黒い聖域

久遠

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黒幕の影 第五章・過去(10)

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 鳥取市のホテルに到着すると、洋介たちは部屋に荷物を置いて、タクシーで見相寺へと向かった。見相寺は市内から、内陸部すなわち中国山地の懐に向けて、二十分ほど入ったところにあった。
 到着してすぐに七回忌の法要が始まった。正導師に久田権大僧正、脇導師に神村僧正と興妙寺貫主で権大僧正の立花が務めた。他に十名もの僧侶が駆け付けていた。
 法要が終わると、精進落としの酒宴となった。
 洋介は茜と共に隅の方にいたが、久田帝玄の目に留まり隣の席に呼ばれた。さすがに帝玄である。全国から高僧ばかりが馳せ参じ、政財界を中心に数多くの地元の名士が顔を出していた。
 宴もたけなわのときだった。錚々たる面子が集った満座の中で、帝玄は突如立ち上がり、洋介をも立たせて皆に紹介すると、洋介は神村の腹心であり、此度の法国寺の一件でも自分のために骨を折ってくれている、と謝意を述べた。
 思い掛けない事だった。天下の久田帝玄から最大級の賛辞を贈られたのだ。
 嵐のような歓声と津波のようなどよめきが湧き起こり、やがて拍手の渦に包まれていった。商工会議所の会頭、地元銀行の会長、県会議員等々名立たる名士たちが次々と酒の勺をしに洋介の席にやって来た。しばらくの間、夢心地の中にいた洋介だったが、彼にとってはまさに面目躍如の一時であった。

 見相寺に泊まる神村を置いて、洋介ら四人はホテルに戻った。
 洋介は湯船に浸かりながら、茜のことを考えていた。車中での話に触発されたわけでもないだろうが、茜は見相寺で甲斐甲斐しく身体を動かしていた。いかに商売柄、接客には慣れているとはいえ、勝手のわからない宴席となると遠慮がちになり、酒の酌、食器を片付け、料理を運ぶことなどできそうで、なかなかにできないものである。
 洋介は、茜の姿に経王寺での奈津実の面影を重ね合わせていた。
 ちょうどそのとき、電話の着信音が洗面室に響き渡った。
 着信を確認すると茜からだった。時ならぬ電話に、洋介の胸は期待と不安が交錯した。
「どうかしたんか」
「あのね。昼間は森岡さんの話ばかり聞いていたでしょう」
「そう言われりゃあ、そうやな。俺一人でしゃべっていたな」
「だから、今度は私の話を森岡さんに聞いてもらいたいの」
――そういうことか……
 言われてみれば、森岡は彼女の私生活のことは何も知らなかった。いかな彼女の美貌でも、二十六歳の若さでロンドのような最高級クラブは持てない。だが、彼女の背後にスポンサーらしき男の影はない。洋介でなくても、素性に興味が湧くのは当然だった。
「駄目ですか」
「いや、ママが話したいのなら、俺も聞きたいな。今風呂に入っとるから、三十分後に最上階のラウンジでどうや? ラウンジは0時までやから、一時間ぐらいなら話せるやろ」
「では、ラウンジでお待ちしています」
 洋介は、速まる胸の鼓動に気づいていた。短い会話の中に、久しくなかった胸のときめきを覚えていた。心を寄せる女性の身の上話を聞くことなど、奈津実以来のことだった。
 三十分後、洋介がホテルの最上階にあるラウンジバーに足を踏み入れると、すでに茜はカウンターの奥の椅子に座っていた。
 洗い髪を束ね、綺麗なうなじを誇らしげに晒していた。薄黄色のセーターにポニーテールのいでたちは、着物のそれとは違う色香で洋介を惑わせ、横に座るや否や、火照った身体から発散された石鹸と香水の入り混じった匂い立つ芳香が、彼の脳を刺激し性欲を喚起した。
 ひととき、甘い気分に浸った洋介だったが、茜の告白が始まると、たちどころに雲散霧消した。
 そして彼は、茜が自分の過去にあれほどの涙を流した理由を知ることになった。

「私の父は広島で的屋(てきや)の親分をしていたの」
 茜はいきなり極道の娘だと告白した。
 洋介は『広島の的屋』という言葉に引っ掛かりを覚えたが、すぐに放念した。彼女の話に集中するためである。
 茜は広島で、神社の縁日などで露店を開く、いわゆる的屋の元締めの子として生まれた。幼少期は、世間の父親と同様、それなりに可愛がられて育ったが、小学校に上がった頃、愛人に男の赤子が生まれると、妻娘への愛情は若い妾とその男児に移っていった。
 茜は自身の宿命を呪い、母を粗略に扱う父を恨んだ。彼女のそのやるせない不満の捌け口は、中学の頃から不良仲間を集め、傍若無人の行いをすることに向かっていた。万引き、恐喝、美人局等々の悪行を重ね、警察の補導など日常茶飯事だった。
 しかし、彼女が十七歳のとき、的屋の頭だった父が広島での勢力拡大を狙った神王組と反目することになった。
 その結果、組織は解散させられ、父もまた刑務所送りとなった。虎の威が無くなった彼女は、立場が逆転し、いじめられる立場に追い込まれた。それまでの反動で、凄惨ないじめを受けた彼女は、母と共に這這の体で大阪に逃れたのだった。
「実は私、私ね……」
 茜が何度も言葉に詰まる。
「私ね、輪姦されたことがあるの」
 目に涙を浮かべ、血を吐くような声で告白した茜の身体は小刻みに震えていた。愛する男を失うかもしれないという恐れだった。
――ああ、なんて愛しい女性(ひと)なんだろうか。
 極限の勇気を振り絞った茜に、胸が熱くなった。
 洋介は、茜の肩に左手を回して引き寄せた。
「俺なんかよりずっと辛酸を舐めたんやな」
 そう言いながら、右手の指で優しく涙を拭いた彼の胸には、罪悪感も芽生えていた。
 極道の娘というだけでなく、女性にとっては命を奪われたに等しい災禍まで告白した茜に比べ、洋介は自身の精神を蝕んだ本当の理由を隠していたのである。
――これだけは、まだ茜にも言えない。いや愛した女性だからこそ言えない。
 洋介は心の中で手を合わせた。
 茜の話は続いた。
 自分たちの過去を知る者がいない新しい土地で、心機一転出直しを始めた母娘だったが、裏を返せば頼る者もいないわけで、必然的に困窮生活を強いられた。茜は家計を助けるため、アルバイトを掛け持ちした。その一つがレストランでの皿洗いだったのだが、これが彼女に幸運を齎した。
 そこである人物と出会うことになったのだが、その人物というのが北新地でも指折りの老舗高級クラブ『花園』のオーナーママ・花崎園子(はなさきそのこ)だったのである。
 園子は、一目で茜の素養を見抜き、夜の世界へと導いた。花園のホステスになった茜は、水を得た魚のように輝き始め、ある時その姿が日本経済界の大立者で、世界的大企業である松尾電器の会長・松尾正之助の目に留まり、彼の愛人になった。
 だがこれは、かつて松尾の愛人だった園子が、茜に悪い虫が付かないようにと仕組んだ親心であり、いざというときには、睨みを利かせてもらうつもりの保険だったのである。   
 園子の頼みで、形ばかりの愛人に応じた松尾だったが、茜の心根に感心し、しだいに情が移っていった。そして、いつしか実の孫娘のように可愛がるようになり、二年前に影の後見人となってロンドを出させたのだった。
「何や、お袋を憎んできた俺と、父親を恨んできたママは似た者同士のようやな」
 洋介はため息混じりに言った。
「本当ですね。森岡さんの子供の頃の話を聞いているとき、環境は違うのに、なんだか身につまされるようで、胸が締め付けられましたわ」
 あっ、そうかと洋介が目を見開いた。
「ママが殊の外極道者を嫌うのは、そういう生い立ちやったからか」
 そうです、と茜は正直に認めると、不安げに訊いた。
「森岡さん。私の身体は汚れているし、おまけに極道者の血も流れています。嫌いになりました」
「いや、逆や。正直言うと、ますますママに惹かれとる」
「まあ、嬉しい!」
 茜は頬を赤らめ、少女のような声を上げた。
「だがなあ、ママ。俺はそんな自分が怖いんや」
「怖いって何が? 私の気持ちはもうご存知でしょう」
「ああ、だから怖いんや。いっそのこと俺の片思いの方が、どんだけ気が楽やと思うくらいにな」
「どうして? 何を怖がっているの」
 茜は、それが洋介を苦しめる棘であると直感していた。
「ママ、俺が車の中で話したとおり、俺の大切な人は、皆早くに俺から離れて行ったり、死んでしまったり、不幸な目に遭ったりしとる。お袋は親父の暴力に絶えかねて、俺をおいて何処かへ行ってしまい、親父も祖父(じい)ちゃんも、女性の平均寿命からすれば祖母(ばあ)ちゃんかて早死にや。おまけに唯一の親友だった秀樹は、病魔に襲われてあんな身体になってしまった」
 洋介は、一段と悲しげな顔をした。
「そして、奈津実や。俺が最も愛した女性が最も短く、俺の許を去って行ってしまった。繰り返すようやが、俺はなママ、俺の人生は俺と親しくなった人の人生を犠牲にして成り立っていると思えてしょうがないのや。それでも血肉を分けた近親者やったらまだ気が楽やが、他人となるとそうはいかんのや。俺はママを愛してしまうと、ママに悪いことが起きそうで怖いんや。俺は奈津実を失ったときの悲しみを二度と味わいとうない。せやから、それやったら最初からママを好きにならん方がええとずっと思ってきたんや。朝、車中で言い掛けて止めたんはこのことやねん」
 洋介は心の葛藤を切々と吐露した。彼は近しい人、特に愛する女性に縁が薄い宿命にあるのではないかという屈託を持っていた。
 幼くして母に捨てられた寂しさと、初めて愛した妻に早々と先立たれ、深い悲しみを味わった彼の心の底に、そのような屈託が澱のように堆積していたとしても、無理のないことではあった。
 だが、茜は強く反駁した。
「そんなばかなことがあるはずがないわ。単なる偶然よ。仮にそうだとしても、そのことで女性に対して臆病になるなんて、貴方らしくもないわ」
 とまるで怒ったような語調だったが、
「それに……」
 と一転して茜は口籠った。
「それに、なんや?」
「いえ」
 彼女は口を滑らしたことを後悔していた。
「そこまで言ったんなら、最後まで言ってくれや」
 洋介は、躊躇する茜に強い口調で催促した。
「怒らないで聞いてね」
 茜が念を押した。
 森岡は黙って肯いた。彼女の言いたいことがわかっている顔つきである。
「それなら神村先生はどうなの? 貴方の理屈だと先生が最も近しい人でしょう? それこそ、血肉を分けた肉親よりも……」
「そうやねん。たしかにママの言うとおりや。せやけど俺は、先生は人間やない、半分生き仏様や思うとる。そんな先生には疫病神も死霊も近づけんのやないかな」
 茜の指摘は、洋介が最も恐れていたことであった。だからこそ彼自身は、心底そのように信じようとしていたが、茜はきっと突拍子もないことを言った自分に呆れるだろうと思っていた。
 ところが予想に反して、茜は真摯に受け止め、
「なるほど、そういう考え方もできるわね。でも、貴方に疫病神や死霊が付いているとしたら、それは貴方のそういう考え方自体なんじゃないの。私に言わせると、貴方の近親者に対する否定的な考え方そのものが、邪気を引き寄せていると思うわ」
 と重ねて反論したのである。
「うっ」
 洋介は、心の奥底を鋭い錐で突かれたような痛みを覚えた。茜の言葉は、真に洋介の精神の奥深いところを射抜き、彼に春秋学の『気』に関する記述の中に、そのような一文があったことを思い出させた。
「たしかにママの言うとおりかもしれんな」
 洋介は観念したように呟いた。
「絶対そうよ」
「……それなら、ママ……その」
 洋介が急に優柔不断になった。
「なに? はっきりと言って」
「その、俺の死霊がママに取り憑くかどうか試してええか」
「……」
 茜はしばらく目を白黒させていたが、やがて、
「うっぷぷぷ……ああ、おかしい」
 突然、堪え切れないように腹を抱えて笑った。
「吹き出すなよ。俺は大真面目なんやから」
「ごめんなさい。だけど、こんな口説かれ方したの、初めてだもの」
 そう言うと、一転真顔になった。
「でも、嬉しいわ。だって貴方、いえ洋介さんが神村先生に出会うために辛い思いをしたように、私のこれまでの苦労は、洋介さんに出会うためのものだったと思うことができるから」
 清々しい表情の中にも目には光るものがあった。
「それにしても……」
 突然、森岡が溜息を吐いた。
「なあに」
 茜は甘えた声で訊いた。
「後見人が松尾正之助とは恐れ入った」
「形だけよ」
「もちろん、これぽっちも疑ってはいないが……」
 洋介は指先を弾く仕種をした。
「余程気に入られているんやな」
「園子ママの手前だと思うわ」
 茜は洋介の懸念を払拭するように言った。
「いや、変な意味やないで」
 森岡は茜に笑い掛けると、思わぬことを言った。
「松尾会長は、茜を女としてというより事業家として見込んだのかもしれんな」
「それは、もっと有り得ないと思うわ」
 そう言った茜に笑顔が戻っていた。
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