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黒幕の影 第一章・突破(6)
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この間、森岡の様子を真向かいの離れた席から眺めている男がいた。森岡も視線に気づいていたが、視線を送ると遠慮がちに顔を背けたため、誰であるかわからなかった。
それでも、何度目かの視線を送ったとき、ついに目と目が合った。
その瞬間、
「あっ」
と、森岡は思わず声を漏らした。
真鍋に断りを入れて席を立ち、男に近付くと、
「一瞥以来です、須之内さん」
立ったまま挨拶をした。
「久しぶりだね、洋介君。まあ、座ったらどうだ」
須之内は横の席に誘った。連れが二人いたが、会社の部下だと説明した。
失礼します、と言って席に座った森岡は、
「奈津実の七回忌法要の節は有難うございました」
と、もう一度頭を下げた。
「早いものだね。奈っちゃんが亡くなって、もう六年も経つのだからね」
須之内は感傷的に言った。
この男、名を須之内高邦(たかくに)といい、森岡の義理の兄だった男である。亡妻の奈津実には姉が三人いたが、次姉の早苗の夫がこの須之内高邦であった。
「店に入って来たとき、すぐに君だとわかったが、お客連れのようだったので、声を掛けるのを憚っていたんだ」
「ロンドへは良く来られるのですか」
「いや、ママの噂を耳にしてね。最近通い始めたばかりだ。洋介君はずいぶんと親しそうだね」
「とんでもないです。私もまだ一年にもなりません」
「私と違い、洋介君は独身なのだから、羽目を外しても誰に咎められることもない」
須之内は、少し皮肉混じりに言った。
「そういえば、義父(ちち)から聞いたのだが、近々上場するんだって? 義父が、どうして黙っているのかと不満顔をしていたよ」
「上場は予定していますが、いつのことになるやらわかりません」
「義父の熱心な誘いを断ってまで、コンピューター会社に就職し、独立したのだから成功してもらわないと、義父も納得がいかないだろうよ」
「お義父さんのご期待に添えるよう頑張るつもりです」
森岡が神妙にそう言ったとき、ママの茜がやって来た。
「お二人はお知り合いでしたの」
「ママ。須之内さんは俺の義兄だった人や」
「義兄?」
「亡くなった妻の奈津実と須之内さんの奥さんは姉妹なんや」
「まあ、何という偶然でしょう」
茜は手を口に当てた。
「須之内さんは、大手企業の専務さんや。俺なんかと違って、接待も多い。せいぜい贔屓にしてもらいや」
森岡がそう言うと、
「何を言うんや。そっちは、上場すれば何十億、何百億の資産家になる身分やないか。私など、所詮はサラリーマンや」
須之内が切り返した。
「そうは申しましても、小さな会社は先行き不透明ですし、株の資産なんて有って無いようなものです。それに比べ、須之内さんは大手企業の株主兼重役ですから、安定したものでしょう」
そう応じた森岡の傍らで、
「あらあら、お互いにご謙遜の仕合っこですこと」
と、茜が呆れ顔で笑った。
森岡は奈津実が存命の頃も、須之内とは滅多に会話をしなかった。須之内だけでなく、他の二人の義兄とも交わりが浅かった。大企業のオーナー社長である奈津実の父正勝が、殊の外森岡を気に入っていたため、三人の義兄たちは、後継を巡って彼を牽制するところがあった。
中でも須之内は、森岡を非常に意識した。彼に最初に警戒の念を抱かせたのは、義妹である奈津美との結構式に、森岡の親族が一人も出席しなかったことだった。味一番は上場こそしていないが、紛れもなく我が国食品業界のトップランナーの一社である。末娘とはいえ、その創業者の娘婿に一般家庭はおろか、身寄りのない男を迎えるなど常識では考えられなかった。
取りも直さず、それはいかに森岡が有能であるかの裏返しだと須之内は考えた。他の二人の義兄弟は共に研究者だったため、営業畑の須之内にとって敵ではなかった。彼は、社長の椅子を巡る最大の宿敵は、大手企業菱芝電気でも名を馳せるほどに有能な森岡だと睨んでいたのだった。
奈津実が亡くなった後も、彼がIT企業を起こし、経営者としての能力を発揮していることから、ますます猜疑心を増大させていた。
「お義父さんはお元気でしょうか」
森岡は春の法要の折、どことなく覇気の無かった姿を思い浮かべていた。
あたりを見回しながら、
『一度、ゆっくり話がしたい』
と小声で囁いたときの、切実な口調が森岡の胸を過ぎってもいた。
「元気は元気だが、何せ七十歳を超えたからな。このところ頓に老け込んで行くのがわかる」
森岡は、一度会いに行きます、と言おうとして、
「そうですか」
と口を濁した。
――義父さんには何か思い悩むことがあるのかもしれない。
そう直感した森岡は、須之内の手前、思い止まったのである。
それでも、何度目かの視線を送ったとき、ついに目と目が合った。
その瞬間、
「あっ」
と、森岡は思わず声を漏らした。
真鍋に断りを入れて席を立ち、男に近付くと、
「一瞥以来です、須之内さん」
立ったまま挨拶をした。
「久しぶりだね、洋介君。まあ、座ったらどうだ」
須之内は横の席に誘った。連れが二人いたが、会社の部下だと説明した。
失礼します、と言って席に座った森岡は、
「奈津実の七回忌法要の節は有難うございました」
と、もう一度頭を下げた。
「早いものだね。奈っちゃんが亡くなって、もう六年も経つのだからね」
須之内は感傷的に言った。
この男、名を須之内高邦(たかくに)といい、森岡の義理の兄だった男である。亡妻の奈津実には姉が三人いたが、次姉の早苗の夫がこの須之内高邦であった。
「店に入って来たとき、すぐに君だとわかったが、お客連れのようだったので、声を掛けるのを憚っていたんだ」
「ロンドへは良く来られるのですか」
「いや、ママの噂を耳にしてね。最近通い始めたばかりだ。洋介君はずいぶんと親しそうだね」
「とんでもないです。私もまだ一年にもなりません」
「私と違い、洋介君は独身なのだから、羽目を外しても誰に咎められることもない」
須之内は、少し皮肉混じりに言った。
「そういえば、義父(ちち)から聞いたのだが、近々上場するんだって? 義父が、どうして黙っているのかと不満顔をしていたよ」
「上場は予定していますが、いつのことになるやらわかりません」
「義父の熱心な誘いを断ってまで、コンピューター会社に就職し、独立したのだから成功してもらわないと、義父も納得がいかないだろうよ」
「お義父さんのご期待に添えるよう頑張るつもりです」
森岡が神妙にそう言ったとき、ママの茜がやって来た。
「お二人はお知り合いでしたの」
「ママ。須之内さんは俺の義兄だった人や」
「義兄?」
「亡くなった妻の奈津実と須之内さんの奥さんは姉妹なんや」
「まあ、何という偶然でしょう」
茜は手を口に当てた。
「須之内さんは、大手企業の専務さんや。俺なんかと違って、接待も多い。せいぜい贔屓にしてもらいや」
森岡がそう言うと、
「何を言うんや。そっちは、上場すれば何十億、何百億の資産家になる身分やないか。私など、所詮はサラリーマンや」
須之内が切り返した。
「そうは申しましても、小さな会社は先行き不透明ですし、株の資産なんて有って無いようなものです。それに比べ、須之内さんは大手企業の株主兼重役ですから、安定したものでしょう」
そう応じた森岡の傍らで、
「あらあら、お互いにご謙遜の仕合っこですこと」
と、茜が呆れ顔で笑った。
森岡は奈津実が存命の頃も、須之内とは滅多に会話をしなかった。須之内だけでなく、他の二人の義兄とも交わりが浅かった。大企業のオーナー社長である奈津実の父正勝が、殊の外森岡を気に入っていたため、三人の義兄たちは、後継を巡って彼を牽制するところがあった。
中でも須之内は、森岡を非常に意識した。彼に最初に警戒の念を抱かせたのは、義妹である奈津美との結構式に、森岡の親族が一人も出席しなかったことだった。味一番は上場こそしていないが、紛れもなく我が国食品業界のトップランナーの一社である。末娘とはいえ、その創業者の娘婿に一般家庭はおろか、身寄りのない男を迎えるなど常識では考えられなかった。
取りも直さず、それはいかに森岡が有能であるかの裏返しだと須之内は考えた。他の二人の義兄弟は共に研究者だったため、営業畑の須之内にとって敵ではなかった。彼は、社長の椅子を巡る最大の宿敵は、大手企業菱芝電気でも名を馳せるほどに有能な森岡だと睨んでいたのだった。
奈津実が亡くなった後も、彼がIT企業を起こし、経営者としての能力を発揮していることから、ますます猜疑心を増大させていた。
「お義父さんはお元気でしょうか」
森岡は春の法要の折、どことなく覇気の無かった姿を思い浮かべていた。
あたりを見回しながら、
『一度、ゆっくり話がしたい』
と小声で囁いたときの、切実な口調が森岡の胸を過ぎってもいた。
「元気は元気だが、何せ七十歳を超えたからな。このところ頓に老け込んで行くのがわかる」
森岡は、一度会いに行きます、と言おうとして、
「そうですか」
と口を濁した。
――義父さんには何か思い悩むことがあるのかもしれない。
そう直感した森岡は、須之内の手前、思い止まったのである。
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