキスから始まり、濃厚なフレンチキス、乳房へのペッティング、女性器への愛撫とエスカレートして行き、ついには都内随一の進学校への合格祝いとして、彼女は自らの肉体を与えた。
 言うまでもなく、景山は初体験だった。
 美那子は取り立てて美人というわけではなかったが、日本人離れした顔立ちが魅力的な女性だった。浅黒い肌に、豊満な乳房と引き締まった肉体、快活であっさりとした気性は、どちらかといえば内向的な景山の心を捉えて離さなかった。
 景山の高校進学が決まったのと同時に、美那子の就職活動が始まったため、家庭教師の役割はそこで終えたのだが、その後も二人の交際は続いた。高校三年間と帝大三回生の春を迎えるまでは、順調な関係が続いていた。
 少なくとも景山はそう思っていた。彼は帝都大学卒業後、美那子にプロポーズするつもりでいたのである。
 悲劇はそのような中で起こった。
 その日の午後九時頃、景山の姿が五反田のラブホテル街に見られた。美那子との情事を楽しむためではない。唯一といってもよい友人からの連絡を受けて、ホテル代を届けにやって来たのである。
 時間を掛けて、ようやく口説き落とした女性と、ホテルにしけこんだまでは良かったが、いざ精算する段になって、友人は青ざめた。ポケットに有るはずの財布がどこにも見当たらないのである。初めての情事の費用を、彼女に出してもらうには、あまりにばつが悪かった。そこで、景山に連絡を入れ、金を借りようとしたのである。
 ロビーで友人に金を渡し、ホテルを出ようとしたとき、背後のエレベーターが降りて来た気配を感じた景山は、自身がホテルを利用したわけでもないのに、罪悪感と羞恥心が入り混じった奇妙な感情に囚われてしまい、咄嗟に身を翻した。
 はたして、エレベーターから男女が出て来て、フロントで精算を済ませ出て行った。景山は、彼らを遣り過ごした後、少し間を置いてホテルを出た。
 これで終われば、どうということもなかったのだろうが、ここで運命が悪戯した。景山はそう思っている。
 ホテルを出た景山に、先ほどの男女の姿が映った。どうやら、タクシー待ちをしている様子である。近づくことができない景山は、しばらくその場に立ち止まっていた。
 やがてタクシーが止まり、乗り込んだ男女の顔が、車内の小さな電灯の光に浮かび上がった。
「あっ!」
 と小さく呻いた景山は、慄然としてその場に立ち尽くした。
 その男女は、中川美那子と父幸彦だったのである。
 意識が朦朧とするほどの衝撃を受けながら、景山は、はたと思い当たった。美那子は大手放送局・関東テレビ放送網に勤務していたが、その関東テレビ放送網の取締役人事部長が父幸彦なのである。
 景山は高校時代を想起した。
 見事難関高校に合格したことで、景山の両親も美那子には大いに感謝したものである。二人の交際は、両親には内緒にしていたが、家庭教師を辞した後も、何かにつけ美奈子は景山宅を訪問し、幸彦とも歓談していた。
 当時、大胆不敵な行動に舌を巻いた景山であったが、思い返せば、美那子の就職活動時期とも見事に重なっている。
――まさか、美那子は幸彦が関東テレビ放送網の人事部長、つまり新入社員の合否を決する重要人物と知って、接触していたのか。
 景山はあらぬ疑念に茫然自失となっていた。
 景山は探偵を使い、二人の素行を調べ上げた。費用の五十万円は、母親に頼み込んでヘソ繰りを融通してもらった。むろん、母には真実を語ってはいない。
 調査の結果、二人の関係は彼女が関東テレビ放送網に就職が内定してときから始まっていたと判明した。実に、五年の長きに亘って不倫関係を続けていたのである。また、普段はシティーホテルで利用していたようだが、その日はたまたま趣向を変えて、ラブホテルに入ったものということであった。
 これを運命の悪戯と言わずして、何と言うのであろうか。
 いずれにせよ、恋人しかも初恋の女性と、実父しかも家庭においては、厳格で真面目を絵に描いたような父に裏切られた景山の胸中や、如何ばかりであったろうか。おそらく、幸彦は美那子が息子の恋人であることを知らなかったと思われるが、何食わぬ顔で母を裏切っていることに違いはない。
 景山は、怒りを通り越して虚しさを覚えた。中川美那子の性悪を見抜けなかった自分自身にも愛想が尽きた。
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